3-5(ベッドルーム)
結局、アランの赤髪の友人の考えが全く理解できないまま、ぼくはその背中を見送ることになった。彼の頭の中には、すでに手紙の差出人のイメージが浮かんでいるようだったけれど、どうやらそのイメージの詳細をわざわざ説明する気はないようだった。
ぼくは物理学生二人の後ろ姿から視線を引き剥がし、傍らの青年に向けた。
「カシム、聞きたい話は聞けた?」
ぼくの言葉ににこりと爽やかな笑みを吐き、カシムがぼくに向かって大きく一歩踏み出してきた。わけがわからないまま一歩退くと、そのスペースを埋めるかのように、青年がさらにこちらに向かって足を進めてくる。
「え、なになになに」
「後ろ、それ以上下がると看板に当たりますよ」
青年のセリフの半ばくらいで、ぼくの背中が板の存在を感知した。至近距離からにこりと微笑みかけられて、ぼくの笑顔が引きつる。
「ええと、もしかして何か怒ってる?」
「とんでもない」カシムがいかにも優しげに目を細めた。「ただ、ねえ、ルーク。――手紙って何です」
青年の言葉に、ぼくはぎくりと固まった。もしかして、ヴィクトールとの会話を聞かれていたのだろうか。
ぼくは思わず視線を左右に泳がせる。
「ええと、もしかして聞こえてた?」
「ええ。ヴィクトールが色々聞き出してくれたので、手間が省けました。一体、あなたは何を知りたがっているのだろうかと思っていたので」
「手間が省けたって……」言いながら、ぼくははっと顔を上げた。「君、まさかぼく達の話を聞くために、階段で移動することに同意した……?!」
青年が笑みを深める。ようやく気づいたかオロカモノめ、とぼくを嘲る副音声が聞こえた気がした。――そもそも、あれだけクロエと話が盛り上がっておきながらぼく達の話にも耳を傾けているなんて。
「なんてやつだ!」
「自業自得です。なんですか? あのひどく不器用なインタビューは。わたしが不審に思って当然でしょう」
「ちょっと待った、それに関しては君も人のこと言えないだろ」
ぼくの言葉を無視して、カシムがさらにぼくとの距離を詰める。
「手紙のこと、なぜ事前に言ってくれなかったんですか。大学が怖いなんて、おかしいと思ったんだ」
「いや、大学への恐怖は手紙とは関係ないけど……というか、手紙が届いたなんて、別にわざわざ言うほどのことでもないよ」
「命を狙われているのにですか? まさか警察に届けていないなんて言いませんよね」
「どの部分の話を聞きかじったんだよ!」
またしても物騒な言葉を投げかけられて、ぼくは慌てた。幸い看板に追い詰められて騒ぐクールブロンドの男はさして注目を集めてはいないようで、小脇に本を抱えた女性が一人、こちらに見向きもせずに側の小道を通り過ぎていく。
それでも一応声を抑えて、ぼくは続けた。
「命なんて狙われてないってば。ちょっとお前気に食わないって内容の、差出人不明の手紙をもらっただけ」
「……本当ですか?」
「本当だとも」
自信たっぷりに胸を張るぼくの返答に、ぼくを追い詰める青い視線がやや和らいだ。
「なるほど。それで、その手紙には具体的に、何が書かれていたんです」
「えっと、死ねとかお前を殺すとか……」
途端に青年の青い目が釣り上がる。
「ルーク!!」
「なんだよ、ぼくはぼくの目的のために協力するだけだって、始めに言っておいただろ!」
「そういう話をしているんじゃありません!」
そう一喝して、カシムがたてがみのような頭をかきむしった。こういうところがホント、学生時代のあいつに似てる。
浮かんできた幼なじみの顔に、ぼくはちょうどそいつと話でもしようかと思っていたことを思い出した。
「――あ、そうだ。ちょっと一本電話かけていい?」
「この会話の流れでですか?! 自由だな、あなたは……!」
愕然とした表情であごを落としつつも、青年は大人しくぼくから距離を取った。途中で振り返って「わたしの目の届く範囲から離れないでください!」と釘を刺し、離れたベンチに腰を下ろす。何と言うか、育ちの良さっていうのはこういうところに出るんだろうな。
妙に感心しながら、ぼくは通話履歴からお目当ての名前をタップした。やつにしては長めのコール音の後で、いつもよりほんの少し慌てた様子のブライアンが応える。
「どうした、何かあったのか」
「ブライアン。いや、ごめん。特に何かあったわけではないんだけどさ」そういえば、ぼくから彼に電話をかけるのは彼と再会したあの日以来だ。そのことに気がつき、ぼくは少しばかり心許ない気分に襲われる。
親友を誘うにしてはぎこちない言葉で、ぼくは続けた。
「えっと……お前と話がしたいなあと思って。次はいつ会えるかな」
「話があるなら、今夜お前の部屋に寄る」
――全く。こういうところは学生時代から変わらない。
「お人好しめ。そうなったらまた、ソファで一夜を過ごすことになるだろ」はき出す息と共に、ぼくは小さな笑いを端末に吹き込んだ。「そろそろお前の腰が心配だから、明日以降でいいよ」
「お前がおれを寝室に入れてくれたら話は早いんだが」
「ぼくの寝室は、たとえ親友でも立ち入り禁止だから。――この間むしり取って行ったぼくの予定表、まだ持ってる?」
「ああ」
「都合がよさそうな日を後で教えてもらっていい?」
「わかった。――今日のこの時間、事務所で打ち合わせ中のはずのお前が外にいる理由も、その時に聞かせてくれ」
男の言葉に、ぼくは思わず飛び上がって周囲を見渡した。
「地獄耳!」
ぼくの叫びに笑いながら「早く家へ戻れよ」と返し、ブライアンが通話を切った。外に買い物にでも出かけていると思ったのだろう。大学で聞き込み、なんてことをやらかしているのがばれたわけではなかったようで、ひとまず安心する。
デバイスをポケットに突っ込みながら顔を上げると、いつの間にかベンチから立ち上がっていたカシムが、こちらに歩み寄ってくるのが目に入った。
「ありがとね、カシム。今終わったよ」
「いえ」短く答え、青年がその視線をほんの少しだけぼくからずらして口を開く。「やあ、イーサン。今日は時間をくれてありがとう」
「は……?」
我ながら間の抜けた声がもれた。同時に、ぼくのすぐ左斜め後ろで何かが動く気配がする。頭で考えるよりも先に体が気配の方へと向き直り――ぼくは思わず悲鳴をあげそうになった。濃いネイビーのシャツに包まれた視界いっぱいの胸筋にのけぞるぼくを、予想していたかのような冷静な動きでカシムが支える。
「い、イーサンか……やあ」
見上げる動きで視線を合わせ、ぼくはなんとか笑顔で社交的な挨拶を捻り出した。硬そうな直毛の赤髪に、日焼けした肌、しっかりとした顎のライン。ややはれぼったいまぶたから覗く目が、戸惑った様子で揺れている。
「すみません、驚かせるつもりでは……電話しているの、見えなくて」
「あはは、そうだよね!」
喉の奥から聞こえてくるような弱々しい声に、ぼくは奇妙な使命感に駆られて笑い声を上げた。――もちろん、場の空気はちっとも和らがなかったが。
助けを求めて視線を後ろに投げると、カシムがやや警戒するように眉をひそめてイーサンを見つめている。ぼくと力を合わせて
「あー。別に大した話をしていたわけじゃないから、気にしないでくれよ」
援軍を諦めて一人打ち解けた雰囲気作りに乗り出したぼくに、イーサンがおずおずとした様子で視線を合わせる。
「でも、ベッドルームって……」
「ノー!」
よりによって一番めんどうな単語を持ち出してくるなんて。飛び上がるぼくに、カシムが冷ややかな目を向けた。
「……わたしの真面目な話を遮って、あなたは一体何の電話を……」
「友達同士のちょっとした冗談だってば!」
一〇〇パーセント事実のぼくの言葉に、カシムはさらにじっとりと目を細める。
「別に、あなたが誰に好意を伝えようとかまいませんけれど、時と場合があると思いませんか。それに、言わせてもらえばルーク、ベッドルームだなんて直接的な言葉は、恋人未満の相手には少々無粋すぎると思います」
「君ね、少しはぼくの言葉を信じろよ……!」
カシムに向かって思い切り口を曲げてから、ぼくはすぐそばでおとなしくぼく達を見下ろしているイーサンへ視線を戻した。
「ええと、ごめん。待ち合わせはカフェだったよね? 話はコーヒーを飲んでからにするかい」
イーサンが、定まっていなかった視点を足元に固定して、しばし考え込む。絶妙に印象的な間の後で、青年がぼそぼそと、喉が擦れるような声で答えた。
「教室に、向かいましょう……。今の時間はもう、誰も使っていないはずなので……」
「オーケイ」
「ありがとう」
ぼくとカシムの答えに小さく頷くと、青年はそのままくるりと向きを変えて、ぼく達を先導し始めた。その後ろ姿に、ぼくの視線がひとりでに引き寄せられる。思いの外きれいな歩き方だ。背筋がすっと伸びていて、後ろ姿だけなら颯爽とした印象さえ受ける。
正面に回り込んで、表情を確認してみたいな――なんてことを考えている間に、ぼく達は目的地らしき建造物へとたどり着いた。建造されて日が浅いのだろう。入り口側の一面がガラス張りになった、物理学棟に比べて格段に華やかで近代的な建物だった。自動ドア付近には、建物自体の存在に比べればいくぶんか慎ましやかに『情報学部・情報学研究所』と書かれたプレートが掲げられている。
大理石の床と黒いソファの、ぼくの目にはややありきたりなエントランスを通り過ぎ、そのまま一階の奥にある小さな空き教室に入った。最大収容人数がせいぜい十五人程度の、全体的にやや白っぽい小さな教室だった。ホワイトボードに向かって一様に並んだ机と椅子の一角を、イーサンとカシムが手慣れた様子で三人用の向かい合った席へと整える。二人に促されるままに、ぼくはカシムの隣の席に腰を下ろした。
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