3話

 ダニエルの言葉にしばし固まった後で、礼一はふっと微笑んだ。

「ええと、それはどう意味ですか? ——すみません、ぼく英語はまだ不慣れで」

「文字通り、君が人魚の血を引いているという意味だよ。ああ、人魚というのは、上半身が人で、下半身が魚の、水辺に生息する存在のことなのだが」

「ああ、人魚ですか」

 よくわからないジョークだな、と思いながら礼一は笑った。

 彼らには、自分の脚が見えないのだろうか。この、どこからどう見ても人間のものである、この脚が。

 いつみんなが笑い始めるだろうと、様子を伺っていた礼一だったが、住人たちのごく真面目な様子に、やや笑顔を控えめなものに戻した。

 そしておもむろに立ち上がり、ダニエルに向かって口角を上げる。

「すみません、ダニエル。用事を思い出したので、ぼくは先に家に帰ります」

 そう言って、くるりと体の向きを変えた礼一のシャツを、背後から誰かがつかんだ。

「——言うと思ったぜ、このばか。ここは船の上だっての」

「いや、だって人魚って……」

 本気で言っているんですか、と言いかけた礼一の目に、特に驚く様子もなくダニエルの言葉を受け止めている、三人の目が飛び込んでくる。

 自分の笑顔が、引き攣れるのがわかった。彼らは、本気で礼一に人魚の血が流れているなどと言うことを、信じているのか。

 それは、信頼していた人に突然、背を向けられたような衝撃だった。——光るイルカが空中を飛び回るのにも慣れたし、人には見えない動物たちの存在も受け入れた。あまつさえ、伝説上の生き物である竜を目の当たりにし、その存在に親しみを感じさえもした。 これほどのことを経験しておきながら、なぜ今になってこんな気持ちになるのか、自分自身でも分からない。

 だが礼一はこの瞬間、痛切に自分の限界を感じていた。

 これは完全に許容範囲外だ。もうこれ以上はついていけない、と。

 人魚だったのか、と言うハオランの声も、イルカが懐く理由もその辺にあるのだろうか、とダニエルに問うクリスの声も、ひどく遠かった。ただでさえ母国語ではない英語が耳を上滑りし、スペルが分解され、ただの音の羅列になっていく。

 彼らの話を、ばかばかしいと、理性が必死に笑い飛ばそうとしていた。けれど一方で、焦りに似た感情がせり上がってきて、心臓が冷たい汗をかきはじめる。——オーストラリアを出る直前の、日本の冬に凍える虚ろな目をした自分の姿が蘇った。耐え難い衝撃とともに、自分が深い水の世界へ沈んでいくような感覚が襲いかかる。

 ダニエルが気遣わしげな視線を向けたのが分かった。——けれどそれに応える余裕は、なかった。

 ——なあ、おかしいだろう。ぼくは普通の人間じゃないんだってさ。

 自分の内側に響いた声に、答える声があった。


 そんなこと、もうとっくの昔に知っていただろう?


 自分の奥底から吹き上がって来た言葉に呼吸が止まる。

 突然がなり立て始めた心臓の音と共に嫌な汗が吹き出し、目の前の光景が黒く染まった。これは良くない兆候だ、とまだ冷静さを保った頭の一部で思う。

 落ち着け、人魚だなんて、ダニエルが一方的に主張しているだけだ。だが本当に、心当たりはないのか?

 その時、低い、淡々とした声が礼一の耳に届いた。

「——おれも同じだ」

 水の中にいるような、ひどく不明瞭な音の中にあって、なぜその声だけが、まっすぐ礼一の耳に響いてきたのだろう。

 ゆっくりと顔を上げ、その声の主を見やる。きれいなターコイズブルーだな、そう思った瞬間、礼一の世界が彼を中心に、ゆっくりと色彩を取り戻し始めた。

 茫洋とした表情のまま自身を見つめる礼一に向かって、男がどこまでも変わりのない、淡々とした様子で続ける。

「おれも、ファンタジーの類いに足を突っ込んだ存在の血を引いているのだと言われた。そういうの大嫌いだったから、それを聞いた時は暴れもしたし、くそったれが、と今でも思っているな」

 この無愛想な男が、一体どんな顔をして暴れたのだろう。礼一はふっと口元を綻ばせる。同時に、ひどく遠かったはずの周りの風景が、急速に現実感と質量を取り戻していく。

「だがその事実は別におれから何も奪いはしなかったよ。なんの血を引いてようが、腹は減るし、夜になれば眠くなる。学校に行けばクラスメイトが笑って挨拶してくるし、宿題を忘れたら怒られる。不思議に思えるほどに、そこにはいつもの日常があって、そのうち考えるのもバカらしくなったほどだ」

 そう言って、ひと息ついて付け加える。

「君は、少なくともおれの目にはとても誠実な人間に見える。嫌なことにも、理不尽なことにもきちんと向き合って、出会った人との縁を大切にして、日々すべきことを丁寧にこなしながら生きてきたんだろう。そうやって築いてきたものは、君の人生からなくなりはしないから」

 深いターコイズブルーが、ひどく静かに礼一の瞳を見つめながら続けた。

「——だからそんなに心配することはない」

 その言葉とともに、早鐘を打っていた心臓が落ち着きを取り戻し、止まっていた呼吸がゆっくりと動き始める。

「自分が何であるのかについては割と理不尽なこともあるが、自分がどのようにありたいかは、これからだって自分で選んでいけるさ。今まできっと君がそうしてきたように」

 礼一はターコイズブルーの瞳を見つめ返し、その言葉にならない感謝を、ぎこちないながら心からの笑みに乗せた。

 男の目がどこかほっとしたように緩む。

 心が落ち着いてみれば、なぜ自分はあんなにも動揺したのだろうと、ただただ不思議だった。

 礼一の微笑みが、ふっと自分を笑い飛ばすような苦笑に変わる。出生に関わる事実というのは、こんなに人を動揺させるものなのか、とどこか他人事のように感心している自分がいて、またおかしくなった。

 顔を上げてダニエルを見やる。

「ダニエル、それが本当かどうかは、話を聞いてから判断させてもらうとして」  いつもの抑揚控えめなテナーで、礼一は言った。 「もしかして、ぼくがイルカを操って呼び出したように見えたから、クリスはぼくを引き止めたんでしょうか? ——操られた竜について知る、その手がかりとして」

 ダニエルが芝居掛かった様子で、肩をすくめてみせる。

「まあ、簡単に言えば、そういうことになるのかね」

「もしぼくが本当に人魚で、それが理由でイルカが懐いてくれているのだとしたら、ダニエル、当てが外れることになりますね?」

「——それでも、君と知り合えた良かったと、心から思うよ」

 礼一の人の悪い笑みに苦笑を返しながら、ダニエルが言った。

「わたしは本当に運がいい。君のような人に出会えたのだから」

 ダニエルの深みのある声は、それがどこまでも本心なのだと伝えていた。

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