里帰りの傾向と対策

一里塚

第1章


親の顔が思い出せない。

最近まで思い出そうともしなかったので、思い出せないことにも気付かなかった。

いつごろから思い出せないのかなんてもちろんわからないし、そもそも思い出そうとしたことがあっただろうか。

そんなふうに考えていると、最初から知らないんじゃないかとさえ思えてくる。



      *



「デンちゃん、今の気温は?」


「PON! 三十八・五度だよ」


「ちょっとちょっと、さっきより上がってない?」


「ただいま本日の最高気温」


 灼熱の太陽が休みなく街を炙り続けるためか、昼下がりの目抜き通りには人影も疎らだった。こんな殺人的な日差しの下、用もないのに街をうろつく物好きは、さすがにいないようだ。


「うわっ、デンちゃん、ほら、遠くの高層ビルがゆらゆら滲んで見える。蜃気楼みたいだ」


「あちらでも、こちらを見ながら、同じことを思ってるかもしれないね」


「この炎天下で、あと一時間かあ……」


「もうひと踏ん張り!」

 がっくりと項垂れる僕を、人工知能のデンちゃんが励ましてくれる。

「頑張れ!」


 僕は携帯端末を仕事モードにして作業服の胸ポケットにしまうと、今日四本めとなる経口補水液を一気に飲み干した。


「よおし!」


 空になったボトルを握り潰すと、僕は最後の休憩を終えて、トラックの陰からゆらめく蜃気楼の只中へと、意を決して飛び込んだ。暑さと眩しさで、顰めた顔が元に戻らない。上空の巨大レンズによって収斂されたかのような、密度の高い日差しだった。 

 現場主任の僕が動いたのを見て、他の作業員たちも重い腰を上げ、持ち場へ向かった。各々、担当する街路樹の剪定作業を再開する。


 セミ時雨が僕に降り注ぐ。

 東京には虫を捕る子供が少ないためか、僕の頭上にとまるセミたちは、何ら警戒する様子がない。それでも僕は、なるべくセミを刺激しないよう心掛ける。おしっこが降り注ぐのだけは御免被りたい。

 際限なく続く都の緑化事業は、緑とともにセミの数も着実に増やしているようだ。夥しい数のセミによる、けたたましい鳴き声が、熱く灼かれた僕の鼓膜を、あるいは脳をビリビリと刺激する。


 ところが、この耐え難い大音響が、不思議な恩恵を僕にもたらす。セミ時雨はいつしかホワイトノイズと化して、僕をリラックスさせてくれるのだ。

 それだけではない。大音響は意識からゆっくりゆっくり遠ざかって残響となり、その残響さえもすぅーっとどこかへ霧消し、やがて世界は無音に変わる。

 喧噪を超えて訪れる静寂。こういうのもゾーンに入るというのだろうか。暑さもだるさも、仕事をしている感覚さえも、遥か彼方にあるみたいだ。

 喧し過ぎて逆に静かに感じるこの感覚は、異常に集中力が高まったみたいで、なかなか心地良い。何も聞こえない、何も感じない空間で、思考の捗る僕の脳。


 二十九にもなると体力の衰えはもちろんのこと、頭の衰えを実感しはじめる。おまけに根気まで失せて、粘り強くひとつのことに拘れない。だから僕はこの静寂のひと時をとても大切にしている。普段解けないような難問でも、今ここでなら解けそうな気がするから。


 しかし、これほどまでに冴えわたった脳をもってしても、最近のさくらが何を考えているのか、僕にはさっぱりわからなかった。

 関東地方に梅雨明けが宣言された日、彼女は「暫らく忙しくなる」と宣言するや、どことなく素気ない態度へと変わった。いや、今にして思えば、それ以前から様子がおかしかったような気がしないでもない。カルチャースクールだかセミナーだかに通い始めたと言っていたけれど、はっきりとしたことは聞かされていない。会話していても、心ここにあらずで、気の抜けた相槌しか打たないのだから、聞き出せる筈もなかった。


 同じ区役所に勤めていても、この時期、僕は現場が殆どで、さくらはデスクワーク専門なため、なかなか顔を合わす機会がない。日をおうごとに疎遠になっていくのを感じて焦った。気付かないうちに彼女を傷つけるような失言があったのではないかと、彼女との会話を可能な限り頭の中で再現してみたけれど、どれだけ記憶を遡っても、それらしいセリフは見つけられなかった。

 今までにも些細なことで言い争ったことはある。しかし今回は、それらとは明らかに異なっている。何を怒っているのか、何を悩んでいるのか、言いたくないのか、言い出せないのか、皆目見当がつかない。そんな彼女の態度が次第に腹立たしく思えてきて、こちらからも口を利かなくなっていった。


 八月に入ってからの僕らは、最早絶縁状態にあるといっていい。役所に居ても僕は極力さくらの方を見ないし、彼女の方も当然のように声をかけて来ない。SNSのやり取りは一切なくなった。電話で話す習慣はもともとない。この期に及んで、こちらから電話をかけるようなマネができるはずもない。

 とはいえ、僕には彼女を無視する明確な理由がなかった。そのうえ、こちらに非があるかもしれないという懸念が頭の片隅にある分、僕の怒りには迷いがあった。彼女と離れているとき、彼女の顔を見た瞬間、彼女の顔が見えなくなってから──状況に応じて僕の怒りは激しい振幅を生じた。また同じ状況にあっても、思考や妄想の展開次第で、怒りは満ちたり引いたりした。

 こうなったら意地でも話しかけるもんか! と、心の中でひとり過激になることもあった。そんな決意とは裏腹に、いつのまにか視界の端に彼女を捉えているのもまた事実だった。


 やはりカルチャースクールが原因だろうか。彼女の口から出た唯一のキーワードとでもいうべきこのカルチャースクールを、僕は当初から疑っていた。いったい何を受講しているのか、ほんとに受講しているのか、それはほんとにカルチャースクールと呼べるものなのか。ひょっとしたら如何わしいバイトだったり、胡散臭い宗教なのではないか。

 それならまだいい。良くはないけど、打開策の講じようがある。それよりなにより僕が最も案じているのは、あまり考えたくないけれど、カルチャースクールというのが単なる口実で、実は、新しくつき合いはじめた……


 この考えに至ると僕の思考は途端に泥む。この考え(あえて結論とは呼ばない)に至らないよう常に迂回ルートをとって思考を進めるのだが、迂回ルートを模索すること自体がこの考えを意識していることに他ならない。自動車教習所で教官が言う「障害物を意識すればするほど自然そちらへ寄って行き、避けにくくなる」というあれだ。

 僕は常にこの可能性を意識している。意識したくないけれど、意識せずにはいられない。どうすればこのもどかしい状況を終わらせることができるのだろうか。それとも、もう、終わっているのだろうか……


「主任さーん!」


 怒声にちかい大声で呼ばれ、はっと我に返った。気付けば、現場作業員八人全員の視線が僕に集まっている。声に幾分含まれていた苛立ちから察するに、どうやら繰り返し呼ばれていたらしい。

 僕を呼んだ造園会社からの応援である初老の親方は、隣の木の梢近く、地上六メートルほどの所にいた。クレーンのゴンドラから身を乗り出すような格好で、僕を見下ろしながら、遠慮がちな苦笑いを浮かべている。ポカンと口をあけたまま状況を掴めないでいる僕を見かねて、親方は筋向かいの予備校の校舎に掛かる大時計を、ちょいちょいと指差した。


「あ……」

 時計は四時をまわっていた。

「ごめんなさい。あがって下さい」


 僕の一言で堰を切ったように後片付けが始まった。僕以外は全員外注の業者なので、勝手に作業をやめるわけにはいかないのだ。

 明日から盆休みに入るため、現場をいったん整理しなければならず、「今日はいつもより早めに切り上げましょう」と、始業前に自分で宣言していた。にもかかわらず、逆にいつもより遅くなってしまうとは。いつまで経っても作業をやめる気配のない僕に、皆やきもきしていたに違いなく、申し訳なかった。



 予定よりも十五分遅れて役所に戻った。環境課のある二階のフロアでは、皆すでに仕事を終えてのんびり寛いでいる。僕は、まったりした空気を切り裂く無骨者となって、階段から最も遠い自分のデスクへ急いだ。

「おや、残業かい?」「ハルトくん、精が出るねぇ」といった揶揄を適当にあしらいながらも、さくらの姿を確認することは怠らない。彼女は自分のデスクにいて、福祉課のおばさんと談笑している。ただしそれは会話というよりも、おばさんが一方的に捲くし立てているだけにしか見えないけれど。

 僕が環境課に配属された当初からよく見る光景だ。終業時間を迎え、さくらと一緒に帰ろうと思って席を立つと、しばしばこの光景が目に入ってきてた。そして僕は少し離れた場所で、おばさんの講釈だか漫談だかが終わるのを待たされる羽目になった。

 一度おばさんの背後に席をとって、しばし耳を傾けていたことがあるけれど、そのときもおばさんは、のべつ幕なしのマシンガントークで、いつまで経ってもさくらに発言権が回ってくることはなかった。それでも、傍から聴いているだけで辟易の僕に対して、さくらは涼しい顔をしていた。

 彼女は決して自分の意見が言えないような消極的な女性ではない。つまり、しゃべりたくて仕方がないおばさんへの配慮なのだろう。好きにさせているのだ。


 僕は自分の席に着くや、ペンタブレットを取り出し、急いで報告書の作成に取り掛かった。五時までにはとても終わりそうにないけれど、それでも猛然とペンを走らせた。どうあっても今日、さくらと言葉を交わしたい。休みに入る前にこのもやもやを払拭しなければならない。そんな思いに駆られながら。

 しかし、書類作成にあたってそうした考えは雑念でしかない。思いが強ければ強いほど、ペンの動きを鈍らせる。


 ほどなく五時を迎え、さくらの後ろ姿を無言で見送ると、右手のペンは走るのをやめてしまった。僕は背凭れに上体を預け、溜息をひとつ吐くと、抽斗からウェットティッシュを取り出して、顔と腕のべたつきを丹念に拭った。

 一息ついて冷静になると、僕はある疑念に駆られた。それはさっきから心の隅にひそんでいた黒い影で、あえて無視していたものだ。それがここへきて一気に表へ噴き出してきた。


『僕は本当にさくらと話をする気があったのだろうか?』


 仕事が終わらなくたって、彼女を呼び止めることは出来たはずだ。なのに何故そうしなかったのか。ひょっとすると、しなかったのではなく、出来なかったのではないか。

 すでに半月近く彼女と口を利いていない。だけどそれは、利こうとしなかったからであって、利こうと思えばいつでも利ける──そう思っていた。

 でもさっき、僕は、彼女が去って行くのを黙って見過ごすことしか出来なかった。呼び止めることが出来なかったのだ。

 さくらとの関係は、僕が意識している以上に深刻なのかもしれない。


 いずれにしても、さくらの方に僕と話す気がなかったことだけは確かだろう。彼女は僕の方を振り向きもせずに去って行ったのだから。


「もう、終わってるのかなぁ……」


「PON!」

 飛行機の客室注意喚起音に似た音とともに、にっこり笑ったデンちゃんの顔が端末から飛び出す。

「就業時間は終わってるよ。レストラン・ルシェンブルゴの営業時間は、あと六時間五十二分。終バスは〇時六分」


 誰もいなくなった職場で、しばらく天井を仰ぎ見たまま静止した。


「終わってるのかもしれないな……」


「明日から七連休でしょ? 楽しいことがいっぱい始まるよ」



 役所を出ると、街は橙色に染まっていた。ヒグラシの声をより遠くまで響き渡らせるような、透明感のある光景だった。

 僕が上京した十一年前、東京の夕焼けはもっとくすんでいたいたように記憶している。化石燃料で走る車が減り、ここ数年だけみても随分と空気がキレイになったのではないだろうか。百年以上かけて汚した大気が、表面上とはいえ僅か数年でここまでキレイになってよいものかとも正直思う。もちろん喜ばしいことではあるけれど。


 いつもなら綺麗に思えるこんな景色も今の僕には物悲しく映るだけだった。このまま真っ直ぐアパートへ帰る気にはなれず、かといって何処かへ寄り道する気にもなれない。

 僕はいつも利用しているバス停を素通りし、時間をかけてぶらぶらと歩いて帰ることにした。運動不足を自覚したときなど、こんなふうに歩いて帰ることは今までにもあったけれど、今日のような疲労困憊の状態では勿論ない。ずいぶん自虐的なことをしているなと、自分自身にあきれた。

 今の自分の行動に、自暴自棄という言葉が当て嵌まるかどうか、その行動原理を少し掘り下げて考えてみようとしたけれど、上手く頭が回らない。ただ、自暴自棄というのが、失恋という特殊な境遇によって引き起こされる無条件反射行動であるということと、今日さくらと言葉を交わせなかったことで、破局のその先にある荒野に片足を踏み入れたということを、朧ろげに理解した。


 騒々しい表通りを避けて裏道に入ったのは、今の僕の暗澹たる気分がほとんど無意識にとった行動といえる。薄暗い路地に安息を求めたのだろう。

 ビルの角にさしかかった瞬間、不意に強い西日が真横から射し込んだ。僕は咄嗟に小手を翳して遮る。

 すると、パチンコ屋の裏口に突っ立っていた警備員の爺さんが、ぴくっと反応した。

 機敏に僕の方に向き直ったかと思うと、あろうことか、ビシッと敬礼を返してきたではないか。

 きりりと引き締まった表情で、肘を正確な角度に曲げた爺さんの敬礼は、見るからに訓練されたものだった。現役軍人さながらの威圧的な敬礼に、僕はたじろぐ。

六メートルの距離を置き、見つめ合って敬礼し合う僕と爺さん。射るような目で睨みつけられて、僕は右手を下ろすことはおろか、視線を逸らすことさえできない。暑さに起因するものとは別種の汗が頬をつたった。


 なんなんだこの状況は?

 

 困窮しながらも打開策を模索しようと努めるが、頭は麻痺したように働かない。空間が凝固してしまったかのようだ。


 くらくらする……


 と同時に目が霞んできた……


 !


 爺さんの顔がぼやけた刹那、窮余の一策がひらめく。

 目の霞みを追い風に、焦点を意図的に狂わすことで、僕はなんとか蛇睨みから逃れ、金縛りを解くことに成功した。

 俯き加減に顔を逸らし、ようやく踏み出した一歩は、関節が錆付いたロボットのようにぎこちなかった。

 爺さんの前を通るときも、爺さんは僕から片時も目をはなさず、括目して敬礼を続ける。内奥を見透かすようなそのぶれない眼差しは、理由もなく僕を疚しい気持ちにさせた。

 後頭部に突き刺さる爺さんの視線から一刻も早く逃れたくて、僕は曲がる心算のなかった次の十字路を左に折れた。

 仄暮の中、斜陽を背に受けながら、見慣れない道を、知らない方へ知らない方へと進む羽目になった。



 細い川に架かる短い橋を渡ったところで、はたと足を止めた。ここはもう隣の区だ。外回りの多い環境課に転属して三年経つけれど、まったく見覚えのない場所だった。役所から二キロほどしか離れていないはずなのに。

 現在地を確認するためデンちゃんを呼び出そうとしたそのとき、僕の目がある一点にとまった。三十メートル前方の雑居ビルのエントランスに、十人くらいの若い男女が集まっている。その中のひとり。


「さくら?」


 僕は夕闇の中、目を細める。


「まさか……」


 ここの正確な位置はわからないけれど、彼女の住むワンルームマンションがこの近くでないことは確かだ。それに、さっき職場で見たときとは、服装が違っている。一度帰って着替えたのだろうか。

 僕は半信半疑のまま、さくららしき人物に向かって一歩を踏み出した。それと同時に、男女の集団も移動を始める。どうやら待ち合わせだったようだ。集団は、僕に背を向けて歩いて行く。


 僕は急いで追いかけるべきなのかもしれない。大声で呼び止めるべきなのかもしれない。

 けれど、そうはしなかった。理由は……もう、終わってるから。いや、違う。さくらだという確信がないから……ということにしておこう。

 僕は、つかず離れずで集団のあとを歩いた。そして、彼らの待ち合わせ場所だった雑居ビルの前まで来ると、足を止めた。袖看板に『カルチャースクール』の文字を見つけたからだ。


「本当にあったんだ」


 ここが僕とさくらの仲を引き裂いた件の施設なのかと、静かに怒りが込み上げてきた。憎しみや恨みの感情よりも、得体のしれないものを前にしたときの嫌悪感を強く催す。

 分厚いガラス扉の奥には、広くて明るいロビーが見える。ガラス扉には四枚のポスターが貼ってあり、そのうちの一枚がカルチャースクールのものだった。若い女性が微笑む写真とともに、たくさんの講座名が羅列してある。


 このうちのどれかを、さくらは受講しているのだろうか。

 あの集団の中に、さくらの新しい男がいるのだろうか。


 頭を掻き毟りたい衝動に駆られる。しかし最早そんな気力すらない。疲弊しきった心と身体に、この複雑な状況はあまりにも酷だった。真相を究明してやろうなんて気にはとてもなれない。


 限界だ。

 もう何も考えたくない。

 すべて、どうでもいい……


 僕は目の前の建物と、遠ざかる集団との間に視線を往復させると、そのどちらでもない、あさっての方向に足を踏み出した。



 普通に歩けば役所から三十分の道程を、迂遠な回り道の末、二時間かかってようやくアパートにたどり着いた。昼間のうちにたっぷりと熱を溜め込んだ室内は、夜八時を過ぎてもまだ不快な温気を充満させたままだった。

 後ろ手にドアをロックし、その場で着ているものをすべて脱ぎ捨てる。玄関横のユニットバスに入って湯張りボタンを押し、空の浴槽に腰を下ろすと、膝を抱えて、じわじわ上ってくるお湯を感じながら、辛い一日がやっと終わったんだと、長い長い息を吐いた。



「PON! もう九十分も浸かってるよ」

 脱ぎ捨てた作業服の胸ポケットからデンちゃんが現れ、忠告してきた。


「うーん……、すっかり寝ちゃった」


「バイタルメーターに異常はないけど、そろそろあがった方が良いんじゃない?」


「そうする。エアコンつけといて」


 思考停止と脱力状態から回復したら、腹ペコであることに気付いた。こんなにすぐ傍にあるのに、どうして今まで気付かなかったのかが不思議なくらいの、ひどい空腹だった。

 僕は冷蔵庫の中身を一つひとつ頭に浮かべる。


「よし!」


 献立を〈一〇分カレー〉に決めると、勢いよく風呂から上がった。さっとタオルで体を拭き、一刻の猶予も無いとばかりに、全裸のまま調理の準備に取り掛かる。


〈一〇分カレー〉は文字通り一〇分以内に出来上がるカレーであり、手っ取り早く腹いっぱい食べるのに打って付けなため、頻々と我が家の食卓に上る。現在七通りのレシピがあるけれど、今日は買い置きの食材からして、茄子カレーより他に選択の余地はない。


 どうしてだろう、〈一〇分カレー〉に決めた途端、元気が湧いてきた。湧くというより、瞬間的にポンと火が点ったといった方がいい得ているかもしれない。なんらかの脳内麻薬が分泌していることは間違いなさそうだ。

 以前、丸一日掛けて牛すじカレーを作ったことがあるけれど、こんなふうにうきうきすることはなかった。ひょっとして僕がしばしば〈一〇分カレー〉を作るのは、無意識のうちにこの感覚を求めてのことかもしれない。


 リビングの壁掛け時計を瞥見。今回は何分で出来上がるか。僕が〈一〇分カレー〉を作るということは、即ち限界への挑戦、タイムトライアルなのだ。


 フライパンとソースパンに点火。


 茄子を電子レンジに入れ、1000Wで一分加熱。


 その間に、市販のミックス野菜ジュース一リットル二本を、ソースパンに注ぎ入れる。


 手早く輪切りにした茄子を、オリーブオイルをひいたフライパンにぶち込み、蓋をしておく。


 まだ沸騰していない野菜ジュースに、固形のカレールーを落とし入れ、溶かす。(沸騰していないというのがミソ。ぐらぐら煮えたぎったところにルーを入れると、ルーの表面にタンパク質の皮膜が張り、溶けにくくなってしまう)。


 フライパンの茄子に小間切れ牛肉を加え、ある程度熱が通ったら、ソースパンに移し入れ、蓋をする。


 時計を睨み、十時十分になる五秒前、ソースパンの蓋を開けた。


「よし、煮立ってる! 七分切った!」


 一連の動きに少しでも淀みがあってはならない。スポーツをプレイしているような感覚であり、それでいて気分は職人。流れるような動きと手際の良さに、ちょっと自惚れてしまう。

 茄子カレーの記録更新に気分を良くしつつ、さっそく盛り付けにとり掛かる。


「勝因は室温の高さかな。野菜ジュースが予めあったまってたし」などと呟きながら、カレー皿を手にしていそいそと炊飯器に向き直った。


 あ!


「しまった、ごはんがない……」


 何度目だろう。〈一〇分カレー〉を作るとき、よくこれをやる。他の献立で、こんなヘマをやらかすことはまずない。やはり〈一〇分カレー〉特有の高揚感が冷静な判断を許さず、ミスを誘うのだろうか。


 天国から地獄。

 カレー皿を麺鉢に持ち替え、失意のどん底で茄子カレーをよそって、カウチソファまで運んだ。カレーライスがカレーシチューになったくらいで、どうして人の心はここまで落胆するのか──などと馬鹿なことを考えるのはほどほどにして、アツアツの茄子カレーを頬張った。


「デンちゃん。茄子カレー、六分五十五秒、ってメモっといて」


「PON! すごいや。三五秒も縮まった。どうやったのさ?」


 僕はさっきの手順を、事細かに説明する。


「まあ、これ以上の改善はちょっと無理かな」


「差し出がましくなければ、いくつかアイデアがあるよ」


「いくつもあるの? うーん、悔しいけど聞いておこう」


「輪切りにした茄子をフライパンに投入した後、お水を少し足してから蓋をすると、蒸し焼きになって、熱の通りが早くなるよ」


「なるほど、それはいいかも。ほかには?」


「結局、二リットルの野菜ジュースが煮立つまでの時間なわけだから、たとえば、半分を電子レンジで温めたりしたらいいんじゃないかな」


「それはダメだ。洗い物の数を最少限に抑えるっていう、縛りがあるんだよ」


「そっか。それじゃあ、これはどう? フライパンで炒めた茄子と牛肉をソースパンに移すんじゃなくて、ソースパンからルーを六割ほどフライパンに移すんだ」


「ソースパンからフライパンに、ルーを六割移す? どうして?」


「フライパンの方が高温になってるからだよ。二つの鍋で加熱すれば、煮立つのも早くなるよ。これなら洗い物も増えないでしょ? これであと二十秒縮まるよ」


「二十秒か。じゃあ、こんど試してみるかな」


 僕はリモコンを手にしてテレビのスイッチを入れた。壁の奥に三百インチの立体映像が広がる。

 ザッピング中に、中井くんとシンゴちゃんのツーショットを見つけ、珍しいなあ、なんて思いながら、しばらく見入ってしまった。還暦を過ぎた男二人に、くん付けやちゃん付けはおかしいけれど、まったく違和感がないくらいに二人は若々しかった。

 子供の頃から馴染みのタレントが今だに頑張ってる姿を見るのは、結構嬉しいものである。でもカメラアングルを変えたら、二人とも頭頂部が薄くなっているのが判り、なんだか哀しくなってスイッチを切った。


 僕自身、まもなく三十になる。さくらも僕と同い年だ。

 さくらと付き合い始めた七年前、彼女は「三十までに結婚したい」と、何気なく口にしたことがあった。僕は当然、その言葉を数年前から意識している。

 元来、行動力に乏しく、動き出しが遅い僕は、努めて意識することで自分の尻を叩く必要があった。といっても、今のところ何ら具体的な行動は起こしていない。

 さくらの様子がおかしくなったのも、僕の煮え切らない態度に業を煮やしたからではないかと考えてみたことがある。しかし、どちらかというとさばさばした性格の彼女が、プロポーズを催促する手段に、シカトや思い悩むふりをするとはどうしても考えられない。二人の間がこんな空気になれば、かえって結婚について話しにくくなる。それが分からないような頭の悪い女性ではないはずだ。となると、やはり、あのカルチャースクール……


 僕は頭を振って、カウチから身を起こした。今はあまりさくらの事を考えたくない。考えれば、最後には必ず落ち込むことになる。

 気分転換を図ろうと、綿のTシャツと麻の短パンを身につけ、エアコンのスイッチを切って物干し場へ出た。途端、むっとする空気に包まれて、身体中から汗が噴き出す。


 僕がこの部屋を選んだ理由は二つある。一つはガスコンロがあったこと。学生時代、僕は従兄と共同生活をしていて、その従兄から料理の楽しさを教えてもらった。そのとき使っていたのがガスコンロだったので、勝手の違うクッキングヒーターではどうにも不満があったのだ。

 もう一つは物干し場が広かったこと。といっても、庭と呼べるほどの広さはなく、軽自動車がなんとか収まる程度だけれど。

 日当たりもまずまずなので、僕はこの庭に沢山の鉢植えを置いている。ブルーベリー、ビルベリー、ラズベリー、苺、黒すぐり、柘榴、パッションフルーツ、そして数種のハーブ。これも従兄の影響である。ハーブを除く全てが株分けしてもらったものだ。彼の部屋を出るときに、餞別として頂いた。


 しばらくここでゆっくりしていたいのに、蚊が許してくれない。全ての鉢にジョウロでたっぷり水を与えると、急いで部屋のなかへ退避する。エアコンを切って十分と経っていないのに、室内の温度は外と大差なかった。内壁がまだ冷めておらず、輻射熱が高いため、すぐに温まってしまったのだろう。

 麺鉢をシンクに運び、カレーがこびり付かないよう水を張っておく。洗うのは明日の自分にお任せする。

 ユニットバスに行って、残り湯に頭をザブンと突っ込み、髪を洗った。シャンプーで泡だらけの頭をシャワーで流す。こんなに蒸し暑いのに、真水はひどく冷たく、肩が竦む。

 風呂の栓を抜く時、浴槽のへりにまた少しカビが生えているのを見つけ、歯を磨きながらトイレットペーパーで拭っておく。ついでに軽く風呂掃除をしてから床に就いた。


 時計の針は午前零時を指していた。疲れた体は一刻も早く休みたがっているのに、なかなか寝付けない。いろんなことで頭がいっぱいだった。


 しかしこんな時、僕には奥の手がある。

 セミの声の後遺症だろうか、目をとじて記憶に耳を澄ますだけで、けたたましい耳鳴りのようなセミの大合唱が、ありありと脳内に蘇ってくる。しばらくすると大合唱は、リラックス効果のあるホワイトノイズと化し、ゆっくりと遠ざかる。

 そしてあたりは静謐と化す。


 最早特技といっていいかもしれない。僕はあの研ぎ澄まされた感覚を、意のままに得ることができるのだ。

 静謐にそっと身を溶け込ませると、いつになく寂寥感が漂っていた。あるいは喪失感かもしれない。


 さくらが口を利かなくなった当初、僕は訳が分からず、ただただ困惑するばかりだった。どうしてこんな状況に陥ったのかと、何度も何度も同じことを考えた。堂々巡りは不安を生み、不安はやがて焦燥に変わり、憤懣、沮喪、呆然、愁怨……


 日を追うにつれ、心の様相はうつろい、新しいステップが加わっていった。

そして、どうやら僕は、最終ステージに辿り着こうとしているらしい。僕の心に漂い始めた不穏な空気の正体、それは、まぎれもなく諦念だった。


 僕は覚悟を決めるべきなのだろうか。それとも、じたばたするべきなのか。

あまり見苦しいことはしたくない。してどうなるとも思えない。

 とはいえ、最後に話し合いの席くらいは設けたい。どうしてこんなことになったのか、せめて理由くらい聞かないことには、このもやもやはこの先、長期に亙って僕を悩ませ続けることだろう。電話で話すのは気が進まない。膝を向け合い、直接目を見て話したい。たとえ彼女がそれを望んでいないとしても。


 いずれにせよ、全ては休みが明けてからだ。とりあえずさくらのことは忘れよう。休みの間、ずっと彼女のことを考え続けるのは、精神衛生上よろしくない。考えすぎると思考がますます危険な方へと進んで行って、諦念のその先、自分でも予想のつかない未知の領域に足を踏み入れてしまいそうな気がする。


 僕は心のもやもやを払拭するため強引に別のことを考えることにした。流行りの曲、話題の映画、好きなクラブチームと選手のこと、嫌いな芸能人のこと、さんざ迷った挙句、結局買わなかった車のこと、デンちゃんに教えてもらった茄子カレーのタイムを縮めるアイデアとそのシミュレーション。北海道にある種苗会社の最終面接があったあの日、あの時、タッチの差で飛行機に乗り遅れていなかったら、今頃僕は、どこで、どんな人生を送っていたのだろう……


 さくらのことが頭をよぎるたびに、これらどうでもいいこと、今さら考えても仕方のないことを矢継ぎ早に繰り出した。そして長い休みの間中、それを繰り返すこととなった。

 思いつく限りのありとあらゆるどうでもいいことを考えたつもりでいたけれど、このときの僕には、冗談にも、里帰りをしようなどという考えは思い浮かばなかった。


    第一章 完

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