第19話

「先生! 開けてくれ!」


 病院に辿り着いたのは、夜明け前だった。建物裏手の非常口を叩きながら叫ぶ。間もなく気だるそうな声が返って来た。


「もう営業時間外だ。出直してくれたまえ」

「先生! 俺だよ!」

「……証君かい? どうしたんだ?」


 錆びた扉が軋みながら開く。そして、水浪漣が現れた。パジャマにサンダルをつっかけただけ格好のくせに、何故か白衣は羽織っていた。


「うわっ……。薄暗闇に立たれると、増々、迫力が有るな。不機嫌を通り越して、不気味だよ。一瞬、死神がお迎えに来たのかと思ったくらいだよ」


 漣が言った。要約すると「こんばんは」という意味だ。


「あんたも負けてねえよ」

「こんな美人を捕まえて何を言うんだ。言っておくけれど、夜這いならお断りだ」

「するか! それより、入れてくれよ」


 漣は思い切り嫌そうな顔をした。それでも、俺達を中に招き入れる。


「先生。呑んでるのか?」

「少しだけな」


 素面の漣は、まともに相手の顔を見ないで、たどたどしく話す。しかし、多少のアルコールが入ると、こうして滑らかに喋る事ができた。おおよそ、医者には向いていない。


「ん。いや。今日は、少し呑み過ぎたかもしれない」

「どうして?」

「リンゴちゃんの頭に、猫の耳が見えるよ。にゃんにゃん。ひひっ」


 詩がさりげなく、漣とリンゴの間に割って入る。


「せ、先生。それは流石に飲みすぎだろ」

「ひひっ。そうだねえ」


 俺達は漣の部屋に通された。部屋と言っても、病室の一つに、パソコンやら、電子レンジやら、冷蔵庫といった家財道具を持ち込んだだけだ。


「それで、君達はこんな夜更けに、何の用事だろう?」

「先生。これ」


 詩が、漣の机に段ボール箱を置いた。


「さて。何のプレゼントだろうか?」


 漣は箱を開けて、中から茶色の小瓶を取り出す。彼女の表情が変わった。


「イソフルラン。君達、これは何処で?」

「マフィアから貰ったんだ」

「付けられてないか?」

「全員、巻いたよ」


 今頃、自衛隊とドンパチしてるだろう。


 漣は小瓶を摘まみ上げると、角度を変えながらしげしげと眺める。


「君は、護衛の依頼は受けなかったはずだが?」

「そう。だから、これは善意だ」

「見返りは?」

「要らないよ」

「却って恐ろしいな」

 

 漣が眉を顰める。その反応は極めて自然だと思う。


「心配すんな。俺は反対したよ」


 目線で詩を示す。


「なるほどな」


 それだけで、漣は納得したらしい。


 ふと、リンゴが訊く。


「ミユは、たすかる?」


 漣は口の端吊り上げてニヤリと笑うと、答えた。


「ああ、もちろん。間違いなく助かるよ」




 翌日、手術は滞りなく行われた。


 手術室から、寝台に載せられたミユが運び出される。リンゴが駆け寄った。彼女はこの数時間、ずっと手術室の前で、せわしなく歩き回っていた。その様子は捨てられた子犬のようだった。


「……だ、大丈夫。麻酔で眠ってるだけ。ひひっ」


 アルコールが抜けている漣は、目を逸らしながら答えた。

「じ、じきに、目が覚めるよ。ひひ。……あ、あまり見ないでくれ。ひひっ」


 真っ直ぐなリンゴの瞳に、耐えられなかったらしい。漣は顔を手で隠しながら言った。


 窓際に置かれたベッドに、少女は寝かされていた。穏やかな寝息を立てている。その傍で、リンゴは友達の目覚めを、今かと待っていた。俺達は少し離れて、その様子を見守る。


「そ、そろそろ、だよ」


 漣が言った。身体の横に、力なく垂れた少女の腕。その指先が、僅かに動いた。リンゴが眼を見開く。


「み、ミユ!」

「……んっ」


 そんな声が漏れた。ゆっくりと、少女の瞼が開く。


「……リンゴ?」


 リンゴが少女に抱き着こうとするので、襟首を掴んで止める。


「よせ。手術したばかりだ」


 少女は、まだ半分夢の中といった様子だった。ベッドに寝たまま、ぼんやりとした目つきで、俺達の事を眺めていた。その手が、ゆるゆると上がる。そして、リンゴの頬に触れた。


 リンゴは、自分の頬に当てられた手を両手で抑えながら、泣いていた。良かった、良かった、と繰り返す。そんな様子を見て、詩まで涙ぐむ。どうでも良いけど、俺の服はちり紙ではないので、肩口で鼻をかむのは止めて欲しい。


「……また、助けてもらっちゃった。……ありがとう」


 ありがとう。


 その言葉を聞いて、リンゴの頬がさっと赤くなる。彼女は、ブンブンブンと首を振った。


「そ、そんなことない。ぜんぜん、ない」

「何言ってんだよ」


 リンゴの帽子の上に、ポンと手を置く。


「頑張ってたぜ。こいつは」

「あかり⁉」

「こいつのおかげだよ」


 少なくとも俺は、この少女を助けるつもりなんて無かった。リンゴが居なければ、あのまま見捨てていたと思う。


「……リンゴは、強いね」


 少女はそんな事を言う。


「そんなことない」

「……でも、私たち、会ったばかりなのに、こんなにあぶない思いをして、助けてくれた」

「でも、ともだちだから」


 それを聞いた少女は、頬をやや赤らめ、夢見がちに呟いた。


「かっこいい……。私は、退院したら、きっと、リンゴみたいになるよ。リンゴみたいに、強くなる」


 リンゴは鳥打帽を深く被るようにして、俯きながら、その賛辞を聞いていた。

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