第22話 愛川の苦悩を知った日

 熱も下がり、予定通り検査を受けられることになった。

今日は、その検査の日。検査といっても、心電図を調べたり、採血をしたりと、特に私自身が苦痛となるものはなかった。


検査の結果は、明日にはすべてが揃うということで、明日は、お父さんが結果を聞くのに同席してくれることになっていた。平日だから、琉生は来ないだろう。お父さんはどうやってここまで来るのか、心配だったが勇次郎が迎えに行ってくれることになっていた。ま、正確には勇次郎ではなく、運転手が…なのだが。


 検査が終了したのは、昼食の時間を過ぎてしまっていたため、サイドテーブルに置かれた昼食は、いつものものではなく、すべて蓋付きの弁当箱に入った食事だった。おそらく、他の患者には出さないものだろう。これが、身内特権というものなのだろうか?


だとしたら、まだ私は鎌倉の人間扱いしてもらえているということだと、正直どうでもいいことを思いながら、昼食を頂いた。普段の食事より量が多いようにも感じたが、昨夜から何も食べていなかったので、あっという間に完食してしまった。


「こんな食欲旺盛な病人が治らないなんて信じられないなぁ」


最近、私は心に思ったことを声に出すようになっていた。声が出せる喜びなのか、実家に帰る準備で、心に溜めないようにしているのかは自分でも分からないが、とにかくよく声に出して言うようになっていた。


「ごちそうさまでした」


完食した弁当箱に蓋をして、両手を合わせて弁当箱に一礼しながら、言うと、


「食事は終わったようですね」


と声がした。声の主は、もう顔を見なくても分かる。いつだって突然現れるのは、主治医、愛川だ。またしても独り言を聞かれてしまった。なぜ私は病室のドアが開くのにも気付かないのだろうか?


愛川が来る時に限っていつも意識が何かに集中しているように思えた。まぁ、私の都合なんて関係ないのが、愛川なのだ。


「はい」


短く私は答えた。


「少し、時間いいですか?退院に際して少し話しておきたいことがあります」


今日の愛川は、今までの無表情で淡々と話す言い方とは違っていたが、どこかで聞いたことがあるトーンだった。私は最初思い出せなかったが、


〈そうだ!勇哉に話しかけていた時の口調だ!〉


と思い出すのに、そう時間はかからなかった。しかし、なぜ私にその口調?と疑問も残った。


「大丈夫です」


私がそういうと、愛川は、私が食べた弁当箱を手に取り、廊下に出た。少しして、戻ってきたのだが、


「看護師が取りに来ると話が中断されるので」


と、聞きもしていないことに関して、理由を言った。もうここからして、いつもと様子が違うのは、分かる。これから何を言われるのか…は、まったく想像もつかなかったのだが。


******************************


 愛川は、ベッド横にある椅子に腰を下ろした。私が覚えている限り、愛川が椅子に座るなんてことは、この病室では初めてのことだ。私は自然に緊張している自分に気付いた。


とにかく、愛川からの言葉を待つしかない状態で、愛川に気付かれないように小さく深呼吸をした。


「現時点で出ている検査結果を見ても、問題は見つかっていません。なので、早ければ2~3日後、長くても1週間後には退院となるでしょう」


愛川の口からは、退院について発せられた。そんなことを、なぜ椅子に座って伝えるのか、私はまだ理解できていない。私から何も反応がないことに気付いていると思うが、愛川はさらに続けた。


「退院したら、完全に鎌倉家から離れますよね。今日は、私について少し聞いていただきたいと思いました」


〈私について?聞いていただきたい?どういうこと?〉


私の頭の中は、何が何だか、まったく分からなかった。何より、とにかく愛川の口調の柔らかさが気になって仕方がなかった。でも何か伝えたいことがあるのは間違いないようなので、


「はい」


とひとこと、答えた。愛川は、私の警戒に対して、


「まず、今までの態度について、謝罪させてください」


と椅子から立ち上がり、深々と私に向かって一礼した。これにはさすがに焦った私は、


「何のことですか?やめてください!」


とリクライニングを上げ、寄りかかり、ベッドに伸ばしていた足を立ち膝の状態にして両手で愛川の肩を掴み、一礼をやめさせようとした。


「あなたに対して、主治医らしいことをしてきませんでした。ただ、病状を安定させるためだけに限定していました」


愛川は、私の両手を自分の肩から外し、私の両手を持ちながら再び一礼した。


「私は気にしていません。そういう先生なのかと思っていたので」


つい、本音が出てしまった。〈しまった!〉と思ったが、言ってしまったものはもう戻らない。私のその言葉に、一礼からなおった愛川の表情が優しく微笑んでいた。そして、


「あなたは、病気が見つかった時点で鎌倉から抜けられることが分かり、少し羨ましく思ってしまいました」


今度は、少し悲しい顔になり、そう言った。愛川はこんなにも表情が豊かな人だったのかとただただ驚くばかりだった。それ以上に、愛川の言葉に驚きを隠せなかった。


「どういうことでしょうか?」


この時点で、まだ愛川は私の両手を掴んでいる。私はまだ立ち膝のまま、両手を掴まれている。もし今、誰かが病室に入ってきたら、間違いなく私が愛川を攻撃してそれを愛川が制して両手を掴んでいると思われるであろう格好のまま、ここまで話をしていた。


「あの…手…」


私がそういうと、愛川は、ハッと気付いたように両手から手を離した。押さえている事すら忘れていたのだろうか?これは、ただ事ではないということは分かったが、この先がどんな話なのかは、まだ予測できなかった。


 愛川は、再び椅子に座ったので、私も最初に話しを聞いていたように足を伸ばし、ベッドのリクライニングに寄りかかり、顔だけ愛川の方に向けて座り直した。


「鎌倉家は、治らない病気にかかるとその者を切り離します。その代わり、世間体もあるので治療費などは全額負担します。治っても治らなくても、表向きは『死亡』扱いになります」


こりゃまた鎌倉家の闇の扉がひとつ開いたと私は思ってしまった。20数年も鎌倉の家で生活していたのに、そういうことは何一つ知らされなかったのだが、もうたいていの非常識は、〈やはりな…〉〈そうなのか…〉と受け入れられるようになっていた。そうなったのは、ここに入院してからなのだが。それまでの非常識が、可愛く思えるほどの鎌倉家の闇の扉は入院し、勇次郎から離婚を言いつけられたあたりから、どんどん開いていく。


今更、新たな扉が開いても驚きはしないが、その扉を開こうとしている人物が愛川だということに驚いているのだ。


 黙って聞いている私に対して、


「続けてもいいですか?」


と謙虚に聞いてきた。


「もちろんです」


私は、なるべく愛川が話しやすいように、短めに返事をした。


「鎌倉家は、大きな組織です。この組織内で、表向きに離婚した記録はありませんが、昔から跡継ぎが出来たあとには、嫁いだ人は出ていくか、残るかの選択肢があるのは知っていますよね。出ていく場合には、あなたは鎌倉家に嫁いだことがあるとは他言してはいけないこともご存知ですか?」


愛川から出た、私の知らないこと。それは鎌倉へ嫁いだことを他言しないということ。これは、知らなかった。おそらく、離婚が成立する際に勇次郎か、もしくは義母から説明されるのだろう。ちょっとフライングで情報を入手してしまった形になった。


「いえ。知りませんでした」

「では、説明があるまで知らないことにしてください」

「わかりました」

もう淡々と受け答えするしかない状況だ。とにかく、鎌倉家に私が思う、私が知っている常識を当てはめることは不可能なのだ。


「話を続けます。これが、元気な状態での離婚だと、かなり生活資金を相手に渡します。まぁ、口止め料も含まれているようです。しかし、あなたのように病気になった場合、生活資金に加え、治療費も支払われます。もちろんこれも、ある意味口止め料なのかもしれません。過去には、この待遇に不満を言ったり、誰かに言ってしまった例もないそうです。さすがに優秀な人は、そんなことは無意味だということを分かっているのでしょう」


どうも、愛川の説明は、何がいいたいのか理解しにくい。私は、ちゃんと話は聞いているが、どう返事をしていいか分からず、黙ったまま愛川を見て軽く相づちを打つだけだった。


 ただ、いつもと違う愛川に驚いていることにもうひとつ追加できることがあった。それは、愛川が私の目を見ながら話していることだ。

病状説明をする時も、検査結果を伝える時も、一度も合ったことがなかった目と目が今は、しっかりと合っている。


 この状況に、今までの愛川は、自分を偽って接していたのだということはすぐに理解できた。つまり今、愛川の口から出てくるすべてが、愛川の本音なのだ。そう理解すると、やはり真剣に聞かなくてはいけないと心した。


愛川は、時々、視線を外し、何かを考えているようにうつむくが、伝えようとすることがまとまると再び私へと視線を戻し、を繰り返しながら話を続けた。


「実は、私の父は既に他界しています。病死だったのですが、母と結婚する際、鎌倉家の決まりを伝えられたようです。当時は、そんなことを言われても特に気にすることもなく結婚したようです。しかし、母は根っからの鎌倉の人間です。父が『それはおかしい』と伝えてもまったく耳を貸さなかったようです」


突然、愛川のお父さんの話が飛び出してきて、私は少々戸惑ったが、鎌倉の人間が女性であっても結婚の決まりはあるのかと、変なところに感心している自分がいた。さらに愛川は続けた。


「そのうち、私が生まれ、代々医者だった愛川家は、私も医者にすべく教育を受けました。選択肢がなかった私は、医大に入るまで、特に父の変化にも気付かずに過ごしてきたのですが、父は私が医大に入学する少し前から精神的に負担が大きくなっていたようで、医師としての仕事が困難になっていました」


確かに、常識が通じないことに対して、それでもあきらめず立ち向かうことは精神的にもかなり負担になるだろう。私の場合は、自由になれるという未来があったから、自分の意見は封印出来た。それが、男性となると、そう簡単には気持ちは切り替えられないだろう。


「父は、最終的には私が正医師になったのを見届けて、亡くなりました。現在は、母が院長をつとめていますが、母は医師免許を持っていたわけではありませんので、医術面はすべて私の責任となりました。しかし、父が亡くなる少し前、まだ私がインターンだった頃に父から『意思を受け継いでほしい』と言われました。それまで父が母に対して、そして鎌倉家に対して反発してきたことを伝えられ、私も共感したんです」


愛川も鎌倉家の闇について、疑問を感じ、反発していたのかと初めて知った私は、ふと勇哉を思い浮かべていた。


「私は、いつか、鎌倉家の方針を変えたいと思っています。そのためには、今は従っているふりをして、その時期を待つしかないと。でも勇哉が生まれ、今まで見てきて、勇哉は今までの鎌倉家の人間とは違うと感じました。あなたの育て方のおかげです」


急に勇哉の名前が飛び出し、驚いたが、愛川は、立ち上がりベッドに両手をついて、


「私は、今後、勇哉と一緒に鎌倉家を変えていきたいと思っています。先日、勇哉がここに来た時、おそらく、ふたりの間には何かの話があっただろうと直感しました。もしかしたら、勇哉は、今の鎌倉家をそのまま引き継ぐつもりはないのかもしれないと!」


と、少し、声のトーンを上げて言ってきた。私は、〈その通りです!〉とは言えず、戸惑った。しかし、これが本心から出ている言葉だということは、分かった。


「あなたが鎌倉家を出たら、あなたには何も迷惑が掛からないようにします。なので、これからも勇哉の力になってほしい。そして、本当の常識とは、今後鎌倉家はどう変わればいいのか、そういう知恵を貸していただきたい!私も協力したいと思っているんです。明日の検査結果は、勇次郎さんも同席するようですので明日ではもう伝えられないと思い、今日思いきって伝えにきました。今まで鎌倉の人間と同類だと思われていたでしょうから、突然こんなこと言われても戸惑うと思いますが信じてください!」


愛川の言葉には、鎌をかけていたり、偽りだったりという雰囲気は感じられなかった。おそらく、本当に時期を待っていたのだろう。何より、長身が覆いかぶさるような恰好で、熱弁しているせいか、私は、かなりの迫力に圧倒されてしまっていた。

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