3-16

「……わたしだけでは、あんな風にはできませんでした」


「お前がアレをやっちゃダメなんだよ。お前は正義のヒーローにならなきゃいけないんだから」


「さっきまでの言葉は、お兄ちゃんなりの正義ではなかったのですか?」


「正義ってわけじゃない。ただの同族嫌悪だよ」


「よく、わかりません」


「いいんだよ、わからなくて」


 むぅ、と不服そうに頬を膨らませるバルクガールだったが、その表情もすぐに引っ込んだ。何だかんだ言いつつも、ひとまず無事に終わったということで納得したのかもしれない。


「ま、何はともあれこれで終了だ。あとはスミカ先輩に連絡して――」


 そこまで言いかけたとき、俺の鼻先を緑色の霞が横切った。

 それが何かを理解するより先に、本能の警鐘が鳴る。だが、逃げるとか声を上げるとか、何が正しいかを判断するには時間が足りなかった。


 月明かりの中を漂う濃緑の靄。しゅるしゅると互いに結びつくように結実していくそれは、直接見るのは初めてで、けれどこの都市に暮らす人間なら何度となくテレビやネットで目にしているもの。

 この街で最も危険な――――。


「グリーン、ミスト」


 バルクガールの呟きと同時に、大の字になって笑っていたワイルドガウンの声が掻き消える。


「かひゅっ、ぁ、か」


「……お務め、ご苦労様でしタ」


「で、べぇっ、ごぼっ」


 ワイルドガウンの虚ろな瞳が、最後の光を通して目の前の人物を睨みつける。

 緑の靄が全て消えたあとに現れたのは派手な緑色のタキシードとシルクハットを纏ったひょろ長い人影。ワイルドガウンに馬乗りになったその人物は、右手に握ったナイフをワイルドガウンの喉に突き立て、奥へ奥へと押し込んでいた。


「このまま掴まられても面倒ですのデ、ここで始末させていただきまス。……悪く、思わないで下さいネ?」


「ま、がっ、ぎっ――――」


 ごぶっ、と音を立てて血が溢れる。強引にねじ込み、強引に抜き取ったナイフを、グリーンミストはその場に放り捨てた。

 そしてたった今殺した男への関心は全てナイフとともに捨てたと言いたげに、くるりとこちらを振り返る。緑色のレンズが嵌ったモノクルの奥でわずかに目が細められた。


「お久しぶりでス、バルクガール」


 月光を受けて輝く銀色の髪がふわりと舞う。ハットを脱いで丁寧に礼をしたグリーンミストはにっこりと口元に笑みを浮かべてバルクガールに呼びかけた。


「いやはや本当にお久しイ。その後如何でス? お元気でいらっしゃいましたカ?」


「ぅ、ぁ」


 バルクガールは答えない。いや、覗き見たその表情が、答えられないのだと告げていた。

 恐怖に目を見開き、口元はわなわなと震えている。それはただ単に街で最強のヴィランに遭遇したからという理由では説明できない怯え方だ。まるでその恐怖を、痛みを、本当に味わったことがあるかのような。


「こな、ぃで」


「はっはっは、これは随分と嫌われてしまったようデ。んー残念ですナァ」


 独特の、語尾を強める口調はその一見穏やかそうな物腰に反して、相手の言葉など聞く気が無いという一方通行の意思伝達を表しているようだった。


「旧好を暖めたいのはやまやまなのですがネ、あいにく私も忙しい身でしテ。名残惜しいですが次の機会に致しましょウ。慌ただしくて申し訳なイ」


 では、と最後にもう一礼したかと思うと、まばたきの間にグリーンミストの姿は消え、濃緑の靄が再び俺の鼻先を掠めて天井の穴から流れ出していった。


 ……最初から最後まで、一度もあの男は俺を見なかった。まるで俺の存在に気付かなかったかのように、本当にただの一瞬すらも、かすかに視線を揺らすことすらもしなかった。それは俺の存在を無視していたというより、むしろ……バルクガールしか見えていなかったような、バルクガールにしか関心が無かったような、それは視線というよりも纏わり付く執着心がそのまま形をなしたような、そんな印象だった。


「……お前、」


 俺が何かを尋ねようとした途端、倒れ込むように膝をついたバルクガールの強靭過ぎる肉体が俺に覆い被さってきた。


「ちょっ、おい、どうし――」


「っ」


 重くはない。覆い被さってきただけで、のしかかってきたわけではない。体重を預けてきたのではなくこれは多分、抱きつかれて、いるのか?

 両腕を俺の背に回し、肩に頭を乗せてきたバルクガールの身体は震えていた。


「…………」


 正直事態が飲み込めていない。


 グリーンミストはどうやらワイルドガウンを殺すためにここに現れたらしい。あの口ぶりからすると、ワイルドガウンと何かしらの繋がりがあったのだろう。グリーンミストの立場からするとこの街に来たばかりのワイルドガウンに何かしらの援助をしていたのかもしれない。


 だがその後のことはさっぱりだ。


 どう見てもグリーンミストとバルクガールは初対面じゃない。それも顔見知りなんてレベルではなく、因縁と呼んで差し支えないレベルの関係があるのは明白だ。だが、それがどんなものなのか両者の言動からはまるでわからない。グリーンミストは表面上は好意を、バルクガールは心底からの恐怖を見せた。それは一体、どんな関係を意味するのか。


「お兄ちゃん、わた、し、わたしっ、ぁ、うぁ」


「わかったわかった、とりあえず落ち着け、ほれ」


 正直俺は俺で猫どもにつけられた傷と、開いてしまったらしい足の傷とで満身創痍なんだが。まぁ、こいつが落ち着くまで頭を撫でてやるくらいは、してやってもいいだろう。綺麗な髪に血が付いちまうが、我慢してもらうしかない。


 おそらく既に息絶えているだろうワイルドガウンの血と、俺の血の臭いとが混ざって、綺麗な月明かりに照らされた部屋はひどく鉄臭い。


 ひとまず事態は収拾した。ワイルドガウンの死という後味の悪さと、グリーンミストとバルクガールの因縁という大きすぎる謎を残してではあるが。

 それでも奏先輩の死にまつわる事件が一応の決着をみて、少なくとも今夜はこれ以上何も起きないだろうと思えただけで、俺はすっかり安らいでしまっていた。


 これも油断だろうか。


 でもなぁ、これだけ血を流した後なんだ。息をつく余裕くらい欲しいってものだ。

 天井の穴から見える月が、ゆっくりと雲間を移動するのを見上げつつ、俺はバルクガールの震えが止まるまでその逞しい腕に抱かれ続けた。

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