第23話 「紫樹家の朝」
翌朝、
フィリップである。
黒いトレーニング用のジャージ姿で、
両脚を前後に腰を落とし、両指先はものをつかむような形で胸元に構える。
そこから両腕を素早く回し、シャドーボクシングのように見えない相手に攻撃を繰り出していく。
さらに片脚を軸として、
まだ太陽は東の山並みに隠れており、わずかな秋の陽射ししか庭園に降り注いではいない。
フィリップの額に浮かぶ汗が陽の光を反射させる。
豪華な公園を彷彿とさせる広い空間で、トレーニングを続ける呼吸音だけが響く。
「フシューッ」
フィリップは口から勢いよく息を吐き、いったん動きを止める。
爽やかな笑みの浮かぶ顔。
物心ついたころより祖父に手ほどきを受けた。
神学校を卒業し、神父となってからもトレーニングは欠かさない。
もちろんエクソシストとして悪魔たちと戦うためには、この拳法は大いに役立っている。
師のマルティヌスは固有の体術は身に付けてはいない。
すべて実戦により己の肉体と精神を鍛えてきていた。
まだまだ師の足元にも及ばないとフィリップは思う。
肉体だけではなく、精神の力と合わさり相乗効果を生み出さねばならないからだ。
芝の上に腰をおろし、置いていたタオルで汗を拭った。
「それにしても」
フィリップは昨夜の夕飯時を思い返した。
当主である
懐石料理と呼ぶそうだ。
らんときりも同席した。
このときフィリップは首を傾げてしまったのであった。
マルティヌスは同じ神父の正装であった。
歓待の席ということで、ドレスコードを意識した。
だが、源之進、らん、きりはなぜだか紺色のトレーニングウエア姿、しかもブランド物ではなく中学生か高校生が体育の授業を受ける際に着用する、いわゆる体操服であったのだ。
さらにパリッとしたスーツ姿であった高見沢は、白いランニングシャツに短パンと、まるで今から陸上競技でも始めるのかという格好で広間にやってきたのだ。
料理は今まで味わったことのない、素晴らしく抜群に美味かった。
らんときりにシャンパンを勧められたが、マルティヌスとフィリップはアルコールをたしなまない。
源之進は日本茶、高見沢はプロテイン配合の青汁を飲んでいた。
当然のようにそのグリーンの液体を勧められるも、丁寧にお断りしたのだが。
らんときりは三本ほど高級なシャンパンを空けたが顔色ひとつ変わらず、チャーミングな表情で会話と食事を楽しんでいたようだ。
「おや、神父さま」
振り返ると、ランニングスタイルで高見沢が屋敷から出てきて丁寧に頭を下げた。
この家では誰もが英語を流暢に扱ってくれるのでコミュニケーションが取れるのはありがたい。
「おはようございます、高見沢さん」
「朝からトレーニングですか。
やはりエクソシトなる職業には必要なんでしょう」
「いえいえ、これはぼくが個人として練習しているだけです。
それよりも高見沢さんは?」
太陽が少しずつ上りはじめ、庭園を照らしていく。
「わたしもトレーニングです。
ほとんど毎朝走っていますよ、二十キロほど」
「にじゅっ、二十キロですか!」
「はははっ、軽く、ですよ。
それではまた朝食時に」
快活に笑いながら高見沢は走り出す。
フィリップはプロテイン飲料をわけてもらおうかと、真剣に考えた。
~~♡♡~~
朝食は午前七時から昨晩と同じ広間でいただいた。
この朝食もフィリップにはありがたかった。
故郷の香港ではお年寄りや時間のある人は朝からゆっくりと
だが共働きが当たり前の忙しい香港では、出勤前に外で朝ごはんを食べる人が意外に多い。
また、会社に朝ごはんを持参してデスクで仕事前に腹ごしらえをするのも一般的である。
メニューの多さと朝ごはんを提供する店の多さから判断しても、家で朝食を済ませるひとはかなり少ない。
ちなみに朝食は広東語で
ちなみにランチは
マルティヌスはまず朝食を摂らない。
場合によっては一日一食のときもある。
そのかわり、一回にとてつもない量を摂取するのだ。
食事は楽しむのではなく、あくまでもエネルギー補給の一環に過ぎない。
職業柄、時間をかけてご飯を楽しむことは無理であるからだ。
修業の旅では若い弟子を思い、なるべく食事の時間を取るように心がけるマルティヌスであったが、それでも不規則であった。
フィリップはもちろん異を唱えることはしない。
これも修業と己に言い聞かせていた。
だから昨晩に続き、きっちりと朝食をいただけることを神に感謝した。
ちなみに朝食は簡単なバイキング形式でキクは用意していた。
異国の客人には、これがもっとも評判がいいからである。
朝食後は別棟へと案内された。
らんときりの基地である。
~~♡♡~~
「狭い基地だけどさ、どうぞ、入って」
きりは建物を見上げるふたりに言った。
らんときりは朝食時の体操服から、地区保安官の制服姿になっていた。
らんが玄関横の指紋認証セキュリティに手をかざす。
ガチャンッとかなり大きな
「ほほう、これはかなりガードがキツイ建物じゃな」
頭にはカロット、
「ええ、さようでございますの。
なんと申しましても
剣呑な武器なども保管されておりますゆえ」
振り返り、らんは微笑む。
四人が玄関から入ると再びロックされた。
一階は車庫が大部分をしめているため、十二畳ほどの部屋があるだけだ。
ここはらんときりがティータイムを楽しむために書棚やソファ、オーディオシステムが配置されている。
二階へ上がる階段。
先にきりが進み、マルティヌス、フィリップ、らんと続いた。
らんときりの自室前を通り、奥にある部屋の前で今度はきりがロック解除した。
フィリップは一礼しながら部屋へ入り、またしても驚嘆のため息を吐く。
民家の設備ではない。
ポリスの指令センターを縮小したコントロールルームだ。
窓は一切なく、正面の壁には巨大な液晶画面があり、手前には通信機器類を備えたシステム。
肘掛けチェアがふたつあり、さらに横には別室へつながるドアが閉じられていた。
「ほほう、日本のエクソシストは近代科学を駆使されておるようじゃな」
マルティヌスも感心した声をあげる。
らんはコントロールパネルを操作し、正面の液晶画面を見つめる。
ブンっと液晶に電流が流れる音がした。
走査線が五秒ほど画面を走り、パネルのスピーカーから「セキュリティ稼働、シバラクオマチクダサイ」と機械音。
数秒のち、パッと画面に映像が映った。
長い黒髪を真ん中からわけた彫りの深い男性の顔が現れた。
スーツと白いシャツ、えんじ色のネクタイ姿である。
目尻の切れ上がった鋭い眼差しは、武士のような
「おはようございまーす、副長」
らんはパネルのカメラに微笑みかけた。
「昨夜、バチカンから来られましたエクソシトのおふたりですの」
大画面に浮かぶ男は、ひとつうなずいた。
普段は電話回線のみでやりとりをする。
検非違使庁もお役所のひとつであるから、コスト面を極力抑えるためだ。
だが今回は、はるばる海外からやってきた、それも地位としては一等書記官である神父である。
本来なら長官代行として、直接足を運ばねばならない相手であるのだ。
「おはようございます、遠路はるばるお越しいただき感謝申し上げます。
わたしは検非違使庁副長を拝命しております、
本来であれば直接お会いしなければならないのですが、長官である
マルティヌスは丸眼鏡の目を細め、手をふる。
「あいや、構いませんぞ。
こたびは急を要する案件じゃからして。
わしはマルティヌス、そしてこっちが現在修業中のフィリップと申す。
一介の神父じゃ」
横に立つフィリップは丁寧に頭を下げた。
つづく
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