4話

 長い胴体と力強い手足。それらを、この上なく滑らかに動かしながら、その生き物が礼一の方へと顔を寄せる。  動くたびに月明かりを受けて光る鱗はまるで、その一枚一枚が上質な宝石のような美しさだった。

 そして何より、その目。おそらく礼一の体積よりも大きいその眼球は淡く発光しており、その光は蛍火のように、およそ熱というものを感じさせない。  その幻想的な青白い光が礼一の目前まで迫り、そのまま静かに礼一を照らし出す。

 その光に照らされながら、礼一は心拍数が徐々に落ち着いてくるのを感じていた。呼吸をゆっくりと意識して行う余裕が生まれる。  だが一方で、目の前の雄大な生き物に対する畏敬の念が、心の落ち着きに反比例するように、緩やかに深まっていくのも感じていた。

「レーイチ、何か見えるのかい?」  礼一の尋常ではない様子に息をのんでいたクリスが、そっと尋ねる。  礼一はその不思議な光を見つめたまま、頷いた。

「日本語でリュウ、中国語でロンと呼ばれる伝説上の生き物です。西洋ではドラゴンと訳されるようですが」  三人の間にぴりっと緊張が走ったのが分かったので、慌てて付け加える。

「そのイメージとは違うものです。東洋では神様としてあがめられています」

 目の前の光が、興味深そうな色を帯びる。  不思議なことに、この竜の意思や感情を、礼一はごく自然に感じ取ることができていた。そして、おそらく相手もまた、礼一の感情を正確に感じ取っているのだろうということも分かる。  竜はさらに顔を近づけようとするが、何かに阻まれて、それ以上は近づけないようだった。

 そのまましばらく礼一をまじまじと眺めた後、竜はやってきた時と同じような優美な動きで船に背を向けた。  このまま立ち去るのか、と安堵と名残惜しさにため息をついたその時、黒い、羽虫のようなものが次々と竜の首あたりから浮き上がり、かの生き物を苛み始めたのが見えた。途端、それまでの滑らかな動きがぎくしゃくとした、苦しげなものに変わる。

 心拍数が再び上がり始めたのを感じた。  どうやら、ひどく不吉で嫌なもの見ているらしい。  じわじわと嫌悪感が競り上がってきて、指の先から頭のてっぺんまで鳥肌が立つ感覚に身震いをする。

 竜が、先ほどとは打って変わった荒々しい動きで振り返ると、その力強い腕を船に向かって振り下ろした。イルカがほとんどパニックを起こしたように尾びれをはためかせて礼一を船の中へと入れようとし、礼一は驚きに目を見開いたままその足を見つめることしかできなかった。

 だが、その足は船に届くことなく、再び何かに阻まれ、その表面を滑り降りる。その時、竜の目に浮かんだ安堵を見て取り、礼一はかっと血が燃えるのを感じた。  これは、けしてこの生き物の意思ではない。こんなにも深い知性を持つ生き物を、あのような羽虫が操ろうとしているとは。

 自分でも驚くほどの深い憤りに突き動かされて、礼一は自分の回りを泳ぎ回るイルカに向きなおった。

「いーちゃん、ぼくをあの竜のそばに連れて行ってもらうことってできないかな?!」

 かぷ、と腕をかまれた。つぶらな瞳が、なんてことを言うんだと訴えかけている。

「いーちゃん、このスーツ結構高かった……」

 値段を思い出して情けない声を出す礼一の肩を、焦れたようにハオランがつかんで振り向かせた。

「おい、一体何が起こってるんだ。説明しろ!」

「すみません」礼一は三人の存在を思い出し、慌てて言語を英語に切り替える。「黒い虫が竜を操って、なぜかこの船を襲わせようとしているようです」

 文法が多少乱れるのは仕方がないだろう。礼一は必死に続ける。

「黒い虫は竜の首から浮かび上がってきました。竜は虫に抵抗していますが、一度虫のコントロールによって船を攻撃しようとしました。でも竜は船に近づけないようです」

 礼一の説明にハオランが息を飲み、ターニャは戸惑ったように竜のいる方向へと目を向けた。クリスが顔をこれ以上ないほど厳しく引き締めながら素早く——おそらくダニエル相手にだろう——電話をかける。

 竜が身悶えながら再び船に近づき——その拍子に、虫の一匹が見えない壁に張り付いたのが見えた。そしてその時初めて、礼一は黒い虫だと思っていたものが何であるのかに気づく。

「クリス待って、虫じゃない。文字です」  聞き取り困難なスピードで、静かに何かをまくしたてているクリスの腕を掴んで、礼一は言った。 「漢字か、おそらくそれに近い言語圏の文字がまとわりついている。ものすごい数です」

 そしてハオランの肩を借りながら船のヘリに登り、その文字をつかむ。文字はジュワッという音を立てながら礼一の手の中で溶けて消えた。

「うわ、気持ちわる……」  思わずげんなりとつぶやく。虫のような文字は、一つ一つはそれほど強いものではないのかもしれない。

 礼一は再び竜の動きに注視した。

 しばらく苛立たしげに身を震わせていた竜の瞳が、海上の一点に定められたのが見えた。つられるように目を向けた先で、白く揺らめく大型のヨットが荒れた波の間で見え隠れしていて、礼一は身をこわばらせる。

「……クリス、まずいです。おそらく竜は別の船を使ってこの船を攻撃するつもりです」

 礼一は英語でそう伝えた後、今度は心配そうにこちらを覗き込んでいるイルカに向かって言った。

「……いーちゃん、これが少しでも君に負担をかけるなら、無理は言わない。でも、今ぼくが船の中に逃げたところで、危険なのは変わりないんだ」

 イルカがぷいっとそっぽ向く。

「お願いだ、いーちゃん。もしできるなら、ぼくに手を貸してくれないかな」 クリスとハオランが何か叫んでいるのを背後に聞きながら、礼一は光るイルカの背中に乗って空を駆けていた。  背景には冴え冴えとした月とオリオン座が輝き、向かう先には竜がいる。  一体自分は何をしているのだろうと思わなくはなかったが、こんな光景は、今時珍しくはないと言い聞かせて、そんな思いを振り切った。

 そう、ゲームやテレビの世界では珍しくない光景だ。イルカに乗って空を飛ぶ男の姿など、きっとありふれているに違いない。

 そんなことを考えている間にも、竜が船に手をかけて、持ち上げようとしているのが見えた。礼一とイルカは慌ててその目の前に躍り出て、パチンパチンと黒い虫の様な文字を手でつぶしてみせる。  その様子で自分たちの意図を察したのだろう。竜が、渾身の力を振り絞って動作を停止し、礼一たちの前に首をもたげた。  その姿に小さく「ありがとう」と告げ、礼一はイルカと共に文字の掃除作業を開始する。——それは、本当に気の遠くなるような作業に思えた。それほどまでに竜にまとわりつく文字の数は多く、まるで黒い霧のようにうごめいている。  それでも他に方法が思いつかない礼一は、ひたすら目の前の文字を一つ一つ潰していた。嫌な顔をしつつも噛み付いたり、尾びれで叩き落としたりと、礼一よりはるかに確実に文字を消していくイルカの助けもあり、二十分も経たないうちに霧もずいぶん晴れてくる。

 ただ同時に、竜の気力もまた限界に近づいているのがひしひしと感じていた。  竜の足が持ち上がり、苦しげに震えながらまた静かに下ろされるのを見るたびに、礼一の背には焦りのためか暑さなのためかわからない冷たい汗がつたっていく。

 一隻のボートがこちらに近づいてきたのは、まさにそんな時だった。  頭の片隅で、誰かが様子を見に来たのだろうか、くらいのことは考えたかもしれない。ただ、この事態を乗り切ったら値段を気にせずビールを飲もう、という明るい未来と、間に合わなかった時の最悪の事態とを行き来する思考に、礼一は疲弊しきっていた。それ以上の注意を払う余裕などない。

 ところが、そのボートから一人の男が立ち上がり、竜の背に飛び乗った瞬間、驚きのあまり思考の露が一気に晴れた。

 目を見張る礼一の目の前で、男は俊敏ながらも悠然とした足取りで頭の方へと着実に足を進めていく。

 それほど傾斜のない体勢を竜がとっているとはいえ、一体どんな運動神経をしているのだろう。信じられないことに、男は革靴を履いていた。

 彼は礼一たちの近くまでやってくると足を止め、ちらりとこちらに顔を向けた。

「——無茶をする」

 短い一言だった。

 だがそのぶれのない、深く落ち着いた声は、現実離れしたこの状況の中で、心を揺さぶるほどの深い安堵を与えてくれた。

 礼一は半ば呆然と男を見つめながら、もう大丈夫なのだ、と思った。そう思わせる何かが、男にはあった。

 彼はそのまま再び足を動かそうとして——一瞬、躊躇するそぶりを見せた後で付け加える。

「だが助かった。ありがとう」

 そう告げると、今度こそその均整のとれた体を無駄のない動きで動かしながら、竜の頭へと足を進めていった。

 礼一とイルカが見守る中、男が竜の耳元に片膝を立てて座る。

 しばらくして、竜の周りを飛び回っていた文字が光をまといながらボロボロと崩れ始めた。その文字に代わって一瞬だけ、ターコイズブルーに輝く文字がいくつかポツポツと浮かんだが、それもまた月の光の中に消えていく。

 それと同時に、それまでじっと身をこわばらせていた竜が大きく伸び上がった。慌てる男を無視して優雅に飛び去ろうとしたその生き物は、思い出したようにゆっくりと振り返り、礼一とイルカに向きなおる。穏やかになった淡い光から、感謝と喜びがあふれ出し、礼一とイルカを包みこんだ。

 竜はそのままゆっくりと礼一に顔を寄せ、礼一などイルカごと一瞬で丸呑みにできそうな大きな口を彼の額にちょんと当てると、茶目っ気たっぷりに一回転してからどこかへと飛び去っていった。  思わずその姿を目で追ったが、影すら一瞬にしてかき消えている。  竜が立ち去るとともに、吹き荒れていた風も穏やかになり、月は何事もなかったかのように静かに海を照らしていた。

 ——まるで夢でも見ていたような時間だった。  ぱしゃん、と大きく水を叩く音がして礼一は我に返る。見下ろすと、いつの間にか竜の背から飛び降りていたらしい男が、ボートの方へと泳いでいるのが見えた。礼一は船に戻りたそうな様子のイルカにお願いをして、男に近づく。

「大丈夫ですか?」

「……この扱いの差だよ、まったく」  男は憮然とした表情で毒づいてから礼一を見上げ、そのまま眩しげに目を細める。 「——これは、なかなか幻想的な光景だな」

 礼一は「自覚はあります」と苦笑し、そして改めて男の目を見つめた。

「あなたはこの子が見えるんですね」

 礼一の言葉に短く「ああ」と答えてから、男は思い出したようにぱっと顔を上げた。

「そうだ、申し訳ないんだが君、もうひと仕事頼まれてくれないか」そう言ってヨットの方へと目を向ける。「ちょっとあの船の乗組員の様子を見てきてほしい。あいつにだいぶ揺さぶられたようだから」

 礼一は、はっと顔を引き締めた後で快諾し、イルカにヨットの近くまで行ってくれるようお願いした。

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