第25話 琉生を待ちながら…

 ランチを終え、食堂のスタッフに声をかけると、看護師に連絡をしてくれたので、再びさっきの看護師が迎えに来てくれた。


「すみません。片付けをお願いしたくて声をかけただけなんですが…」


私が看護師にそう告げると、


「藍子さん、どうやって病室まで戻ろうと思ってたんですか?」


看護師は、ニッコリと笑って聞いてきた。確かに、お父さんに押してもらうのも難しい。かといって自分で車椅子を操作できるかと言ったら、それは自信がない。


「…ですよね」


私がそう言うと、看護師はさらにニッコリと笑って、


「でしょ!」


と悪戯っぽく言った。私は何も言い返せなかったが、この会話がとても楽しかった。お父さんは、そんなふたりの会話を聞きながら自然と笑みをこぼしていた。お父さんの笑顔も穏やかだ。もうそれだけで私は嬉しくなった。


 病室に戻ると、


「さて…琉生が来るまで、どうしてればいいかな?」


お父さんは、ベッド横の椅子に座りながら言った。確かに琉生が来るのは夜だ。食堂は夜も開いているのか、聞き忘れてしまったし、何より再び看護師にお願いするのも気が引けた。


「お父さん、下のコンビニで夕飯を買ってきておいた方がいいんじゃないかな?私は病院食があるけど、お父さんの分まではないから」


私がそう言うと、お父さんも「そうだな」と再び立ち上がった。さすがにそれについて行くわけにはいかないので、私は病室で待つことにした。


 私は、来週には退院出来る喜びでいっぱいになっていたが、なぜか病室にひとりきりになった瞬間、急に不安に襲われた。


退院したら、車椅子では動かない。でも歩くリハビリなどは一切していないのだ。清川の家は、建ってからだいぶ経っている。今の新築は、バリアフリー設計のところも多いと聞くが、残念ながら我が家は段差だらけだ。


少し筋力をつけておかないと、転倒する可能性もあると考えただけで、不安になってしまったのだ。そこで私は、お父さんが戻ってくるまでひとりで勝手にリハビリを始めてみた。


琉生を待っている間もかなり時間があるはず。琉生が来るまでに少しでも元気になっているところを見せたい衝動に駆られていた私は、ゆっくりとベッドを降りた。

スリッパだと危ないと思ったので、靴下のままベッドを手すり代わりにして、ゆっくりと歩いてみた。


 意外と歩けるものだとホッとして、ベッドの右側から左側にゆっくりとベッドの周りを歩いてみた。疲れも感じない。ただ、やはりずっと歩いていないせいか足に違和感があった。


何往復かしていると、お父さんが戻ってきた。私が歩いているのを見てお父さんは慌てて、


「何してるんだ!一人の時に何かあったらどうする?退院出来なくなるぞ!」


と言って駆け寄ってくれた。確かにお父さんの言うとおりだ。


「ごめん。琉生を驚かせたくて。それに家に戻ったら車椅子を使うわけにはいかないでしょ?だけど、私ずっと移動は車椅子だったし、リハビリもしてないからいきなり家に帰って普通に歩けると思えなくて…」


私は、今の正直な気持ちをお父さんに伝えた。お父さんもそれには納得してくれて、


「なら、俺がちゃんと支えるから」


と言って、ベッドについている左手とは反対の右腕を掴んでくれた。左手でベッドを置くだけより、はるかに歩きやすくなった。


「ありがとう」


私はそう言うと、さっきのようにベッドの周りをゆっくりと歩き出した。お父さんは、絶対に転ばないように支えると思ってくれているようで、私の右腕を掴んだ手には、かなりの力が入っているのを感じた。


でもそれが嬉しかった。

昔からお父さんに触れた記憶がないのだ。いつも仕事ばかりの人だったから、子育てはお母さんにすべて任せっきりだったし、ふたりの生活になってからだって、こんなふうに支えてくれるような事態は起きなかったし。


 私は、お父さんに支えてもらいながら、ゆっくりと何往復もベッドの周りを行ったり来たりした。


さすがに疲れてきたので、


「これくらいにしておく。ちょっと疲れちゃった。やっぱ一気にやるもんじゃないよね」


と伝えた。お父さんは、「そうか」と言って私をベッドに座らせてくれた。まさか、娘が父親に介護されるなんて思いもしなかったが、そうして手をかけてくれるお父さんに、素直に感謝している反面、申しわけなさもあった。


 結婚前は、お父さんも自分もことは自分でできるようになっていたが、あれから20年以上も経っている。当然、お父さんだって年を取っているし、本当なら娘の私がお父さんの世話をしていてもおかしくないはず。それを、今は、私が支えられているのだ。


病気は、支えが必要なのはゆう姉の世話をずっとしてきたお母さんを見ていて分かっていたはずなのに、いざ自分が病気の立場になってお父さんに支えてもらっているのは、やはり複雑な気持ちになっていた。


 そんなことを考えているうちに、私の夕飯が運ばれてきた。


「お父さんも食べとこう。あと1時間くらいしたら琉生も来てくれるでしょ?」


私がそう言うと、お父さんもコンビニで買ってきたおにぎりを袋から取り出した。そう言えば、お惣菜やコンビニのお弁当もお父さんは絶対に食べない人だったと思い出した。それが、今、目の前のお父さんは、上手におにぎりを袋から取り出している。


私が、あの家からいなくなってから、きっとコンビニも上手に利用していたのだろう。私が、結婚をして、コンビニを利用しなくなってから、お父さんはいろいろなことを変えてきたんだろうなと、ふとそんなことを想像した。


 私の視線が気になったのか、おにぎりを頬張ろうとしながら、お父さんは私の方を見た。


「なんだ?」


もう半分口におにぎりが入った状態で、お父さんは聞いてきた。


「いや。何でもない。お父さんが上手におにぎりを袋から出してるのが新鮮だったから、見入っちゃった」


私がそう言うと、一口おにぎりを食べて、飲み込んだ後、


「そうなんだよ。俺も最初はどうやって海苔を巻くのか分からなくてな。全部袋を解体して、あとから巻いて食べてたんだ。そしたら、琉生がちょうど帰ってきた時にやり方を教えてくれてできるようになった」


と教えてくれた。そうか、これも琉生が教えてくれたのか。そうだろうとは思ったが、やっぱりだった。琉生はずっとお父さんを見守っていてくれたんだ。


そう思うだけで、今すぐにでも琉生に逢いたいと思ってしまった。

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