第21話 清川に戻る日まで無事に過ごさせて

 勇哉との別れの翌日。

昨夜は、まったく眠れなかった私は、今朝は身体がだるくて起き上がることも出来なかった。1週間の点滴が終わるのは明後日だ。その後、検査をして問題がなければ勇次郎と離婚が成立する。ここで、体調を崩しているわけにはいかないと思う自分と、退院が延びれば、「勇哉とはもう逢わない」という決心が鈍りそうだと感じている自分が混在していた。


 鎌倉家に嫁いで、唯一私が人間らしく接していられた存在。それが勇哉だったから、離れるというイメージなんてつかないのも当然といえば当然なのかもしれない。きっとどんな環境での子育てでも、我が子と別れることを自分から望む親はそんなに多くないだろう。


 まして、それが母親ならば、父親が父親になる前から母親になる分、愛情も深いものだ。


「藍子さん、検温です。…あら?今朝は、少し顔が赤いですね」


ベッドの中で、いろんなことを考えていた私の背中のあたりで看護師の声がした。私は、顔だけ看護師に向けるとそこには心配そうな看護師の顔があった。入院してから、ほんの些細なことでも気にかけてくれる優しさに触れていたからか、気付いたら、その優しさに寄りかかるような態度をたびたび取っていた。


 入院したてだったら、看護師の声がすれば身体ごとそちらに向き直し、体調が良くなってからは起き上がって対応していたはずなのに。今の私ときたら、身体の向きを変えるどころか、首だけ回して看護師を見るだけだ。それでも看護師は入院したての頃と何も変わらず接してくれた。いや、むしろさらに優しくなっているようにも感じた。


「すみません…昨夜、眠れなかったのでもう少し寝ていてもいいですかね?」


そんなわがままにも似たことを平気で言っている自分に、驚きも違和感もなくなっていたのだ。


「大丈夫ですか?昨夜、遅くまで勇哉さんと話しをしていましたからね」


看護師はそう言いながら体温を測り終え、


「やっぱり少し熱がありますね。朝食まで横になっていてくださいね。今、無理したら2日後に検査が出来なくなってしまいますからね」


とだけ告げ、病室から出て行ってしまった。


〈そっか…体調を崩したら検査も出来なくなるのか…それはそれでいいのかな?〉


ふと、そんなことを考えている自分に驚いた。私は離婚したいのか、したくないのか、自分でも分からなくなっていた。


 結婚前、子供だけ産んで育ててくれればいいと言われていた時には、我が子にここまで愛情を感じるなんて想像もできていなかった。自分は幼少期に母親からたっぷり愛情を注がれて育ったというのに、自分が母の立場になった時に、同じようになるとは想像できなかったなんて、情けない。


 もし、結婚前からこうなることを予測できていたとしたら、もっとよく考えただろう。鎌倉家から自由になるということは、つまり我が子と離れるということだと、なぜ考えられなかったのだろうかと、当時の自分を悔やんだ。


 私は、そんなことを考えているうちに、いつの間にか眠ってしまったようだ。さすがに寝不足と発熱が重なっているおかげで、すんなりと眠ることができたようだ。


 しばらくして(私にとっては、一瞬だったのだが)、朝食の時間になった。食事を持って来てくれた看護師から声をかけられ、私はハッとして目が覚めた。


「藍子さん、おはようございます。お食事ですよ」


検温に来てくれた看護師とは別の看護師が起こしてくれた。私は、


「あ、ありがとうございます。おはようございます」


と答えて、ゆっくりとベッドから起き上がった。目の前に置かれた朝食は、もうすっかり普通食だ。2週間前には、離乳食のような食事だったのが嘘のようだった。これは、私が鎌倉姓から旧姓の清川姓に戻ることを暗に語っていた。


 勇哉との別れに脱力感でいっぱいのはずでも食事はしっかり食べられてしまうものなのだと、ふと自分の食欲に笑ってしまった。


「勇哉はちゃんと起きられて、食べられたかな?」


誰もいない病室で私は思わず声に出して呟いた。きっと今は、義母が私の代わりに食事や家事をしてくれているのだろう。申し訳ない気持ちもあったが、今後、自分がその仕事をやることは一生ないのだから、考えても仕方がないことだと気持ちを切り替えることにした。


 朝食が終わると、何もやることがない私は、再びベッドに横になった。入院してから、検査や回診以外には本当にやることがないのだ。今まで、こんなに何もしなかった日はあっただろうか?いや、覚えている限り、なかった。


 子供の頃は、遊ぶことが忙しかったし、ゆう姉が体調を崩してからは家事と勉強が忙しかったし、母が他界してからだって、何かと忙しかった。高校時代は大学を目指して必死に勉強をしていたし、父が家に戻ってきてからは父のために動いていた。


 そのうち、勇次郎と出会って、さまざまな検査をされ、結婚した。その後は、家から出ることなく気付いたら子供が成人するまで鎌倉家のために必死に動いていた。そして、今、心不全の一種という説明だけの病気を患い、入院している。その入院も順調にいけば、残り1週間ほどだ。


 実家に戻ったら私はどんな生活をするのだろうか?今までのように動けるのだろうか?この病気はどんなもので、完治する可能性はあるのだろうか?


 やることがないせいか、次から次へといろんなことが頭に浮かんだ。私はふと、スマホを取り、”心不全 症状 治療 完治”と検索してみた。


ひとことで”心不全”と言っても、症状などはとても細かく分類されていることを知った。私の場合は、進行すると、合併症も出てくるようだった。完治する確率は極めて低く、今後ゆっくりと症状は悪化していくと書かれているものが多かった。


「だから、私は鎌倉家から切られたのか」


スマホに向かって私は呟いた。


「主治医よりネットの情報が信用出来るようですね」


その声に、驚き声のする方を咄嗟に見た。そこには愛川が立っていた。


「あ、おはようございます。すみません、気付きませんでした」


慌てて言う私に、愛川は相変わらず無表情…いや、今日の愛川はいつもの無表情ではなく少しこわばった表情だった。そんな表情で、


「別にかまいません。回診ですが、特に治療もありませんし、熱があったと報告があったので、一応体調を聞きましょうか?信用されていないとは思いますが」


と言ってきた。今日はやけに突っかかると思ったが、自分が愛川の立場なら、確かに目の前でインターネットの情報を調べられたら面白くないだろうと思い、素直に反省した。


「だるさもありませんし、朝より楽です」


とだけ答えた。愛川は昨夜の勇哉の件が気になっているのか、いつもなら『そうですか』と言ってすぐに病室から出ていくところなのに、今日はなかなか出ていかなかった。私は、何か言わなくてはいけないと思い、


「あの…」


と、言ったはいいが、次に続ける言葉が見つからずにいた。

愛川は、出ていかない割には、特に診察をするわけでもなくベッドから一定距離を取った場所で、ただ立っているだけだ。とりあえず、


「昨夜は、遅くまですみませんでした」


とだけ伝えた。愛川は、それには答えず、


「勇哉は何をあなたに聞いたんですか?」


と聞いてきた。やはり気になっていたようだった。私は、昨夜の勇哉の名演技を思い出し、


「いえ。身内の恥ですし、私から申し上げることはありません」


と答えるにとどめた。まさか、親子の時間を満喫したとは口が裂けても言えないことくらいは、察したし、そんなこと言ってしまったら、昨夜の勇哉の名演技が台無しになってしまうのだ。


「あなたはもうすぐ鎌倉の人間ではなくなる。あまり去る前に荒らさないでいただきたい」


今日の愛川は、なんだかいつもと様子が違った。どう違うのかというと、入院したてから昨日の昼間までは、私という人間にはまったく興味がなく、ただ淡々と病状観察だけをするような主治医だった。詳しい症状説明もなければ、今後の治療方針だって『治療は長くなる』とだけしか説明しないような主治医だ。それが今日は、よく喋る。


「荒らすって…そんなつもりはまったくありませんから安心してください」


私もつい、言ってしまった。


「そうですか。勇哉を見ていると、鎌倉家が長い間築いてきたものが崩れる気がしてなりません。昨夜、どんな話をしたか、知りませんが、勇哉に感情を与えるのは迷惑です」


今日の愛川はいったいどうしたというのだろうか?確か、愛川は、勇次郎の義理の兄にあたる関係。兄にあたる立場とは思えないほど、勇次郎に…というか、鎌倉家に気を遣っているようにも見える。なんだか、よく分からないと私は思った。


「とにかく、あなたをここで受け入れたせいで、勇哉とあなたの間に何か残されるのは迷惑なんです。私のせいにされてしまう」


やはり何かが変だ。愛川の言葉には、何かに恐れているように感じた。私は、鎌倉家の家系図などは知らないし、過去の人間関係なども知らないが、外に出た者の家族にとって、私には想像できないような、関係性があるのかもしれないと感じた。


「大丈夫だと思いますよ。勇哉ももうここには来ませんし、私たちが再び逢うこともありませんから」


なんとなく、無表情の愛川というイメージを崩すような恐怖に引きつった表情が気の毒になり、私はそう言うしかなかった。私のその言葉を聞いた瞬間、愛川の表情はどこかホッとしたように変わり、


「そうですか」


そういうと、そのまま病室から出て行った。


 私は、何事もなく、清川に戻ることだけを最優先に考えればいいだけだ。そんな表情を見てしまったら、気になってしまうではないか。気になったら放っておけなくなるではないか。今更、変な表情見せないでほしい。


私のお節介が出る前に、何も知らないまま、退院させてくれと心底願っていた。

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