第2話

 僕は南仏に小さな所領を持つ男爵家の嫡子だった。


 両親共に敬虔なカトリックで、慎ましくも恵まれた人生だったと思う。母譲りのプラチナブロンドに銀灰色の瞳をした僕は、自分で言うのもなんだがもの凄い美少年だった。よく言えば善良、悪く言えば小心者で、僕の精一杯の暴力は食事に寄る小蝿を叩くくらいだ。そんな甘えが許される程度には裕福だったのだ。


 十九の時、コンスタンティノープルから渡って来た流浪の吸血鬼姉妹に攫われ、僕は吸血鬼に転化した。ところが僕は筋金入りの腰抜け、もとい善良さで殺人と吸血への恐怖を克服できず、人はおろか家畜さえ殺せないまま枯れ木みたいになっていたところを件の魔女、ステラに助けてもらった。以来、彼女とは三百年の付き合いだ。


 今でこそちんちくりんの少女の姿だが、ステラは僕より遥かに長い時間を生きている。出会った頃の彼女は長い金髪を靡かせた菫色の瞳の美女だったのだが、半世紀ほど前に囲った愛人の一人に裏切られ、危うく殺されかけたところを僕が助けてあげた。今は肉体の修復中で、戦慄を呼ぶ美貌の面影は片鱗しか伺えない。怪しくもよく効く魔法薬を作るのが得意で、僕たちの世界じゃ知らぬ者は居ない長生の魔女だ。中身は悪態癖のある偏屈な婆さんだが、なんだかんだ言って面倒見が良く僕やヘレンみたいな奴を放っておけない。美男子にめっぽう弱く厄介事を持ち込みやすいのは玉にきずだが、それが彼女の性分なのだから仕方がない。


 僕が転化して一度も吸血衝動に狂わず正気を保っていられるのも、もっぱら彼女のおかげだ。その代わり僕は吸血鬼といえども強靭な肉体でもなければ、人間離れした異能力がある訳でもない。疲れないとか、病気をしないとか、熱くても寒くても平気とか、ちょっと感覚が冴えているとか、その程度だ。転化してすぐ吸血鬼としての性を受け入れればもう少し便利な身体になったのかもしれないが、僕はまったくもって後悔していない。正気を保つ薬として少量の血を舐める必要はあるものの、生活はほとんど転化前と遜色ないほどだ。


 その証拠に、僕には三百年間毎週日曜のミサを欠席したことがない。ステラには三百年バカにされ続けているが構わない、僕のささやかな自慢だ。近所で妙な噂が立つと困るので、皮膚病の老人を装って田舎の小さな教会のミサへわざわざ出かけている。今まで幾度となく住処を変えてきたが、山ひとつ離れていようと必ず教会に通ってきた。疲れを知らず、人間より幾分脚が早いのは便利なところだ。毎週土曜の日没から夜通し早駆けして、堂々と教会の門を潜る。十字架や聖書の言葉が苦手な同族は多いが、僕は脇腹のあたりが少しぞわぞわするくらいだ。祈り続けた僕の心が天の父上に通じたのか、二百年程前には太陽を克服した。炎と銀と悪臭は未だに苦手だが、それもまあ我慢できない程ではない。

 結局僕は、吸血鬼とは名ばかりの死に損ないの美青年という訳だ。


 ステラが今のお嬢さんの姿になるまでは各地の薬学や錬金術を追い求めて世界をあちこち旅して回った。お互い見目が変わらない弊害から長くは留まれない名残こそあっても、そんな愛着を上回るほど世界は未知に溢れていた。


 勿論こんな僕たちだ、悪魔の手先と罵られ、刃を向けられたことも少なくない。狡猾な人間は腐るほどいたし、狭量な思想にがんじがらめの盲信者にもよく付き纏われる。それでもステラという魔女は人間という生物の探求者として、何世紀にも渡って神秘を追い求めてきた。彼女の叡智を頼って人や人ならざる者は常に集まって来たし、彼女もそんな研究対象を興味深く観測してきた。

 僕はといえば、時には彼女の社会上の伴侶として、時には新薬の実験体として、時には話し相手として、時には共犯者として傍に連れ添ってきた。出会った時からお互いの醜い部分を曝け出しすぎて、僕と彼女の間に親しい感情は清々しいまでにない。その点においてのみ、僕たちは深く信頼し合っている。だからこそ三百年も付き合ってこれたのだ。


 身寄りのない若い女性というだけで、生きづらい場所はたくさんある。医学の見識ある者として金を稼ぐ手段はあっても、未婚であるだけで犯罪者と疑われる世の中である。拷問された経験もあれば、火刑に処される寸前までいったことも何度かあるらしい。ステラ自身そうした抑圧の日々の方が長く、僕という社会の看板を得たことは大きな収穫だったようだ。


 そうして調子に乗ってハメを外した結果、当時住んでいたマヨルカ島の邸宅で囲っていた美青年の一人に滅多刺しにされた挙句、教会に告発されて血塗れのまま裁判に立たされたのが半世紀前の話になる。異端審問が廃止されてしばらくのスペインで裁判官たちが対処に困惑する中、嫌悪で嗚咽しながら邸宅の血の海に這いつくばって魔女の血を得た僕が大悪魔を演じて裁判所内に大量の蝙蝠と蛾を召喚――勿論この僕が洞窟に罠を張ってせっせと集めた――し、瀕死のステラを抱えてハンガリーまで亡命した。ステラは死にかけながらもしくじったと言って大笑いし、ずっと試したかったという秘術を自らの肉体で実験した。


 そういった迫害と抑圧を掻い潜って生きて来た僕たちにとって、このパリという街ほど紛れやすく居心地がよい都市はなかった。自由と芸術と混沌、パリという偶像都市を抱いた異邦人たちの熱狂と、ノスタルジーに揺れるパリジャンの溜息。革命の混乱から逃れてハンガリーから移り住んできた僕たちは、人に憚らない数十年ぶりの快適な生活を実に満喫している。

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