アステール神話の断章 人と悪魔の二人の剣士

和泉茉樹

アステール神話の断章 人と悪魔の二人の剣士

     ◆


 神々と妖精、そして悪魔の時代。

 神々は東の山脈へ去り、悪魔が人間たちの世界へ雪崩れ込んでいた、戦乱の時代。

 これは人間の勢力圏の一角のさらに小さな一点、小規模の城塞都市ファスーの物語である。


     ◆


 僕、スナグは入り組んだ路地の奥、小さな井戸を真ん中にした広場で、剣を振っていた。

 普通の剣をより長いけど、幅が狭いので、重さは感じない。

 繰り返し繰り返し、型を練習する。

 切っ先が弧を描き、キラリ、キラリ、と刃が光を反射した。

 東雲、篠月、昇竜、烈火、そして波紋と型を連続して続け、ピタリと剣を止める。

 ふぅっと息を吐き、剣を振って鞘に戻し、肩の力を抜く。

「見てて楽しい? トロエ」

 広場は一段低くなっていて、路地に通じるところにある段差に、少女が腰掛けている。

 トロエは僕の幼馴染で、一歳年上だ。家が近所で、三歳になる頃から一緒に遊んだり、勉強したりしていた。

 でも彼女は多くの女の人と同様、剣術を習うことはなくて、料理や裁縫に熱心になっていた。

 汗を拭う僕にタオルが投げつけられ、次に水筒がやってくる。

「悪魔がすぐそこに来ているのに、稽古なんてしている余地があるわけ?」

「この街の城壁はそう簡単に落ちないし、魔王軍も無理に攻めてはこないさ。犠牲を出す戦い方は、根本的に生存本能に反するよ」

「それが戦争という興奮状態で麻痺する、ということもあるわ」

「じゃあ、冷静さを取り戻させる戦い方をすればいい」

 屁理屈を。そう呟いて、トロエが顔をしかめる。

 水筒の水を飲んで、噴出す汗を拭ってから、二人で連れ立って広場を出た。

 以前は賑わっていた大通りも今は閑散としている。

「まだ食料があるからいいけど、どうなるのかしら」

 事実、それは僕にも、実際のところを知らないし何の力も権限もないけど、懸念材料の一つだった。

 ファスーの街が魔王軍に完全に包囲されて、二週間が過ぎていた。

 守備する兵士は全部で千人隊が二つ、守られる住民は八千人とも言われている。魔王軍の来襲を前にして、大勢の住民が逃げたけど、逃げ遅れた形だった。

 守備隊は城壁を利用して、悪魔を押し留めている、かと思いきや、魔王軍は持久戦の構えで、要は兵糧攻めを決行していた。

 だからいずれ、このままではファスーの街は陥落する。

 まだここにいる人たちはひもじいながらも食べるものはある。しかし、食べ物がなくなれば、悲惨、凄惨な事態になるだろうことは、想像に難くなかった。

 僕たちは人気のない商店を横目に生活している集合住宅の一つに入った。そこではトロエの両親がまだ残っていて、僕もそこで世話になっている。僕の両親はとっくに逃げ出した。

 僕は、逃げることを選ばなかった。

 僕だって戦える、と思ったからだ。

 剣術を習い始めた時、すでに魔王軍は人間たちの生活圏を脅かしていた。

 自分が英雄になれるとか、勇者になれるとか、そんな夢は最初から見なかった。

 ただ誰かを守ることはできる、と信じることは、痛いくらいに強く意識した。その意識が、厳しい稽古を耐える力になった。

 師匠の訓練は厳しく、最初こそ、音を上げて、どうにかして逃げ出してやろうと思うことも多かった。

 それでも逃げなかったのは、ファスー守備隊の兵士の腕に巻かれた街の紋章が刺繍された腕章、そして、トロエのことが頭に浮かぶからだ。守護者の証と、守るべき存在。

 栄光の幻は、腕章とトロエ、その二つで、どれだけ揺らいでどれだけ汚れても、すぐにピタリと動揺をやめ、輝きを取り戻した。

 いつからか誰かが僕を、天才剣士と呼び始めていたのは知っている。僕がその呼び方を知ったのは、今から二年前、僕が十五歳の時だった。

 あまりにも若い、幼いと僕自身が感じたけど、僕の剣はすでに異質だった。

 同じ門下生を相手に、余裕を持って相手を打ち倒し、負けることがない。

 何より、奇妙な剣術、誰が教えたのでもない、独学の技が武器だった。

 いつか僕にも守備隊に入るように声がかかるかもしれない。今現在も、人手は欲しいはずだ。

 そう思うと、緊張と同時に興奮がやってきて、落ち着かなかった。

 でも、乱戦の中で僕の剣が生きるだろうか。

 僕は稽古では同時に四人を相手にしたことがある。ただの四人で、しかもちゃんと戦いが始まる瞬間が設定されていた。

 実際の戦場では、合図などない。何でも起こる。敵が増えることだってあるし、踏み潰し押し潰してでも突破しようとする、そういう世界なのだ。

 そう思うと、やってやる、と思う一方で、できるのか? と疑問が起こる。

 僕とトロエ、彼女の両親で質素な料理を食べ、休んだ。

 翌朝、早く起き出して人気がないどころか、生活感さえも失われたような街を走った。呼吸が荒くなるけど、決して負担ではない。体力作りは習慣だ。

 太陽の光が強くなるまで走り続けて、部屋に戻った。トロエの母が料理を温め直してくれる。

「スナグ、あまり無理をしてはいけないよ」

 そう言って、目の前に料理の盛られた器と、水の入ったグラスが置かれた。

 礼儀正しくそれを平らげて、最後に水を飲み干し、剣を手に外へ出ようとした。

 誰かがドアをノックして、トロエの母が玄関へ行く。僕はその横をすり抜けるつもりで、あと追う形になっていた。

 玄関のドアが開けられると、汗と垢の匂いが薄く漂った。

 そこにいる男はかなり大柄で、その上で鎧を着込んでいるので、余計に大きく見えた。

 ぽかんとしてトロエの母が見上げる先で、男、つまり、兵士は頭を下げた。

「ファスー守備隊の百人隊長のルッズです」

 僕も玄関で立ち尽くしていた。

 ついに、待ちに待った時が来たらしい。

 僕が兵隊になり、街を守る。

 心構えができていたはずだったけど、ひどく狼狽している自分に気づく。

 恐怖、というものが僕の心の中で、はっきりと見えた。

 そんな僕をルッズ隊長が見やり、どこか険しい顔になり、次にまたトロエの母を見た。

「スナグの力がどうしても必要なのです。どうか、ご協力を」

 唐突にトロエの母がヘナヘナと崩れ落ち、両手で顔を覆って泣きだした。

 トロエとその父もやってきたが、僕はトロエをちらりと見て、「行くことになった」とだけ言った。

 僕は剣を腰に吊るし、一歩、玄関へ踏み出す。

「子どもを……!」

 泣き声の中で、トロエの母が激しい口調で言った。

「子どもを戦わせるなんて人でなしよ!」

 誰も何も言わず、立ち尽くした。

「あなたたち兵士や、私たち大人が、守らなくてどうするの!」

 顔を隠していた両手が、ルッズ隊長の襟首を掴んでいた。

「あなたたちが戦いなさい! そのためにいるのでしょう!」

 彼女を見る兵士の瞳にも、懊悩があるのが僕にはよく見えた。

「彼に頼るよりないのです。ご理解を」

 理解なんて、と呟くのが、トロエの母の限界だった。

 僕は部屋を出て、ルッズ隊長と一緒に街を歩いた。建物の外で待機していた兵士が二人、ついてくる。

「スナグ」ルッズ隊長が静かな声で言った。「お前に兵士になって欲しい訳じゃない、それははっきりさせておく」

 え? と思わず彼を見ると、彼はいよいよ厳しい顔になっている。

「決闘だ」

 決闘……?

「悪魔と決闘するのですか?」

「そうだ、一対一で、正々堂々、剣術をぶつけあう。お前が負ければ、悪魔は全力でこの街を押し潰す。だが悪魔を三体倒せば、奴らはこの街を去る」

「三体、ですか? こちらは一人なのに?」

 そうだ、と苦り切った声で、押し殺した声で返事がある。

「すでに二人が挑んで、切られた」

「悪魔を一体も切れずに?」

 そうだ、ともう一度、返事があった。

 なにやら、おかしな展開だが、僕は重すぎる重荷を背負ったようだった。

 城壁が近づいてくる。


     ◆


 ファスーの城壁の外に出たのは、久しぶりだった。

 そして、目の前に居並ぶ悪魔の大軍勢の威容は、僕の意識を一時的に麻痺させるのに十分だった。

 数は、万を超えているだろう。もし城壁の上に立って見渡したら、今以上に困惑したはずだ。その辺りはルッズ隊長の策略か。

 ゆっくりとルッズ隊長とその部下の二人と、悪魔の陣地の方へ歩いていく。

 笛が鳴り、ルッズ隊長が僕の腕を掴んだ。立ち止まる。

 悪魔の群れから、異形の馬らしいものに乗った悪魔が進み出てくる。立派な鎧を着ていた。

「あれがダリブという将軍だ」

 こっそりルッズ隊長が教えてくれる。

 そのダリブという悪魔に続いて、三体の悪魔が進み出てきた。

 まるで人間のようだが肌が黒い。

「その者が最後の挑戦者か」

 いきなりダリブが人語を話したので、僕はこれにも驚いた。悪魔でも人語をしゃべる者がいるのか。完璧な発音だった。

「そうだ!」ルッズ隊長が叫ぶ。「このものに我々は全てを賭ける」

 よかろう、と応じたダリブが、三人のうちの一人、一番体格のある悪魔に何か声をかけると、その悪魔が進み出てくる。両手に斧を持っていた。

 気づくと、僕の手は震えていた。

 怯えているのか?

「これを預ける」

 ルッズ隊長が自分の腕から、守備隊の腕章を外し、僕の腕に巻いた。

「頼む、スナグ、勝ってくれ」

 思わず腕章に触れていた。手の震えが、止まった。

 勝ってくれも何も、負けることはそのまま死ぬこと意味するわけで、僕個人としても、頑張らないわけにはいかない。頑張る、というのも変だけど。

 覚悟と重圧を、同時に感じた。

 こちらも進み出て、腰の剣の柄に手を置いた。

 次の瞬間には目の前に悪魔がいる。速すぎる!

 斧の一撃を身を逸らして回避、続く時間差の一撃を抜いた剣で逸らす。

 怒涛の攻撃だった。

 体力に自信があるのか、悪魔は休みなく打ち込んでくる。

 僕は転げるように下がり、転げるように横に移動し、逃げ続ける。

 悪魔の大軍勢が歓声を上げ始める。一方でファスーの街の方、城壁からは何の声もしない。

 絶望しているのか?

 勝手に絶望しないでくれ。

 一瞬だった。

 僕の剣の切っ先が鋭い軌道で走り抜け、血飛沫がその後に舞い、落ちる。

 斧を握ったままの悪魔の左腕が肘で切り飛ばされていた。

 何も分からない悪魔の右腕を、容赦なく手首で斬りとばす。

 ピタリ、と首筋に切っ先を当てる。

「勝負あり、かな?」

 悪魔が吠えて、飛びかかってくる。

 噛みつきで攻撃か。

 野蛮だ。

 ぴゅっと切っ先が首筋を深く抉り、僕は悪魔とすれ違い、悪魔の体は力を失い、倒れこんだ。

 悪魔の軍勢が一瞬、静まり返り、また声が上がる。体が震えるほどの大きな声が、意識できないほどの数で重なってくる。

 二体目の悪魔がやってくる。片手に剣を持ち、片手に小さな盾を持っている。

 今度はさすがに手こずった。

 先ほどの悪魔のようながむしゃらな攻撃はしてこない。

 盾を掲げて間合いを消され、僕は斬撃を跳ね返すが、こちらの反撃は悪魔が後退するせいで盾に防がれてしまう。

 なら、こちらから間合いを消していくしかない。

 間合いを詰め、連続攻撃。悪魔は防戦一方になる。

 ここだ、と定めた場所で、僕は全身に力を込め、剣にそれを乗せた。

 息を止め、一撃を繰り出す。

 甲高い音を上げて、悪魔の盾が二つに割れた。

 しかしここで僕には決定的な隙ができている。

 切り下ろした剣の切っ先は地面すれすれにあり、姿勢はそれを即座には跳ね上げることはできない。

 悪魔が笑ったのがわかった。

 刺突が、僕の胸めがけて突き進んでくるのは、知っている。

 攻撃不能、防御不能。

 だったら、回避すればいい。

 回避するには姿勢が乱れすぎているが、それでも選択肢はある。

 剣術とは、そういうものだ。

 つま先、足首、膝、腰が、その一連の動作を実行する。

 全てが完全に噛み合う。わずかな力の加減が、連鎖的に大きくなる。

 見ているものからすれば、僕の体が地面を滑ったように見えたかもしれない。

 不自然な滑り方でだ。

 僕の体のすぐ横を悪魔の剣の切っ先が、何にも触れずに通過しようとする。

 僕の目の前には、今度は逆に大きな隙を見せている悪魔がいて、そこを逃す僕でもない。 

 下げたままだった切っ先が空へと駆け上がる。

 左の腰、腹から胸を超えて肩まで、僕の剣が切り裂く。

 すれ違い、振り返る。

 悪魔も振り返ろうとしたが、傷から大量の血が噴き出し、倒れて動かなくなった。

 またも悪魔たちが沈黙する。それも束の間、今まで以上の声が上がる。ヤジなんだろう。

 今度ばかりは城壁の方でも声が上がった。

 人間の挑戦者は二人切られたというが、僕が悪魔を二体切ったので、これで同じ立場だ。

 決着の時間、ということかな。僕は剣を下げたまま、三体目の悪魔を見る。

 ゆっくりと進み出てくるのは、まだ若いように見える悪魔で、手には鞘に納まった剣を下げている。

 その動きを見て、僕は思わず緊張した。

 動きに無駄がない。そして平衡感覚の良さが、ただ歩くだけでもひしひしと伝わってくる。

 最高の使い手かもしれない。

「名は?」

 離れて向かい合ったとき、悪魔が訊ねてくる。

「スナグ」僕は答えつつ、身構えた。「あんたは?」

「死ぬものに教える名はない」

 大きく出たな、とでも言い返そうかと思った。

 しかしその悪魔の姿が搔き消える。

 見えている。

 身を仰け反らせる鼻先を切っ先が通過。悪魔はすぐ横だ。

 仰け反る勢いて後方宙返り。姿勢を取ったところへ追撃の一撃を、受け止める。

 ただ、軽い。これは誘いか。

 剣が剣に絡みつく。

 手首を切り落としにくる攻撃を瞬間的に片手を離して、避ける。

 ただもう一方の手から剣が弾き飛ばされる。

 武器を失った僕に悪魔の容赦ない一閃が襲いかかった。

 判断は本能がした。

 こちらからも体をぶつけに行って、攻撃を躱すのと同時に、その手首を掴む。

 悪魔が人間とは桁違いの剛力で抵抗し振りほどこうとする力をも利用し、投げる。

 相手の両足が宙に浮くが、際どいところでこちらの手が悪魔を放してしまう。

 不完全な投げでも姿勢が乱れたことを嫌い、悪魔が離れる。

 やっと落ちてきた剣は、僕が予想していた地点そのままで、つまり今、僕がいる場所だ。

 手の中に落ちてきた剣を掴み、構える。

 互角、と呼べるだろうか。

 際どい勝負になるだろう。

 どちらからともなく、一直線に間合いを詰めた。

 超高速で攻撃が連続してすれ違い、それなのにお互いに傷を負わない。

 攻撃しつつ、回避している。

 この勝負の決着は、そんな安全をより捨てた方に軍配が上がる。

 何も考えずに僕は、その超えてはいけない線、生き延びるとする意思を、捨てた。

 悪魔の剣が左肩をかすめる。

 僕の剣も、悪魔の脇腹をかすめた。

 次が必殺。

 剣が交差する。

 甲高い音。

 宙に舞った剣が僕の手の中に落ちてくる。悪魔の剣だ。

 すれ違った悪魔を振り返ると、愕然とした顔でこちらを見ていた。

 全くの無傷。

 僕も驚きを隠せなかった。

 切ったはずだった。最後の最後で、悪魔は絶対の死を孕んだ一撃を、凌いだのだ。

 だが、形の上では僕の勝ちだろう。

「もう良い」

 そう低い声で言ったのは悪魔、ダリブだった。

「我々も使い手を失うのを肯んじる理由はない。この場は、お前たちの勝ちとしよう」

 宣言してダリブは悪魔たちの陣の方へ進んでいった。

 僕の前では悪魔の青年がこちらを見ている。敵意しかない瞳で、はっきり言って、怖い。

「あんたの剣だ」

 奪っていた剣を投げ返すと、彼はちゃんと掴み止めた。

「アーテン」

 急に悪魔が言ったので、何を意味するか、わからなかった。

「名前だ」悪魔が呟く。「俺の名前は、アーテンという。また会おう、スナグ」

 また会うことなんて、あるかな。

 アーテンも悪魔の軍勢の中に消え、やっと落ち着いて息を吐いて、剣を鞘に戻した。

 唐突に大歓声が上がり、何事かと思うと、ファスーの城壁からの声だった。背後に控えていたルッズ隊長も大声をあげ、拳を突き上げている。

 僕だけがどこか冷静で、異質な存在のようだった。

 しかし、勝ったんだ、良しとしなくちゃな。

 僕は一歩一歩、ゆっくりと城壁の方へ歩き出した。


     ◆


 それから数日は大騒ぎだった。

 悪魔たちは撤退し、ファスーは解放された。

 僕は街を救った英雄になってしまい、様々な席に呼ばれ、兵隊、軍人はもちろん、政治をしている人や役人の集まりにも呼ばれた。

 政治家や役人こそ、僕が何をしたのか、全く知らないはずだが、言っていることは立派だ。立派だが、上っ面だけでもある。それも仕方ない。彼らは実際に戦ったことも、剣術を修めたこともないのだから。

 兵隊の中では僕を剣術の教官になってほしい、という意見が広がり、これには僕も必死に辞退するよりなかった。

 僕の剣術は兵隊向きではないから、教わったところで生き延びる確率が上がるわけではない。

 僕の剣術は、一対一でこそ、効果的なのだ。

 悪魔が去って半月は、そうして身の丈に合わないことに奔走して、慌しく過ぎた。

 トロエとその両親だけは変わらなかった。それが救いだ。どんなに遅い時間になって部屋に帰っても、温かく迎えてくれる。

 その様子を見ることでだけ、僕が何を守ったのかがはっきり見えて、守ったことが誇らしく思えた。

 僕がファスー防衛功労賞と、大鷲勲章を授与されて、それで騒動はついに終息した。

 ファスーには人が戻り始めて、活気も出てきた。でも、僕の両親は戻ってこなかった。噂も、聞かない。

 そんな中、僕を訪ねてきた人物がいた。

 その日は冬の気配も近づいてきた気候で、空気は刺すような冷たさで肌を刺激した。

 剣術の稽古をしている広場では、例のごとく、トロエがじっと見守っている。

「邪魔する」

 僕の視界の外からの声に、動きを止めて、そちらを見る。

 黒いローブを羽織り、フードで頭を隠した人物がそこにいる。

 どこかで聞いた声だな、と思った時には、フードが取り払われ、男の顔が露わになった。

 黒い肌と黒い髪。

 ヒッとトロエが息を飲む。

「アーテン?」

 僕はそれほど動じずに、自然とトロエを守る位置に立ったが、悪魔は攻撃性を少しも発散させていない。

 そして警戒する僕の前で、頭を下げた。

「俺に、剣術を教えてくれ」

 訳のわからない言葉だった。

 悪魔が人間に剣術を教わりに来るなんて、聞いたこともない。

「いや、そんなことを言われても」

 黙っているわけにもいかず、思わず中途半端なことを言っていた。

「悪魔は撤退したのに、君はなんでここにいる?」

「お前に会いに来たのだ、スナグ。お前の剣を、身に付けるために」

「そんな大層なものじゃないよ」

 頭を下げっぱなしにしていたアーテンが顔を上げる。瞳には必死の色があった。

「俺はこれまで、百を超える人間の使い手を切ってきた。誰もが術を練り上げ、技を磨き、体と心を鍛え、我々に向かってきた。そして俺はその全てを返り討ちにした」

 血生臭いね、とトロエが顔をしかめる。いや、そこはあまりツッコンではいけない。

「だがスナグ。お前は俺を倒した。しかも殺さずにだ。お前の剣術を、学ぶことで、俺はお前を未来永劫忘れずに、記憶に留めることができる。生き甲斐にできるのだ」

 悪魔の生き甲斐なんて知ったことじゃないよ、と思わず言いそうになったが、堪えた。堪えたけど、笑ってしまった。

 悪魔も生き甲斐というのを探すんだな、と思うと、どうしても笑ってしまう。

 限界を超えて、クスクス笑う僕に、アーテンが縋るように視線を向けてくる。

「ほんの一端でもいい、俺に技を教えてくれ」

「すぐには身につかないよ、アーテン」

「俺たちには時間は無限に存在する。いずれ、極めることもできるはずだ」

 ……悪魔って、何から何までインチキだな。

 結局、押し切られた形でその日から俺とアーテンは広場で訓練を始めた。

 守備隊からはしつこく誘いが続いていて、言い訳を工夫して、若造がでかい顔をするのは良くない、などと断っていたが、入隊しなくてもいいから剣術の教官をするように、という要請は続く。

 そうして人間からの誘いをどうにかやり過ごしているのに、個人的に悪魔に剣術を教えるとは、僕も酔狂ではある。

 冬が来て、雪が降った。

 それでも稽古を休むことはない。白い息を吐きながら、積もる雪を物ともせずに、僕とアーテンは剣を交わし、トロエは震えながらそれを観戦していた。休憩になると、彼女が用意していたお茶が出されるが、大抵は凍る寸前のように冷たい。

 そんな具合だったからだろう、トロエが、アーテンを家に招待しようと言い出した。

 これにはアーテンの方が慌てていたが、俺はトロエの両親なら受け入れるかもしれない、と期待を持った。

 だいぶアーテンは抵抗したが、最後にはトロエの粘り腰に敗北し、部屋に招かれた。

 当日、訓練の後に部屋へ向かう途中で、悪魔が物怖じするところを初めて見た。

 何か手土産を買うべきか、とも言っていて、可笑しい。結局、何も買わなくていい、とトロエが止めた。ファスーではまだ物資がそれほど豊かではない。人間の生活圏そのものが弱っているらしい。

 部屋に到着し、深呼吸する悪魔を部屋に押し込むと、トロエの両親が出迎える。

「あなたがアーテンさん?」

 トロエの母が笑みを見せる。アーテンが頷くが、フードを被ったままだ。

 そのフードをトロエが勢い良くひっぺがすと、アーテンの黒髪と黒い肌が露わになる。

 それを見ても、トロエの母は驚いた素振りを見せない。

「外は寒かったでしょう。お入り、さ、早く」

 こうしてアーテンは、トロエの家族に柔らかく受け入れられたのだった。

 食事は賑やかで、温かいものになった。

 アーテンはずっと黙っていたけど、決して不快なようではなく、時折、口元に笑みを見せた気もした。

 食事が終わり、アーテンは去って行った。

 トロエは満足そうで、彼女の両親も嬉しそうだった。

 事態が変わったのは、春も近くなった頃だった。


     ◆


 小春日和、などと呼べる温かい日で、その日も広場で僕とアーテンは剣を交えていた。

 アーテンの技の習得は、かなり早い。元から相当の使い手で、下地があったせいだろう。

 そこにトロエが駆け込んできて、「大変よ!」と叫んだので、僕たちは動きを止めた。

「ファスーの守備隊が、街に悪魔が紛れ込んでいる、っていう噂を聞きつけて、捜索している。アーテン、逃げた方がいいよ!」

 反射的にアーテンを見ると、どこか寂しげに顔を俯かせ、「ここまでだな」と呟いた。

「どこか行くあてがあるのか?」

 思わず訊ねる僕に、ゆっくりとアーテンは首を振った。

「俺は魔王軍から脱走してここへ来たんだ。もう魔王軍へは戻れない。どこかで、ひっそり暮らすさ」

 そうか、と呟くように答えるしかなかった。

 でも、僕はいつの間にか、この悪魔が好きになっていて、もっと彼の技を見たい、と感じていた。

 どんな選択肢があるだろう。

 そうだな、逃げる、か……。

 トロエ、と思わず声が出て、彼女が僕を見た。

「僕はアーテンと一緒に行こうか、と思いついた」

「え……、えぇっ?」

 自分で言っておいて、無謀さに驚いたし、トロエはもちろん、アーテンも驚いている。

「色々な剣術を学ぶために、旅をするのも悪くないかな、と思った。思いつきなんだけど、ダメかな」

「ダメじゃないけど……、ファスーを出て行っちゃうの?」

「そうなるね」

 トロエがこちらを一度睨んで、目を伏せ、眉間にしわを寄せたまま黙った。

「スナグ、そこまでしなくていい」彼女を助けるようにアーテンが言った。「俺は俺でやっていける」

「お前のためじゃないよ、アーテン。僕の願望でもある。ファスーはいいところだけど、狭い場所にいたら、見えないものもある」

 その言葉に答え方がないらしく、アーテンも黙った。

 僕たち三人は向かい合ったまま、しばらく、誰も何も言わなかった。

「良いよ、スナグ」

 口を開いたのはトロエだった。

「行きなよ、それがきっと、スナグのやりたいことなんでしょ? 違う?」

「剣術だけが、僕の道だよ、たぶん」

「自信を持ちなさいよ!」

 バシッとトロエが強く背中を叩いてきた。

 それから三人で守備隊の捜索を回避して部屋に戻り、僕はトロエの両親にさっきの話をした。

 二人は最後まで黙って聞いていたけど、僕を送り出すことを選んでくれた。

 荷造りというほどの荷造りもなく、小春日和から一転、極端に寒い翌日の朝、集合住宅の玄関で、トロエとその両親が、僕とアーテンを見送った。

 二人で雪が降りそうな気候の中、ひっそりとファスーを抜け出した。

「どこへ行くつもり? アーテン」

 そうだな、と悪魔が呟き、噂で聞いたという様々な剣術家の話を始める。

 東の果ての山脈、その一角で修行を続ける老剣士とその一派の噂。

 人間の生活圏のそこここにある、伝説的な剣士の逸話。

「スナグはどこへ行きたい? 何をしたい?」

「そうだなぁ……」

 答えようとした時、頭上から何かが落ちてくる。小さい白い粒。

 雪だ。

 昨日はあんなに暖かったのに。

「僕がしたいことは」

 フードを被りつつ、僕は答えた。

「ただ、強い剣術っていうのを、見てみたい。そしてそれに挑戦して、破りたい」

 俗物的だな、とアーテンが笑う。

「人間って、そういうものだよ。傲慢なんだ」

 二人で雪の舞う中を、歩き続けた。

 まだ見ぬ剣術を目指して。


     ◆


 ファスーという街にある伝承では、悪魔との決闘に勝ち、街を救った英雄がいる、という言い伝えは今も残っている。

 だが、何故かその英雄の名と彼の生涯は、どこにも記録されていない。




(了)

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