009 女嫌い(5)

 疑問はそこだった。イスパニアの言葉など少しもわからぬはずの自分が、クリスの話すことをあらかた解することができる。意味そのものはもちろんのこと、くだけた感じのする細かな言い回しに至るまで。あまつさえ自分が口にする日ノ本の言葉を、クリスが正しく理解してくれている……これはどう考えてもおかしかった。


 けれどもクリスはまた何でもないことのように平然とした口調で、五郎太の疑問に対する答えを口にした。


「ああ、そりゃおそらくファミリアの召喚だ」


「ファミリア?」


「自分の眷属としてオマエを召喚しようとしたってことだよ。要するに手下として引っ張ってきたってわけさ。手下にしようと召喚して意思疎通できなかったら意味ないだろ? だから猫だろうが蛇だろうが言葉が通じるようになるって話だ」


「……」


「人間まで召喚できるとは知らなかったけどな。もっともオマエのその様子じゃ誰かに使役されてるようでもなさそうだし、召喚はできたけど中途半端に終わっちまった、ってオチか」


「……」


「しかし帝国でそんな高位の精霊魔法を使える術者となると限られてくるな。ひょっとしてエルゼベートのやつが……」


 そう言ってクリスは考えこんでしまう。狐につままれたような気持ちで話を聞いていた五郎太は、けれどもそこで何となく合点がいくのを感じた。


 精霊魔法とはけだし妖術の類であろう。日ノ本から海を越えてイスパニアまで自分を飛ばし、あまつさえ言葉まで通じるようにする――五郎太が知らぬそのような妖術が、クリスの話によれば確かに存在するのだ。


 それに――そうだ。五郎太がまだ比叡の山にあった頃、台密にそのような邪法はなかったのかも知れない。だがなどとどうして断言できよう。右大将様が焼き討ってからこの方、お山が何も変わらぬままただ手をこまねいていたはずもないのだ。


 ――この十年で世の中は大きく変わった。鉄砲をみよ。三丁もあれば城が建つと言われた鉄砲は今や数打ちの武具となり、戦場ではその数が何よりものを言うようになった。


 そうした世の中をつくりあげたのは他ならぬ右大将様であり、お屋形様であるが、形ある武具が改良の一途をたどる裏で、お山がを練り上げてきたとしても何の不思議もないではないか。


 ――だが、そればかりではない。クリスの話が確かだとすると、五郎太はそこに恐るべきひとつの事実を認めざるを得ない。


「あのお山が、切支丹伴天連とよしみを通じたというのか……」


 呟いて、五郎太は小さく身震いした。


 ……にわかには信じ難い話だった。伝教大師の開山以来、御仏の教えを奉ずる寺々の頂点に君臨してきた宗門の長としての尊厳を自らかなぐり捨てる蛮行と言って良い。


 だがお山はその蛮行を敢えて採り、南蛮の妖術を取り入れた結果、通辞のおまけつきでこの俺をイスパニアに追放するまでの法術を編み出すに至ったというのか……。


 もちろん、不確かな推測に過ぎない。だがあの森の中で自分の耳に届いていた陀羅尼のうねりと、たった今クリスから聞いた話の内容とを併せて考えれば、どうもそう結論付ける他なさそうだ――


「しかし、それならば俺はこの先どうすれば良いのだ……」


 思わず胸の内が口を衝いて出た。


 図らずも知ってしまった叡山の秘を持て余したわけではない。正直なところ、そのあたりはどうでも良かった。


 お屋形様に危害が及ぶというなら捨て置けぬが、そのお屋形様はもう亡くなられた。おそらくお山が最も怨んでいたであろう右大将様も、もはやこの世の人ではない。この先お山にできることがあるとすれば、諸共に焼き討ちを担った筑前守に矛先を向けるくらいだが、それについてはむしろ大いにやってくれと鼓舞したいほどである。


 であるから、お山の意趣返しについては問題ではない。五郎太の困惑はまったく別の場所にあった。


(――このような異国で、俺は死にたくない)


 そう思う自分に、五郎太は珍しく本気で狼狽えた。


 行住座臥、いつどこで死んでも悔いはないと思い定めて戦場を駆けてきた。けれども日ノ本を遠く離れたイスパニアの地で死ぬなどという夢想だにしなかった事態に直面し、それは嫌だという強い思いが五郎太の胸に宿ったのだ。


 こんなところで死んでは日ノ本の土に還れないではないか――それが、イスパニアで死ぬことを五郎太が厭う理由だった。……下らない理由には違いない。だが、死ねばお国の土に還れると信じきっていた五郎太にとって、それは決して小さな問題ではなかったのである。


「――なら、オレんとこ来るか?」


 五郎太は弾かれたようにクリスを見た。ぼんやりした目で五郎太を見つめていたクリスは、表情を変えないままもう一度同じ言葉を繰り返した。


「行くとこねえんだろ? そんなら、オレんとこに来りゃいい」


「……」


 そこまで言われても、五郎太は反応できなかった。何を言われているのかわからなかった、と言い換えても良い。そんな五郎太にクリスはきまりが悪そうな表情をつくり、目をそらして乱雑に頭を掻きながら言った。


「……ったく、命の恩人に殺すだの秘密バラせだの、考えてみればオレもたいがいだな。ホントなら泣いて礼のひとつでも言うべきとこなんだろうが、あいにくそんなもん口にできる性格に生まれついちゃいねえ。ただ、そんなんで帝国の人間は礼儀がなってないって思われんのも癪だ。借りは返す。つけてな」


「……」


「それにな、ぶっちゃけ言うとオレはオマエに興味がある。言葉づかいはヘンだが、なんつうかこの国の人間にはないものを持ってる気がする。少なくともオレの周りにゃいねえタイプの人間だ。もうしばらくオマエと付き合ってみたい。だから、歓迎するぜ? オマエがついて来るってんならだけどな」


 相変わらずぶっきら棒な言い方だった。けれどもそのクリスの言葉には何となく親愛の情が感じられた。


 食客として迎える――クリスがそう言っているのだということを、五郎太はようやく理解した。……なるほど、考えてみれば食客を一人囲うことなど造作もないだろう。なんとなれば、この者は百人からの郎党を従える領主なのだからして。


 それでも五郎太は少し考えこんだ。だがいくらも考えないうちに、その回答を口にしていた。


「……すまぬ。その言葉に甘えさせていただく」


「決まりだな。だったらオマエの馬に乗っけてってくれよ。馬でも何日かかかる距離なんだわ、こっからだと」


「む……最初からそれが狙いだったのではなかろうな?」


「はあ? 人聞きの悪いこと言うんじゃねえ。驚くなよ? 命救ってくれた礼に、目ン玉が飛び出るようなお返ししてやるからな」


「ほう、それは楽しみだ」


 話はそれで終わりだった。蝋燭の灯を消すと小屋は元どおり漆黒の闇で埋め尽くされた。


 ひとつ屋根の下に女と一夜を共にしている――一度は忘れたその事実が再び意識に舞い戻ってきた。だが五郎太は固く目を閉じ、遠い故郷の景色を瞼の裏に思い浮かべることでそれを頭から追いやった。

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