天使×××――《電子レンジと黒い影、それとアキラ》


 天使は自分を自由にする崇高な存在なのではなく、勝手に決められた範囲内でしか行動できないようにする枷であり首輪であり囲いなのだ。


 これまでの自分の人生が、全て無価値になった気がした。


 たくさん悩んだ。たくさん失敗した。たくさん嫌われた。


 それでも正しいことだと信じていたのに。


 自分が恥ずかしかった。消えてしまいたかった。


 人の目に自分の姿が映ることすら滑稽に思えて、アキラは顔を伏せて走った。


 だから道路なんて見えてなかったし、横断歩道があったのかどうかすらわからなかった。


 クラクションの激しい音で、自分が道路を何も見ずに横切っていたのだと知った。


 迫り来るトラックの、驚きで見開かれた運転手の目が、いやに鮮明に見えた。


 アキラは――轢かれなかった。


 かろうじてトラックとガードレールの間隙を抜けて衝突を回避した。


 夢中で気づけなかった。左右の確認もせずに、横断歩道ではない道路を横切った。運転手はさぞや肝を冷やしただろう。


 手近な壁にもたれかかり、ごめんなさいと心の中で繰り返しつつも、口は別の言葉を吐いていた。


「痛い、痛いぃ、頭が、痛いよぉ」


 同意書の入っていた封筒の中にはチップの説明書もあった。


 専門用語で羅列された堅苦しい文章の中でアキラに理解できた範囲でわかったことは、天使はアキラが倫理に悖る行動を取ると、脳内のホルモンバランスを崩し、苦痛を与えて矯正する微弱電流を流すようにできているらしい。


 その苦痛の度合いは犯した行動の内容によって変わり、法律違反、特に暴力行為などの刑法違反に対しては一時的に被施術者の活動を押し止めるほどになるそうだ。


 狭い部屋に閉じ込めた犬に、逃げようとする度に電流を流すと、脱出できるように出口を開放しても犬は逃げる気力が湧かないというオペラント条件付けの実験。


 アキラに埋め込まれた人工知能は、それと似たようなことを高度に行っているわけだ。


 学習性嫌悪感。


 アキラが自分のみならず、他人の違反にも過敏に反応していたのは、ここに原因がある。


 最近はそれほどこの頭痛が起きたことはなかったが、思い起こしてみれば、数年前までは度々原因不明の頭痛に悩まされていたことがあった。


 身体の成長に伴う痛みだろうと両親は言っていたが、本当は天使が原因だと知っていたのかもしれない。


 頭痛は、決まって両親の言いつけを破ってしまったりしたときに起きていた。


 幼い頃から痛みによって進行方向を無理やり整えられ、今のアキラは存在する。


 どんな軽微な違反であっても、アキラには身体の痛みが引き起こされるのだ。アキラには逃げようがない。痛みを遠ざけるためには、規則を破らないように生きるしかなかった。


 ずっと不思議だった。どうして周囲の人間たちはあんなに簡単に違反行為ができるのか。


 アキラにはあるものが彼らにはないからだ。バレなければ何も咎はなく、あるいは見過ごされてきた。そこには何ら苦痛はなく、以前と同じような生活が続くだけだからだ。


 なぜ自分だけがこんなに苦しまなければならないのだろう。


 道路を飛び出しただけで、こんなにも刺すような痛みが襲ってくるというのに。


 こんなの、不公平だ。

 不公平だ。不公平だ。不公平だ。不公平だ不公平だ不公平だ不公平だッ!!」


 突然叫びだしたアキラを、通りすがりが怪訝な目で見てくる。


 彼らは知らないに違いない。自分たちがいかに自由であるのかを。


 規則を守る権利も破る権利も持っている自由がいかに自分の心を守ってくれているのかを。


 アキラは天使に鎖で雁字搦めにされているというのに。


 もはや、自分は自分じゃない。権利とはそれを行使する自由があって初めての権利だ。天使によってアキラの意思は尊重されない。


「お前ら社会が、僕を社会に適合しない人格だと言うなら、お望み通り消えてやる」


 よろよろと歩いていった先で、規則的な警報音が乾いた空気の中に鳴り響く。


 おあつらえ向きに、踏切がギロチンの来訪を報せてくれた。



 ――さよなら天使。



「……かっ……!」


 身体が動かなかった。頭が痺れて。


 電車が通過するすれすれで、アキラの足は止まっていた。


 怯んだわけじゃない。本気で飛び込むつもりだった。なのに身体がそれ以上動かなかった。


 警報が止まり、踏切が上がる。小さな踏切だ。他に見ている人は誰もいなかった。ひとり、踏切の中で、アキラは力が抜けて膝をついた。


 今の一瞬で、あることが明確にわかってしまった。


 自分には自殺も許されない、ということが。


 自殺ももちろん、社会的には許されざる行動だ。


 法律には明確に自殺を禁止していなくても、社会通念状の道徳、社会規範に違反する行為は、全て天使の罰則の対象になる。


「そんな…………は、はは……」


 茫然自失のあまり、笑いさえ出てしまうほど、アキラの精神は昏迷を極めていた。


 天使の威力がわかってしまった。警報が鳴っている踏切に入ってしまったことに加え、自殺を試みたことによる罰が今もアキラの頭をかき乱している。


 生まれて初めて味わう激烈な痛撃だった。首から上が自分のものでないような気さえした。


 痺れて自分の目が、口が、耳が、どこにあるのかもわからないほどに。


 自分の死を望む行動を取れば、またこの痛みが襲ってくる。


 つまり、アキラはもう自殺行為はできない。


 死に望む解放よりも、天使の痛撃への恐怖が先立って身体が抵抗してしまうからだ。


「あぐぅ……いだい……、あはは、ぃだい、よぅ」


 涎をだらりと垂らしながら頭を抱え、不気味な笑いをあげるアキラ。


 この先死ぬまで一生、こうして天使の罰に怯えながら生きなければいけないのか……?


 天使のいない自由な人間たちを羨みながら……?


 そんなのはご免だった。


 なんとかして、いますぐ、天使から解放されたい。脳からチップを引き剥がしたい。


 冷静に考えれば、取り付けたときと同様、脳外科手術によって除去をすればいいのだろうが、しかし、高校生の自分に高度な手術なんて頼めるのか。


 あの同意書には術後の除去にはリスクがあるとも書いてあった。仮に頼めたとしても、かなりの高額になることは容易に予想される。


 いずれにせよ、両親には打ち明けなければいけないだろう。


 でも、なんて? 天使を取り除きたいから脳外科手術費用をください、と?


 そんなの、無理だ。そもそもアキラに天使を埋め込むことに同意したのは両親なのだ。相談したとしても真っ向から反対されることは間違いない。


 両親を説得するには事後承諾しかない。


 先に自分の頭からチップを取り除き、僕はチップがなくてもこうして真面目に生きられるんですよ、天使がなくても規則に忠実に生きられる人間なんですよと伝える。


 自分に天使は必要ない人間なんだって証明するんだ。


 そうすれば、さすがの両親もアキラに天使は必要ないと認めざるを得ないだろう。


 そうとなればなににおいても自分自身の力だけで天使を壊す必要がある。


 外科手術に頼らず、脳に癒着した機械だけを壊す方法……そんな方法があるのだろうか。


「そ、そうだ。電磁波。電磁波で中の機械だけを壊せば……」


 あるSF映画で、強力な電磁波で身体に埋め込まれた盗聴器などの機械を壊すシーンを見たことがあった。


 その方法が使えるんじゃないかと、思い立ったら止まってはいられなかった。


 我慢できるほどに痛みが治まってから、膝を伸ばし、来た道を引き返した。


 家に戻ったら母親はいなかった。仕事に行ったのだろう。急にいなくなった自分をどう思っているかはわからないが、今はどうでもいいことだ。


 あの書類は元の場所に戻してあるし、読んだとも思っていないはずだ。


 一瞬、盗み見たことも罰の対象になるのかと不安になったが、読んだ時点で頭痛が起きなかったことを考えると、特に問題行動としては扱われていないようだ。


 そもそも見つけたのが偶然だったし、読むなとも言いつけられていない。


 そんなことより、目的のものがある台所へと急いだ。それはいつも綺麗に整えられている流しの向かい側、冷蔵庫の隣にある。


 赤い電子レンジ。


 母親が料理好きで大きなものを買ってあった。この大きさなら、頭くらいは簡単に入る。


 時間を掛けすぎれば脳みその方が沸騰する。五秒か十秒か、その程度でいい。出力は……何ワットでもいいが、天使を壊すためならと一番大きな数字を選んだ。


 設定してから、扉を開けゆっくり自分の頭を差し入れる。指先の感触で開始ボタンの位置を探り当て、準備を整えた。


 勢いが大切だ。躊躇ったら駄目だと思った。唾を飲み込んで、一息にボタンを押した。


 だが、何も電子音が鳴らず、レンジは沈黙したままだった。


「あれ……」


 アキラはレンジに安全装置があることを知らなかった。


 何か扉の開閉を感知するセンサーがあるのではと探ってみたが、どこにもそれらしいものが見当たらない。


「なんで、くそ、くそっ。なんで動かないんだよっ! ほんの少しだけでいいんだ。頭の中の機械を壊すだけでいいのに!」


 開始ボタンを連打しても、何も起動しない。


 次第に指が痛みを訴えだしたから、拳で叩いた。そうしたら、レンジが起動する代わりに、頭痛が起きた。物に八つ当たりしたと見做された。


「う、あぐぅ、いたい……」


 本当はわかっていた。こんなことをしても無駄だって。それでも、抵抗したかった。抵抗してみせたかった。


 電子レンジに頭を突っ込んだまま、アキラは無力感で滂沱と泣き始めた。


「うぐっ……えぐ、あぅ、……うっ、うううぅ……」


 悔しかった。信じて欲しかった。


 現代のシミュレーション精度の高さは知っている。アキラだって別の面で恩恵は受けているのだ。


 計算結果をただ無駄なものだと突っぱねるには、今の社会は情報に依存しすぎていた。その点で両親を責めることは、やはり難しいのだ。


 それでも、どうしても悔しさが湧いてきて止まらない。


 父は、母は、なんで、信じてくれなかったんだ。


 三歳の、僕を。


 将来の、僕を。















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