第14話 忘れたい過去


 その夜は、風が強かった事を覚えている。


 ビョウビョウと吹く風は海面を波立たせ、ゴミ山のゴミを撒き散らした。俺たちは廃材で作った小屋に潜り込んでいた。小屋は、今にも風で飛ばされそうだった。


 夜更けだったと思う。熱気と、煙臭さで目が覚めた。


「火事だ」


 仲間の内の誰かが言った。


 珍しいことではない。


 ここは新・夢の島。青色地区のゴミ捨て場だ。溜まりに溜まったゴミが、東京湾に、地図にも載るほど巨大な陸地を造り上げていた。ゴミの分別なんて有ったものじゃないから、電化製品が普通に捨てられていたりする。何かの拍子に、それが発火するのだ。


 そんな事はしばしばだったから、俺たちは慌てることもなかった。眠い目を擦りながら、とぼとぼ歩いて寝床を後にする。


 しかし、しばらく歩いてみて、いつもとは違う事に気がついた。

 

 どちらに歩いても、炎と煙の切れ目が無い。

 

 普段は、熱気と煙から遠ざかるように歩けば、火事から逃げる事が出来た。今日に限っては、どちらに歩いても、目の前に火の壁が現れた。まるで、炎の迷路をさ迷っているようだった。


 炎は激しく燃え上がり、その陣地を広げていく。


 俺達は必死にその隙間を探した。


 しかし、見つからない。


 唇はカサカサに乾いて、水分を失くした喉が焼けるように痛む。吸い込んだ煙のせいで、肺が軋んだ。


 その夜は、いつになく風が強かった。


 気が付いた時には、既に逃げ道は無かった。


 もう、歩けない。


 俺達は、まだ火の手が回っていないゴミ山の斜面に、座り込んだ。間もなく、ここも炎に呑まれることは確実だった。


 死、と言うものを強く意識したのは、その時が初めてだったと思う。意外かも知れないが、死が身近にあるスラムで暮らしていると、死について考えない。


 一日を生きるので精一杯だから、この先、生きるだとか、死ぬだとか、考える余裕なんて無い。この空腹をどうやって満たすか。それで全部だ。


 だから、初めて死と対峙した俺は、恐怖でガタガタと震えた。赤く染まっていく視界の中、ひたすらに震えていた。仲間たちも同じだったと思う。


 やがて、炎が俺達にも届いた。


 赤い舌先が、やせ細った孤児の身体を舐めると、彼らの身体はすぐに壊れていった。


 最初は皮膚。


 炙られた皮膚の表面が、ぷくぷくと泡立つように膨れ上がる。その皮もすぐに破れて、下の赤い肉がむき出しになる。


 染み出した体液が、ジュクジュクと沸騰する。


 彼らは、狂ったように身体を捩っていた。炎の熱で膨張した骨が、自ら折れているのだ。全身の骨が次々と骨折していくような状態だ。


 共に笑いあっていた仲間の口から、亡者のような声が漏れた。そもそも、あれは声だったのか。単に身体が崩れていく音だったのかもしれない。


 仲間のシロ、もしくはシロだった物が、俺に向かって手、のような物を伸ばす。


「あ、ああ……」


 炎の中から差し出されたその物体を見て、俺は、ただ、目を瞑る事しか出来なかった。目を瞑ってさえ、その凄惨な光景がありありと浮かぶ。まるで、仲間が燃える様子を、瞼の裏側に張り付けられてしまったようだ。


 しかし、同時に俺は気が付く。


 何故、俺は、彼らが焼けていく様子を見る事が出来るのか。


 それは、俺が生きているからに他ならない。


 目を開けて、自分の手を見る。それは確かに手だ。火傷が有って、爪もボロボロだけど、人間の手だ。五本の指は、念じた通りに動かすことが出来た。シロが差し出した、手のような物とは違う。


 何故。 


 辺りを見渡すと、俺の周りにだけ炎が無い。


 周り、といっても大した広さは無い。せいぜい、周囲、数十センチほど。


 気づけば、俺は詩を抱いていた。詩も俺の事を抱きしめている。彼女も戦慄の表情で、燃えていく仲間を見ていた。仲間たちは最早、ゴミ溜めのゴミと区別がつかないくらいだった。


 俺達姉弟は、炎の空隙で、震えながら抱き合っていた。


 どのくらいの間、そうしていただろうか。


 ぽつり、と一滴の雫が落ちた。


 一滴は十滴になり、十滴は百滴、千滴となった。


 驟雨が地に注ぐ。


 いつの間にか、炎は消えていた。


 雲の切れ間から金色の光が差す。


 夜明けだ。


 肌はあちこち火傷し、髪はチリチリに焦げ、カサカサに乾いて割れた唇からは血が滲んでいた。それでも、生きていた。


 俺も、詩も、生きていた。


 俺達は生きていた理由は、今思えば、万象律が発動したからだ。


 温度とは、物体を構成する分子の運動の激しさだ。ただ、全ての分子が激しく動いているわけではない。中には大変激しく動いている分子と、穏やかな分子が存在する。温度とは、その平均だ。


 もしも、偶々、穏やかな分子ばかりが一か所に集まったらどうなるだろう。当然、その場所の温度は低くなる。万象律は、人間の持つ秩序と引き換えに、その偶然を引き起こす。結果として、俺と詩の周りには、炎の無い空間が在った。


 しかし、人間が誰しも、この奇跡を起こすことは出来ない。


 e‐2《いーつー》遺伝子。

 

 その遺伝子を持つ者だけが、万象律に適性を示す。


 今わの際になって、俺達の中の e‐2遺伝子が発現した。

 

 てっちも、みなみも、シロも、あかねも、持っていなかった。

 

 だから、死んだ。

 

 俺と詩は、持っていた。


 だから、生き残った。

 

 誰が悪いわけではない。遺伝子は生まれた時には決まっていて、自分では選べない。もちろん、後から書き換える事もできない。

 

 生と、死。

 

 その境界は、ただ、幾つかの、塩基対に過ぎなかった。

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