第3話

「おーい、生きてるかな?」


 午後中降り続いたしつこい雨はすっかり上がり、冴えた天上には黄金の月が輝いている。真夜中の散歩と偽って華麗に魔女を欺いた僕は、夕方歩いた道を引き返して教会へ向かった。サクレ・クール寺院の方は人が多すぎるので反対方向だ。


 鍵の壊れた納屋を勝手に開け、中へ声を掛ける。返事はないが、構わず積み上がった木箱の影を覗き込んでみると、ひっと息を呑む声がして庭鋏が眼前へ飛んできた。


「あ、あたしに……近寄るな化け物!」

「ひどいなあ。野犬を追い払ってここまで運んで、今から傷の手当てをしてあげようって恩人に」

「だ、だってあんた──人間じゃない!」


 ひとまず庭鋏を引ったくり、僕は彼女との対角線にパンと薬瓶を並べて距離を取った。


 そう、神の下僕たる善良な僕は少女を見捨てたりしない。血の臭いに反応した僅かな僕以外の血の力を借りれば、犬の五匹や六匹ひと睨みで追い払えてしまう。ただ血の力を使うと僕の目は真っ赤に光るので、彼女にも得体の知れない何かだと勘付かれてしまった。


 好きで人間を辞めたわけでもなければ死んだまま生きている以外に逸脱した振る舞いもしていないのに、失礼な話だ。僕は不快な表情を作らないよう意識しながら、知的に見えるよう腕を組んで納屋の扉にもたれかかった。


「君は好きで人間として生きてるのかい? 冷たい雨の中、好きで高熱に魘されながら野犬の餌になるため倒れていたって言うのかい?」

「うるせぇ、屁理屈捏ねたって無駄だ!」


 部屋の隅から木片や釘なんかが飛んで来る。天井に引っ掛けられたロープや滑車、大工道具の間から首を傾げて覗いてみると、土気色の顔をした少女が唇を捲り上げて喚きながらこちらを睨んでいた。


 離れていても血と生ごみと体臭の混じった不快な悪臭が鼻を刺す。雨のおかげで身体の汚れはいくらか浚われているようだったが、それでも不潔な状態であることには変わりない。せめて虱持ちじゃないことを祈りたい。服は裂かれて手に負えなかったのか、裸にロープと防風用の覆いを巻き付けていた。


「ここは百万都市パリだよ。いろんな奴が集まって生きてる街ってこと。薬を塗ってあげるからこっちへおいで。化膿すると歩けなくなるよ」

「悪魔の薬なんか要らねえ!」

「あれっ、ステラの知り合い?」


 少女は目を丸くし、それからガタガタの歯列を剥き出して軋らせながら煩わしげに顰めた頭を振った。顔半分を引き攣らせる表情はステラがよくやるので知っている。こいつアホか、という顔だ。


「あたしを食わねえなら、さっさとどこかへ行っちまえ!」

「いやいや。それが他人事じゃないんだよ。近所で血の臭いがしてると夢見が悪くてさ。人助けと思って、手当てされてくれない?」

「いやだっ、寄るな、触んな!」


 僕の血の気のない手に人でないものの質感を悟ったのか、少女はがむしゃらに腕を振って壁にへばり付いた。噛み跡の生々しい足も痛いだろうに、恐怖で興奮した少女はこちらを睨み据えたまま一向に警戒を解かない。昨夜血色に光る目を見られた上に、血の匂いで牙が覗いているせいもあるだろう。こういう反応も初めてではないが、毎度毎度信用を得るには至極骨の折れる過程が要る。どうしたものか。


「お腹空いてるとイライラするよ? それ、食べたらどうかな。ピガールのオデットって店のだよ。あのへん歓楽街だからさ、夜から朝やってる店があるよね」


 店名入りの紙に包まれた白パンと僕の顔をしばらく交互に睨んでいた少女だったが、やがて俊敏に手だけ伸ばしてパンを引っ掴むとむしゃむしゃ口に詰め込み始めた。


 僕はもう食べ物は食べないので、久々にパンの香りを愉しみながら食べ物を買うのはほんの少しだけ寂しかった。母には叱られたが、子どもの頃の僕は千切ったパンをシチューやスープを浸してとろとろにして食べるのが好きだった。僕自身はあまり余計な味が付いているパンを好まなかったために選択肢に入れなかったが、この栄養失調気味の少女にはバターやチーズの入った焼き菓子の方がよかったかもしれない。カフェとバーと食料品店を兼ねた雑多なカウンターを思い出しながら余計なことを考えていると、何を訝ったか少女がしきりに口をもごもごさせながら言った。


「こんなとこに押し込んで、バラして埋めるには最適ってわけかよ吸血鬼」

「なんてこと言うんだ。ここは祈る場所であって罪を犯す場所じゃないよ。昨日の路地から少し離れた教会の納屋だよ。言っとくけど僕は人を殺して血を吸ったことはないんだ。助けてあげたんだから僕のこと吸血鬼って呼ばないでくれない?」

「教会ィ!? 偽善者どものクソ溜めなんか願い下げだ!」

「うわ汚っ、口のもの飲んでから喋ってよ。それと人が来ちゃうから静かに。僕に助けられるのとその偽善者に預けられるのとどっちがいいの?」

「放っとけって言ってんだよ!」

「我儘なお姫様だなぁ」


 虚勢を張っているが、少女の両目はぐらぐらあちらこちらを向いて、ほとんど僕が見えていない。失血と高熱で顔色は僕と大差ないほど青褪め、身体ががたがた震えている。いよいよこのまま気絶してしまうと危険な段階だ。普段は慎ましい僕の牙も前へ迫り出してきて喋りにくいし、このまま血の匂いを嗅ぎ続けているとまずいという自覚がある。


 彼女の手から残りのパンを奪って口へ捻じ込んでから身体を押さえつけ、僕は勝手に彼女の足を手当てすることにした。少々乱暴だが仕方がない。痛みと混乱で啜り泣きながら呻き始めた少女のずたずたの足に、僕はステラの部屋から失敬してきた薬を次々と垂らした。


 消毒薬、止血薬、治療薬、化膿止め、治癒促進薬。ずっと傍で見てきたから、ステラの魔法薬は臭いで効能を覚えている。鋭敏な鼻を突く薬草の多重な臭気に耐えながら、僕は手際良く包帯を巻いて手当てを終えた。僕たちのような人ならざるものに効く薬だ。人間への効果はきっとてき面だ。数日の内にも彼女の足は歩けるくらいに回復する――はずだ。


「お前……あたしの血見てて平気なの?」


 いつの間にか抵抗を辞めていた少女が、すっかりしゃがれた弱々しい声で聞いてきた。てっきり気絶してしまったかと思ったが、なかなか根性のある娘だ。

 僕は押さえつけていた彼女の上半身を解放し、乱れたプラチナブランドの長髪を引っ掻き回しながら額を撫でた。


「平気じゃないよ。お腹の底がざわざわして、頭の中は沸騰してる。でも血を欲しがってるのは僕じゃない──だから教会に連れて来たんだよ」

「……イカれてる」

「そうさ、どうにもならないほどイカれてる。だからせめてこれ以上悪い方へは行かないって決めたんだ」

「……飲まなくても死なねーなら世話ねえな」


 治療された足をさすりつつ、少女はなお憎まれ口を叩いてみせた。意識はぼんやりしているわりによく舌が回る。失血に加え薬草の強烈な臭いのせいで、少しのぼせたような状態と見える。少し様子を見ることにして、僕は話に乗った。


「全然平気じゃないよ。だから兎とか鳩とかの血をワインで割って飲むんだ。薬みたいなものさ」

「げぇっ」

「ほんと、げぇってかんじ。味はもうよくわからないんだけど、生臭さとぬめぬめした不快感をすごく過敏に感じるんだ。苦痛だよ」


 ふうん、と気の無い返事が宙に浮かぶ。薬の鎮痛効果が効いてきて、一気に疲労が押し寄せてきたようだ。大人しくなったのはよいが、今度は食べやすそうで実に困る。


 僕としても、親切心に先んじて吸血衝動に関わるから放っておけなかったというのが本音だ。勝手に取り合わせた薬のどれかが強すぎたり効きすぎたりして彼女の足が焼け爛れ拒絶反応を示す可能性を度外視しても、吸血鬼に成り下がらない保身のために血の臭いをどうにかしたかったのだ。ともあれ、僕ができる最善は尽くした。


「じゃ、ぼくは消えるよ。教会の誰かに君のこと頼んでおくから」


 やれやれと腰を上げ、僕は埃で真っ白になっていた外套の裾を払って踵を返した。納屋の扉に手を掛けたところで、床にひっくり返ったままの少女が微睡みながら口を動かした。


「あんた……名前なんていうのさ」

「うん? 僕はルイ。君は?」

「言わねーよ……」

「僕は名乗ったのに失礼じゃないか!」

「うるせぇな……あんたがウダウダと吸血鬼じゃねぇだのと、語るから……聞いちまった以上、別の呼び方が要るじゃねーか」


 不覚にも止まったはずの心臓がぎゅっと緊張した気がした。それがどんな反応だったのか、上手く思い出せない。とにかく僕はぐんと機嫌が良くなって、堪え切れずに笑ってしまった。


「可愛いことを言うじゃないか。しかしその理屈だと僕だって、君と初々しい恋人同士のような二人称に難儀しているところだよ?」

「急に気取った話し方するんじゃねえ、気色悪い……あんた、中身はあたしと大して変わらねぇんじゃねーの」

「ふふ、さあねぇ。人間二十年、死んで三百年。どっちが僕の人生かは甲乙つけがたいな。でも死なないって決めたから、うまくやるしかないんだ──さてと。僕は行かなくちゃ。怪我が治るまでは教会でお世話になって、ここいらを出歩いちゃいけないよ。薬を勝手に持ち出したから、人間に魔法薬を使ったなんてバレたら、ステラが君を髪の毛一本爪ひとかけ残さずすり潰して煎じちゃうからね。じゃあ、そういうことだから」





「あでぁててててぇっ、て、あいったぁ!」


 か弱い命を一つ救う善行を積んだ僕は、告解室に手紙と十フランを置いて帰宅した。眠りの浅い魔女は夕方と同じように階段上で仁王立ちして待っていて、廊下のあちこちに積んである舞台道具の剣や旗なんかを次々投擲とうてきしてきた。刃は丸めてあるが重さのある鈍器である。いくら僕が死なないとはいえ、急所に食らえば普通に痛い。投げているのが先ほどの少女と同じくらいの非力な魔女だったから助かった。


 お互い不死身に近い身体のせいで、骨の一本や二本砕けても大したことはないような感覚が当たり前になっている。よくない傾向だ。

 しまいには壊れかけの椅子や埃まみれの天幕まで落ちてきて、僕は埃舞うガラクタの中でげほげほ咽せながら降参の両手を上げた。


「棚を勝手に弄るなと何度言ったらわかるんだいこのタコ! 大した違いもわかりゃしないのに上等なもの持って行きやがって! お前の傷口でピクルスでも漬けてやろうか!?」

「ごめんなさいママン、僕は怪我してないよ」

「誰がお前の母親だ!」


 怒鳴りながらバケツを投げたステラは、そこでようやく僕の目が爛々と赤く光っていることに気づいたようだった。この上何をがなり立てられるやら、首を竦めて身構えていると、おおよそを察した魔女はハァッと皺枯れたため息を吐いた。


「まったく……世話焼きもいい加減におし。人間と深く関わってろくなことにならないと散々体験してきたじゃないか。あたしより先に耄碌したかい?」


 困った隣人をすぐ拾ってくる魔女にだけは言われたくない言葉だ。むしろ彼女のような異端の元で永らえてきたからこそ、僕もあの少女を放っておけなかったのかもしれない。お人好しの魔女にそうまでは言わずして、僕は肩を竦めて見せる。


「近所迷惑だったから追い払っただけだよ。野犬に襲われて動けなかったみたいだから、傷を手当てして教会に放り込んでやった。それだけ」

「ふん、どうだかね。まあ、追い払ったならいいさ。三度目に会うのは始末をつける時だけにしな」

「……そうだね。僕もまだ、この出鱈目勝手な花の街から引っ越したくはないからね」


 花の街とは誰が言ったやら、パリのほとんどは未だ堆肥場だ。臭くて汚くて、胡乱で退廃的。でも僕はそんなこの街をなかなか気に入っている。雑多な有象無象のひとかけらに含まれる居心地の良さに安堵しながら、逸脱者たる僕たちは束の間の余暇を錯覚している。

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