008 女嫌い(4)

「――名前、なんてんだ?」


「ん?」


「オマエの名前だよ。なんて呼べばいい?」


 振り返ると、女はあぐらをかいて座っていた。それを見て五郎太も身を起こし、女と向かい合って座り直した。


「本名を坂本重光という。だが誰もそんな名では呼ばぬ。みな五郎太と呼ぶによって、お主もそう呼ぶが良い」


「ゴロータ? ヘンな名前だな。それに呼びにくい。ゴローじゃダメか?」


「好きに呼ぶがいい。お主の名は?」


「オレはクリス。オマエの真似すりゃクリスティアン・アウレリア・ファミラ・リ・エスペラスってのが本名なんだが、長ったらしくて呼びにくいだろうから特別にクリスと呼ばせてやる」


「クリスか。では遠慮なくそう呼ばせてもらおう」


「あと『お主』なんて妙な呼び方すんな。『オマエ』でいい」


「ふむ……わかった」


 口ではそう言ったが、クリスをそう呼ぶことに抵抗がないわけではなかった。『お前』というのは当代の日ノ本の人間にとって――もちろん五郎太にとっても、貴人に向けるべき敬称に他ならなかったからだ。


 だがクリスも五郎太のことをそう呼んでくれているのであるし、受け入れることにした。クリスも立場があるのだろう。そう考えればなるほど、百人からの郎党を率いる領主を呼ぶのに、お前という呼び方はいかにも相応しい。


「で、ゴローはどこから来たんだ?」


「ん?」


「ナリからしてこの国の人間じゃねえよな。どっかから流れてきたんだろ? どこから来たんだよ」


 そう問われてようやく、五郎太は自分が見知らぬ地で見知らぬ物ノ怪を相手に戦ったのだということを思い出した。


 正面から見つめてくる翡翠のように青い目と、黄金色の髪。……この者も明らかに日ノ本の人間ではない。それでも五郎太は一縷の望みをこめてあるがままの答えを返した。


「俺は、京から参ったのだが」


「キョウ? 聞いたことねえな。どのへんだ?」


 やはりそうか――と、五郎太は全身の力が抜けるのを覚えた。日ノ本の人間で京を知らぬ者などいるはずもない。それでも五郎太は未練がましく、嘘偽りのない答えを返し続ける。


「京というのは日ノ本の都で、日ノ本というのが俺のおった国よ。知らぬか」


「ヒノモト? それも聞いたことねえ。どこだよそこ?」


 畳みかけるようなクリスの回答に五郎太はがっくりときた。……やはりここは日ノ本ではないのだ。だが、それならばここはいったいどこであるというのか。


 改めてクリスの姿を見た。右大将様が着ておられた南蛮渡来の装束と、伴天連と同じ黄金の髪、同じ色の瞳。……まさかとは思う。どう考えてもあり得ない話だとは思うのだが、ひょっとしてここは――


「……のうクリス、逆につかぬことを聞くのだがな」


「なんだよ」


「ここは、何という名の国だ?」


「ここ? 決まってんだろ。ここはエスペラスだ」


「エスペラス……イスパニアではないのか」


 口の中で小さく呟いた。クリスの装束を見るにつけ、五郎太はこの地が切支丹伴天連の故地であるイスパニアに思えてならなかったのだ。けれどもクリスの口から出てきたのは違う名前だった。


 そうなるとここはイスパニアでもない。そう結論づけようとして、五郎太はふと立ち止った。


(――だが、待てよ)


 いつかお屋形様が言っておられた。『イスパニアの言葉は難解極まる。我らとは』と。……そう、切支丹伴天連は日ノ本のことを日ノ本とは呼ばない。よく覚えていないが、たしかヘポンとかスポンとかそんな呼び方をするのだ。


 だとすればイスパニアの人々が自分たちの国を我々の呼び名とは別の名で呼んでいても何の不思議もない。……それに、そうだ。イスパニアとエスペラス、何となく響きも似ているではないか。


 仔細は知る由もない。なぜそんなことになってしまったのか皆目見当もつかない。だがどうやら自分は、日ノ本から遥か海の彼方であるはずのイスパニアに迷い込んでしまったということなのかも知れない――


「どうしたんだよ、黙りこくっちまって」


「いや……のうクリス。俺はこれから突拍子もないことを言うが、驚かずに聞いてくれるか」


「はあ? そんなもん聞いてみなきゃわかんねえだろ」


「そうか……うむ、それもそうだな」


「なんだよ。言ってみろよ」


「つまりだな、その……どうやら俺は東の果てにある国から西の果てにあるこの国へ迷うてきてしまったようなのだ」


 踏ん切りをつけるべく、五郎太は一息に言い切った。


 その話を口にのぼらせるのは、五郎太にとってかなりの勇気が必要だった。どう考えても正気の沙汰ではないからだ。信じる信じないは言うに及ばず、気が触れたと思われてもおかしくない。


 さぞ呆れた顔をしているだろうと恐る恐るクリスを見た。けれどもクリスはそれまでにない真摯な顔を五郎太に向け、生真面目な声で静かに告げた。


「おそらく召喚術だな」


「……なんだそれは?」


「ぶっちゃけオレもよく知らねえが、精霊魔法の術式にそういうのがあるって聞いたことがある。ここへ来る前になにか呪文みたいなもんが聞こえなかったか?」


「呪文……あッ!」


 五郎太は思わず声を上げた。あの奇怪な森でお屋形様を追いかけていたとき響いていた陀羅尼――あれはまさに呪文に他ならない。……あれがそうだったということなのだろうか。


 お山の法術にそのようなものがあるなど聞いたこともない。……だが、あり得ない話ではない。自慢ではないが、坂本の五郎太といえば少しは聞こえた名である。家中並ぶものなき武辺を誇る自分が邪魔で西の果てに飛ばしたというのならば辻褄も合う。


 だがしかし、それならばそれで、そこにはもうひとつ大きな謎が残ることになる。


「しかし、それならばなぜ俺にイスパニアの言葉がわかるのだ。そればかりかなぜ喋ることまで……」

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