我が家の音子さん

水永なずみ

少し長い短編

 俺は雨が嫌いだ。


 降るだけで夏は蒸し暑く、冬は更に寒くなる。傘を持たなくてはならないと考えるだけで気が滅入るし、俺の行く先々で嘲笑うように降ってくるのも低評価だ。だから、俺は雨が嫌いだ。

 



「六百四十円になります」


 濡れた傘を腕にかけ、財布から小銭を出す。


「ちょうどですね。毎度ありがとうございます」


 俺は軽く会釈してから、アクリル絵の具の入った袋を受け取った。

 エスカレーターを使って下の階に降りていく。

 すると、色々な商品が目に入ってきた。家具や文房具。洋服。化粧品にアクセサリー。


「あ、個展だって。見に行く?」


 前の親子の会話が聞こえてくる。


「やだ。よく分かんないしつまんないもん。それよりゲーム買ってよ!」


 母親の問いかけに対して答える少年。辛辣な言葉だな。思わず苦い笑みが浮かぶ。


「ダメよ。もう少しで誕生日なんだから、それまで我慢しなさい」

「えー? やだ!」


 そんな会話をしながらその親子は地下の生鮮売場へ消えていった。

 個展の案内ポスターをチラリと見ると、そこには抽象画が描かれている。

 ……百貨店で抽象画とは勇気がある。おそらく若手の画家の作品だろうな。

 俺は傘を差してその場を後にした。




 自宅の玄関で傘を軽く振って雨水を飛ばし、傘立てに突っ込む。

 俺の部屋は特に何も無い部屋だ。

 真っ白な空間の中に机と座布団が置いてあるだけ。

 生活感が無いだの枯れているだの言われるが、俺からすればこれが当たり前だ。部屋には必要最低限の物さえあればそれでいい。

 ジャケットを脱いでハンガーにかけていると、ズボンの右ポケットから着信音が聞こえた。ブルブルと震えて自己主張を続ける携帯電話を取り出し、耳に当てる。


「もしもし」

『よお。久しぶりだな、高崎』

「ああ。そうだな。何か用か?」

『相変わらず素っ気ないな』


 こいつが電話してくる時は大体頼み事だからな。それも厄介事の類いばかり。


『まあ、いいや。それじゃあ、単刀直入でいくぞ。一つ頼みたいことがある』


 やっぱりな。


「なんだ?」

『アトリエを貰ってくれないか?』



 

 俺は電車に揺られていた。


『海外に移住することにしたんだが、受け継いだアトリエをどうするか困っててな』


 改札口を出て、地図を見ながら目的地へ向かう。


『仕方なく取り壊そうとしたら怪我人が出るわ、売ろうとすれば見に来た不動産屋が血相変えて逃げるわでな』


 目的の建物は二階建ての小さな家だった。都会の景観に完全に馴染んでいて、一度見ていても忘れそうなほど何の変哲も無い建物だ。ただ、年季は入っている。それにどこか懐かしい感じがするのが気になった。


『お前、昔から幽霊がいるなら見てみたいとか言ってたよな? 今スランプ中なんだろ? そこで絵を描いてたら何かアイデアを授けてくれるかもしれないぞ?』

「好き放題言ってくれるな、本当に」


 今ごろ飛行機に乗っているであろう友人に対して呟きながら、俺は扉を開けた。

 広間を横切り、台所やトイレなどの位置を確認する。どこも新品同然とまでは言えないが、綺麗だった。小まめに掃除されていたらしい。


 あいつは妙なところで真面目さを発揮する男だな。


 俺は持って来た画材を広間に置き、二階に上がった。そこで目にしたのは……。


「ピアノ?」


 鍵盤に蓋がされるタイプのピアノだった。これも綺麗に掃除されている。

 なぜこんな所に置いてあるんだ? あいつが音楽好きだとは聞いたことがないが。……気にしても仕方ないか。

 二階にはピアノ以外に目を惹くような物は無かった。俺は一階に戻り、絵を描く準備をする。

 キャンバスを立て掛け、木炭を手の中で転がしながら軽く思案する。さて、何を描いたものか。


 不意に、黄色く差し込んでいた光が青く濁り、それまで暖かかった室内が少し冷えた。

 続いて大量の滴が落ちてくる音が聞こえ、俺の心を湿らせてくる。


 ……降ってきたな。もう六月。梅雨の時期に入ったからだろう。やはり傘を持ってくるべきだったか。


 俺は憂鬱な気分を溜息と共に吐き出し、気分転換に猫の絵を描き始めた。

 まずは頭の中に浮かんだ構図を頼りに、軽くスケッチをする。

 ある程度描いたら炭を払い落とし、パレットに絵の具を絞り出す。俺が筆を持った、その時。


 部屋の壁をノックする音が聞こえた。


 手を止めて振り返る。当然、誰もいない。単なる空耳だろう。俺は気を取り直して筆を濡らす。

 

 再び、三回壁を叩く音がした。


「誰かいるのか?」


 虚空に問いかけ、席を立つ。『誰か』などいるはずがない。このアトリエの部屋は全て見て回ったのだから。

 俺は音がしたほうへ歩いていった。確かこの辺りから聞こえてきたはずだ。

 階段の前に立つと、今度は二階から何か硬いものを叩く音が聞こえ始めた。それは一定のリズムで絶え間なく続く。


 誘導されている。直感でそう思った。この先に何が待っているのか不安ではあったが、それよりも好奇心が勝った。


 俺は踏むたびに軋んで音がする階段を、一歩ずつ踏みしめながら音に近づいていく。

 一歩ずつ、一歩ずつ。慎重に。


 最後の段を上り終えた時にはいつの間にか音は鳴り止み、一つのピアノが目の前にあるだけだ。

 静寂の中、雨粒が急かすように窓に当たって弾ける。

 その音に突き動かされるように俺はおもむろに握り拳を作り、蓋を軽く叩いた。この音だ、間違いない。

 蓋を開ける。すると、


「な……⁉︎」


 ピアノが独りでに曲を奏で始めた。


 呆気にとられる俺の目の前で、鍵盤が流れるように音を紡ぐ。

 それは聴いているだけで自然と笑みが溢れる、どこか懐かしい感じさえする温かい音色だ。

 そこに弾き手の姿は見えないのに、楽しくて仕方ないという思いがひしひしと感じられた。


 不思議な光景だった。不思議で、綺麗だ。


 曲が終わった。気付けば俺は、その演奏に拍手を送っていた。


「あんたは、アレか? 透明人間ってヤツなのか?」


 ピアノに向かって問いかける。返答は無いだろうと思っていたら、低い音が一つ鳴った。違う、ってことか? これだと分かりづらいな。


「すまないが、『はい』なら一回。『いいえ』なら二回。『分からない』なら三回壁を叩いてくれ」


 すると、壁が二回叩かれた。


「なら、学校の怪談で良くある……」


 言い終わる前に今度は一回。

 つまり、なんだ。ポルターガイストとでも言えばいいのだろうか。

 このポルターガイストには意思がある。それは確かなことだろう。そうなると気になるのは、


「ここに取り憑いてる幽霊か何かってことか?」


 少し間を置いて、壁が三回叩かれた。


「ふむ」


 分からない、か。


 この怪奇現象をポルターガイストと言うと語弊がある。しかし、幽霊とも言い切れない。

 ならば、この現象には新しい名前が必要だろう。


「これからアトリエを使う仲間として、あんたに名前を付けたいと思うんだが、嫌か?」


 壁が高速で二回叩かれた。


「良いってことか?」


 一回。


「そうか」


 ということで、名前を考える。何が良いだろうか。音。ポルターガイスト。学校の怪談……。怪談か。トイレの花子さんくらいしか思い浮かばんな。


「そうだな……。『音子さん』、ていうのはどうだ?」


 たっぷり三十秒は間を置き、一回。渋々といった感じで壁が叩かれた。



 

 ポルターガイスト改め、音子さんに俺はその後もいくつか質問をした。

 音子さんが突然現れた理由に一つ心当たりがあったからだ。


 質問をして分かったのは二つ。音子さんは雨の日にしか現れないということと、自分がピアノに向かって独り言を呟き続ける変なヤツだということだけだ。


 なぜ雨の日だけなのか。音子さんの正体は何なのか。なぜこのアトリエにいるのか。

 そういったことは何一つ分からなかった。


 しかし、考えてみれば当然だ。壁を叩くことでしか意思表示が出来ない相手に聞いて解ける類いの謎ではないのだから。


 仕方なく、俺は一階に戻って絵を描くことにした。描きかけの猫を、ではない。今見たばかりの不思議な光景を絵に残したくなったのだ。

 アイデアノートに様々な構図のピアノやアトリエの一室を描いていく。


 こうじゃない。これも違う。ならば、これなら……いや、駄目だな。良い絵にならない。


 音子さんの弾くピアノをBGMにして、自分との一本先取の闘いは続く。

 『追求』が勝つか『妥協』が勝つか。闘いは熱を持ち、俺の額に汗が滲む。

 永遠に続くかと思われたその勝負は、唐突に終わった。

 ピアノがピタリと止まったのだ。

 おや? と思い、顔を上げる。窓の外を見れば厚い雲は消え、赤い空に鳥が飛んでいた。

 俺はポツリと一言。


「今日は帰るか」



 

 自宅に帰り、俺がまず最初にやったこと。それは、


「もしもし」

『……何か用か? 今寝てたんだが』


 あのアトリエを押し付けてきた張本人。斎藤に電話をかけることだった。


「そりゃすまんな。ところで、お前。だいぶ昔に『雨の日の幽霊』がどうのとか言ってたよな?」


 斎藤は眠そうな声で、


『そんなに昔でもないだろ。お前が「雨の日しか出ないなら怖くない。むしろ見てみたい」とか言ってたやつだな。雨男のくせにな』

「放っとけ。それで、その幽霊はなんで雨の日にしか出ないんだ?」

『あー。確か、俺の爺さんから聞いた話だと晴れてる日は寝てるかららしい』


 爺さん、と聞いた時。なぜか胸が締め付けられる感じがした。会ったことなんてあったか? いや、今はそれよりも。


「寝てる?」

『ああ。晴れの日は気持ち良いから寝るが、雨の日は頭が濡れて眠れない。だから出てくるんだと』


 よく意味がわからんな。なんで頭が濡れるんだ。……やはり考えても分からない類のヤツだな。


『もう遅いから切るぞ』


 他にも聞きたいことはあったんだが、仕方ないか。


「ああ。用件はそれだけだ。じゃあな」


 電話を終えた俺は、翌日から再び自分との闘いを始めた。

 三日三晩続いたその勝負は結局、『妥協』の勝利という形で幕を下ろした。敗因は『客が求めるカタチを崩せなかった』ことだろう。


 とりあえず描いてみることにした俺は、一番マシな構図を選び、キャンバスにスケッチをした。

 筆を取り、全体を塗っていく。乾かし、塗る。また乾かし、細部を描いていく。


 絵の具を乾かしている間は音子さんのピアノを聴いた。

 椅子に腰掛けてぼんやりと演奏に耳を傾けていると、ふと百貨店であの少年が言った言葉が思い出された。


「よく分からない、か」


 ポスターに描かれた抽象画が脳裏に浮かぶ。

 確かに日本では抽象画はあまり人気が無い。俺の絵も花鳥風月や風景画のほうがよく売れる。犬を描きたいのに猫の絵ばかり売れるといった話も聞いたことがある。

 描きたいものと需要は必ずしも一致するとは限らないということだ。

 だから、いつしか俺が描くのもそういったものばかりになって……。


 唐突に演奏が止んだ。


 続けて壁が高速で連打される。壁に穴が開きそうだな。

 そう思いながら音のするほうを見ると、時計が午後二時を指していた。

 もうこんな時間か。昼飯でも食うか。


「そういえば、音子さんは飯を食うのか?」


 一回、壁が叩かれる。聞いといてなんだが、食べるんだな。


「お供え物でもするべきか?」


 今度は二回。……どういうことだ?


「もしかして、俺の昼飯を一緒に食べるってことでいいのか?」


 少し間があり、小さく一回。壁が叩かれた。



 

 近所のコンビニで弁当を手に取る。ペットボトルのお茶と……。後は一応デザートも買ってみるか。俺は一番最初に目に付いたシュークリームも掴んでレジへ向かう。

 支払いを済ませ、温められた弁当の入った袋を持ってアトリエに戻った。

 無言で箸を割って食べようとすると、二回。机が叩かれる。


「ん?」


 よく分からないので無視してトンカツを摘み口に運ぼうとすると、今度は箸が叩かれた。

 落ちたトンカツをもう一度摘む。また叩かれる。摘む。叩かれる。摘む。叩く。摘む。叩く……。


「何なんだ一体」


 虚空を睨む。すると、手を打ち鳴らすような音がした。俺はその動作を想像して、


「あ、『いただきます』を言えってことか?」


 壁が一回叩かれた。我が意を得たりと言わんばかりだ。


「はぁ……」


 俺は脱力しながら「いただきます」と呟き、トンカツを口に運ぶ。今度は邪魔されることなく食べることができた。

 しばらく無言で弁当を食べ、咀嚼しながらシュークリームの袋を開ける。特に深い理由は無い。音子さんの食べる速度が分からないので一応開けただけだ。


「美味いか?」


 一回。


「弁当とシュークリーム。どっちが美味い?」


 シュークリームのほうの机が連打された。


「そりゃ良かった」


 その後、食べ終わったゴミを捨てると俺たちはそれぞれの場所に戻った。音子さんは二階でピアノを弾き、俺は一階で日が暮れるまで絵を描く。


「じゃあ、また明日」


 そう呟くと曲が変わった。なぜそこで子牛が出荷される曲を弾き始めるんだ……。まぁ、いいか。



 

 それからも俺はアトリエに通い、絵を描き、曲を聴いて。昼飯を食って、また絵を描き、自宅へ帰るという生活を送った。

 そんなある日のことだ。

 その日も俺は絵を描いていた。


「ふぅ……」


 意識を絵から遠ざける。少し休憩しよう。そう思い、背もたれに体を預ける。

 暫し目を閉じていると、階段のほうから俺を呼ぶ音が聞こえた。一定のリズムで繰り返し壁が叩かれる。


「どうかしたのか?」


 俺は二階に上がり、ピアノに向かって問いかける。

 すると、一音ずつ鍵盤が弾かれ始めた。


 ド、レ、ミ、ファ、ソ。ラ、シ、ド……。

 ん? 今の音はソだったのか?


 音子さんが何度も同じ箇所の鍵盤を弾く。楽器が分からない俺でも言いたいことが分かった。


「音が変だから調律してくれってことか」


 壁が一回叩かれた。

 俺は頷き、調律師を呼んで修理を頼んだ。


「これは、しばらくお時間を頂くことになると思います」

「構いません。よろしくお願いします」


 調律師が二階で作業をしている間、特にやることもないので、一階で椅子に座って虚空を眺める。


「音子さんは雨の日以外は寝てると聞いたが、本当なのか?」


 呟きに反応するように壁が一回叩かれた。本当に寝てるのか……。


「工事をしようとしたら怪我人が出たそうだが、あんたの仕業だったのか?」


 二回強めに叩かれた。違うのか。確かに、ここに来てみて分かったが、音子さんはそんなことはやりそうにない。


「不動産屋が血相変えて逃げたってのは本当か?」


 壁が一回、小さく叩かれた。心なしかしゅんとしている気がする。


「突然壁から音がしたら怖いだろうな。まぁ、仕方ないさ」


 そんな感じで俺は音子さんと会話をして時間を潰した。


「お待たせしました」


 調律師が降りてきた。


「お疲れ様です。ありがとうございました」

「いえ。仕事ですので。それにしても、よく使い込まれていますね。ピアノも嬉しがっていましたよ」

「分かるんですか?」

「ええ。沢山見てきましたからね」


 それだけ言うと調律師は去っていった。

 ドアを閉めて部屋に向き直る。


「だそうだ。良かったな」


 壁が一回。弾むような音を立てた。

 



 六月の半ば。その日は珍しく晴れていた。

 俺はいつも通りアトリエへ向かう。そこで絵の続きを描く、のだが。


「……調子が出ないな」


 静かなアトリエに俺の呟きが響いた。おかしいな。ここに来るまでと同じ環境のはずなんだが。

 俺はいつの間にか音子さんのピアノに随分と頼っていたらしい。

 結局、例の絵を少し描いただけで切り上げ、アトリエの周辺を散歩することにした。

 乾いた風に吹かれながら公園や近くの川の土手を歩く。そこで頭に浮かぶのは昔のことばかりだ。


 俺が『良い絵』を描けなくなってから、もう随分経つ。

 昔は自分でも満足のいく絵が描けた。日々腕を磨き、絵を描くことに充足感を覚えていた。


「物には魂が宿る」


 青い空を見て、ポツリと呟く。当時の俺はそれを本気で信じていた。このまま描き続ければ、いつか自分の絵に魂が宿ると、そう信じていた。

 しかし、いつからだっただろうか。そんな自分の最高記録が更新出来なくなった。限界が見えてしまったのだ。そこからはあんなに楽しかった『絵を描く』という行為が、ただの作業と化した。

 次第に俺は個展を開かなくなり、仲間たちと疎遠になった。過去の遺産を食い潰して生きる毎日。


 そこに夢に見た理想の画家の姿は無い。あるのは、夢を諦めた中年の姿だけだった。


 刻々と色を深めていく夕焼け空を無感動な目で見つめてから、俺は家に帰った。

 



 六月下旬。降りしきる雨の中、俺はアトリエで音子さんのピアノを聴いていた。


「なぁ。あんたはピアノを弾くのがつまらないと思ったことはないか?」


 演奏が中断され、壁が二回叩かれた。


「なんで、楽しいんだ?」


 返答はない。答えの出ない質問をしてしまった。


「ピアノを弾く以外のことをしたいと思ったことはあるのか?」


 二回。音子さんはピアノさえあれば生きていけるらしい。生きているかどうかすら分からんが。


「そうか」


 俺が黙ると、再び演奏が始まった。



 

 そして、七月に入った頃。絵が完成した。

 出来栄えを確認する俺の横で音子さんが拍手をしてくれる。一つの作品が完成したことはめでたいだろう。だが、


「全然駄目だな」


 溜息とともに言葉を吐き出す。拍手が止まった。


「全然あの光景を表現出来ていない」


 静寂の中、俺の声だけが響く。


「この絵には魂が宿っていない」


 風で窓がカタカタと揺れ始める。雨が一段と強まった気がした。


「……もう、無理だ。やっぱり俺に『良い絵』は描けない」


 バン!


 強く、窓が叩かれた。これまで聞いたことが無いくらい強い力だった。

 思わず窓を見る。陰気な顔の自分が映った。


「なんで、あんたが怒ってるんだ」


 音子さんは応えない。答えられない。


「……仕方ないだろう。描きたい絵と売れる絵は違うんだ。絵は、売れないと意味が無いんだよ」


 そう言った瞬間。俺の胸が、音子さんに小突かれた。


「は……?」


 突然のことに呆然と立ち尽くす俺。


「どういう、意味だ?」


 虚空に向かって問いかける。

 しかし、それだけで分かるだろうとでも言わんばかりに、それきり音子さんが現れることはなかった。


「分からない。それだけじゃ、分からねぇよ」


 ザーザーと降る雨の音がいやに大きく聞こえた。



 

 俺は自宅に帰り、ベッドに腰を下ろした。


「はぁ……」


 溜息が出る。音子さんは俺に何を伝えたかったのだろうか。『良い絵』を描けないと諦めたのが悪かったのか? それとも、俺が妥協して絵を描いたことに気付かれたのか?

 だが、画家も商売だ。客が求める絵を描かないと意味が無いだろう。たとえそれが、本当に自分が描きたいカタチでは無かったとしても。

 不意に携帯電話が鳴った。


「……もしもし」

『よお。元気、そうじゃねえな』

「ああ。少し疲れててな」

『悩みか? 聞いてやるが?』

「別にそんな大層なもんじゃない」


 それより、この際だ。聞きたいことを聞こう。


「なあ。お前はあの怪奇現象の正体を知ってるか?」

『……まさか、見たのか?』


 質問に質問で返すな。というか、見た?


「あれは見えるもんじゃないだろう」

『そうなのか』


 話が噛み合わない。


「お前、もしかして一度もあの怪奇現象に会ってないのか?」

『雨の日の幽霊だろ? ああ。会ったことはない。俺は晴れ男だからな』

「うそだろ……」


 絶句した。


『あー。いや、待てよ? そういえば、一回変なことが起きたな』


 俺が脱力していると、何かを思い出したように斎藤が声を上げた。


「なんだ?」

『お前がウチの爺さんと話してた時に二階からピアノの音が聞こえてな。見に行っても誰もいなかったことがある』


 会ってんじゃねぇか。いや、それより気になるのは、


「俺が? お前んとこの爺さんと? どこで?」

『アトリエで。まぁ、お互い小さかったし、お前が来たのは一回だけだったからな。憶えてなくても無理はない』


 アトリエ。ピアノの演奏。爺さん……。

 何か思い出せそうなのに、ピースが足りない。あと一つ何かが……。

 そうだ。前に爺さんのことを聞いた時、確かに胸が締め付けられるような感じがした。音子さんに小突かれたのも同じ場所だった。

 俺は握り拳を作って胸に当てる。


 その瞬間、カチリと何かがはまった。

 

 全身を貫く激しい電流のような衝撃と共に、長年蓋をしていた記憶が堰を切ったように心に流れ込んでくる。

 それは、俺が初めて絵に興味を持ったきっかけだった。

 ………

 ……

 …

『坊主。物にはな。魂ってやつが宿るんだ』


 俺がまだ小さかった頃。アトリエに遊びに行った時、爺さんにそんなことを言われた。


『タマシイ?』

『ああ。この筆にも、絵にも、アトリエにも魂は宿る』

『へぇ。絵にも?』


 俺はキャンバスに描かれた不思議な絵をじっと見つめた。なぜか魅入られる絵だった。


『この絵が気に入ったか?』

『うん。僕も描いてみたい』

『なら、俺から一つアドバイスだ』


 爺さんは俺の胸を軽く小突いて。

 

「描きたいように描け」

 

 口が、勝手に動いた。

 そうだった。なんでこんなに大切なことを忘れてたんだ。


「そうか。分かった」


 斎藤にそう告げて、俺は返事も聞かず電話を切った。

 足早にアトリエに到着するとドアを開ける。歓迎の曲で出迎えられた。

 俺は傘立てに傘を突っ込んで二階に上がり、ピアノに向かい合う。


「少し、話を聞いてくれるか?」


 演奏が止まった。俺は頷いて語り始める。


「俺は、壁を作っていたんだ。見えてしまった自分の限界から目を背けるように。初めて見たあの絵には辿り着けないと知って、俺は……逃げたんだ」


 目を背けた年数と同じ数だけ壁は高くなった。

 俺はいつしかそれまでの経験から売れる絵と売れない絵を線引きするようになった。その分、壁が分厚くなった。

 気付けば、理想と現実の間には堅固な砦が出来上がっていた。


「でも、違うんだよな」


 俺が見た限界は、ずっと昔に見たものだ。

 それに、売れるか売れないかは客が決めるものだ。俺が決めるものじゃない。

 そのことを音子さんは、俺に気付かせたかったんじゃないか? そして、


「あんたは、俺が爺さんとした会話を知っていた。だから、それを俺に思い出させようとしてくれたんじゃないか?」


 音子さんは壁を叩く代わりに曲を弾いた。

 今なら分かる。初めて会った時に聴いたこの曲。それは、俺が初めてアトリエに来て爺さんと会った時に聞いたのと同じ曲だ。

 音子さんは初めからずっと俺に気付かせようとしてくれてたのか。


「ありがとう。俺は、大丈夫だ。もう迷わない」


 そう言うと、誰かが優しく微笑んだ気がした。


 俺は一階に戻り、絵の具を絞り出す。一番最初。あの時見たままに、感じたままに描く。

 評価も需要も『良い絵』かどうかも関係ない。ただ、思いのままに。今の俺の全力をぶつけよう。



 

 梅雨が明けたと天気予報で伝えられた翌日。俺は百貨店にいた。


「よお。久しぶりだな、高崎。個展をやるっていうから見に来てやったぞ」


 中年が片手を上げてこちらへ向かってくる。


「ああ。久しぶりだな。斎藤」


 斎藤は少し見ない間に随分と日に焼けていた。


「どういう風の吹き回しだ? スランプは抜けたのか? 『良い絵』が描けたのか?」

「質問ばかりだな」


 俺は思わず苦笑する。


「スランプはどうだろうな。抜けたのか分からん。『良い絵』のことなら、もう気は済んだ」

「ほう……?」


 訝しむように斎藤が顎に手を当てる。

 不意にエスカレーターのほうから声がした。


「誕生日になったよ! お母さん、ほら早く!」


 見ると、少年が母親を急かしていた。どこかで見たような気がするな。

 少年は視線を感じたのかこちらを見る。すると、大きな目が更に広げられた。

 トテトテとこちらへ向かってくる。

 俺のそばまでやってくると絵を指差し、


「この絵、おじさんが描いたの?」

「ああ、そうだ。自慢の絵さ。気に入ったか?」


 少年はしばらく絵を見つめ、


「変な絵。だけど、すごくキレイ」

「そうか」


 それは、俺が音子さんの演奏を初めて見た時と同じ感想だった。思わず口元に笑みが浮かぶ。


「ゆーくん? どこいったの?」

「お母さん! こっち!」


 母親がこちらに近づいてくる。


「もう、急にどこか行ったら──」

「ねぇ! これ買って!」


 母親の言葉を遮って絵を指差す少年。


「え? ゲームはいいの?」

「うん。いいの!」

 



 個展が終わり、俺たちは百貨店の外へ出る。

 斎藤は空を見上げ、


「お前、変わったな」

「そうか?」

「ああ。変わったよ」


 自分の手を見る。特に変わった自覚は無いが。


「うわー。降ってきた。梅雨は明けたんじゃないのかよ」

「そうだな」


 ただ、強いて言うなら、


「ん? なんだか嬉しそうだな」

「分かるか?」


 俺の中で何かが変わったとするなら、それは。


 雨が好きになったことくらいだろう。 

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我が家の音子さん 水永なずみ @mizu1234

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