3話

「そうだよ、この船の仕事を通してダニエルとは知り合ったんだ」

 礼一の質問を受けたクリスが、シャンデリアの光をキラキラ反射させながら、平然と答えた。  精巧な造りのキャンドルの炎が、テーブルの上でゆらめいている。大輪のバラとカスミソウ、そして目にも鮮やかなドレス姿の女性たち。ディナー会場となったダイニングは、昼間の雰囲気とは一転してゴージャスで華やかな雰囲気に彩られている。

「彼は、オーストラリアにすらいないことが多いから、あの場所の管理をどうするか頭を悩ませていたらしい。ぼくがあの子たちのことを見えると分かったとき、あの家に住んでくれるのなら取引に応じると言われたよ」

「……なんだか、身に覚えのあるやり取りです」

 礼一が嫌な顔をすると、クリスは悪びれなく笑った。

「まあだから、あのやり取りは伝統のようなものだと思ってくれれば」

 礼一が渋い顔をする隣で、ターニャがどこか居心地が悪そうに黙々と食事を口に運んでいた。  そういえばその向かいに座るハオランも、いつもに比べて少しおとなしい。  普段はあまり何かに臆することを知らなそうな二人だが、そうはいってもまだ若い。こういった場でリラックするのは難しいのかもしれない。

 礼一自身も、今まで経験したパーティーやディナーとは格の違う場の雰囲気に、やや圧倒されていた。  明らかに平均年齢の低い自分たちのテーブルが目を惹いていることにも気づいていたが、それでも何とか楽しんでいられたのは、この船自体の持つ柔らかさと暖かさのおかげだろう。

 メイン料理が行き渡ったあたりで会場の雰囲気が変わり、自らをキャプテンだと名乗る壮年の男性が、にこやかに前に進み出て船の紹介を始めた。

 曰く、この船は環境に配慮しており、排水・排ガスを出さないだけではなく、それらを浄化するシステムを船内に搭載している。また動力源の一部に太陽光を利用したハイブリッド船で、提供される食事はすべて、環境と健康に配慮した食材で作られている……。

 素直にすごいな、と思った。  ダニエルがこのような船を造ったのは、実態のないあの不思議な動物たちが見えるからだろうか。  船長の話に耳を傾けながら、礼一はそんなことを考えていた。

 やがて食事も終盤に差し掛かり、生演奏も華やいだものから穏やかなものへと変化していく。

 他のテーブルの倍ほどの料理を、どのテーブルよりも早く平らげた四人は、食後の紅茶とデザートをのんびりと楽しんでいた。

 それは、この船があまりにも静かだったからこそ気づけたのかもしれない。

 礼一は、手元の紅茶がカタカタと波打ち始めたのを見て、首を傾げた。  先ほどデッキに出たときには、波は穏やかに見えたが——少し天候が荒れてきているのかも知れない。

 前方では、先ほど船の紹介をしてくれていたキャプテンが、船員から何か報告を受けて席を立ったのが見える。

 なぜか胸騒ぎがした。船なのだから、多少の揺れは当然のことだ——頭で言い聞かせても誤魔化せない、不快な感覚が体の奥底でうごめくのを感じる。

 船の揺れを理由に席を立つのは、さすがに失礼だろうか。食事が終わってから、デッキへと足を運んでみよう。

 そんな礼一の思考をかき消すような、強く鋭い声が体の内側を走り抜けた。  ——行け、今すぐに!  次の瞬間、礼一は自分でも驚くほどのスピードで紅茶を飲み干すと、非礼を詫びて席を立ち、そのまま足早にデッキへと向かっていた。  夜の海が荒れていると、それだけで底知れぬ不安を掻き立てられるものだ。  複雑にうごめく雲、白波をたてながら縦横無尽に動き回る広大な水。  小さい頃によくのせてもらっていた漁船だったら、繰り返し強く甲板に叩き付けられていただろう。  海は、予想よりもずっと荒れており、それを感じさせない船に思わず感心したほどだった。

 雲の切れ目から、美しく鋭い月の光が姿を現し、海を照らし出す。  ——その瞬間、礼一の全身が一気に泡立った。

 何かがいる。身がすくむほどの何かが。

 逃げ出したい、けれどここから離れたくない、今までの人生で感じたことがないほど大きな——これは畏怖。

「レーイチ!」

「お前いきなりどうしたんだよ」

 どうやら礼一を追っかけてきたらしいクリスとハオランが、礼一の背中に向かって問いかける。その二人に向かって、礼一は振り返ることもできないまま、問いかけた。

「——ぼくの、目の前に、何かいますか……?」

 特になにも、と言いかけたハオランが、その言葉の途中でふと目を細める。

「この風は……」  礼一の隣に並んだクリスが、低くそうつぶやいた。

「いるわ」  そう言いきったのはターニャだった。 「見えないけど、いるわよ。なにか、たぶん、とても大きい——」

 その時、突然背中を乱暴につつかれて、礼一は飛び上がった。金縛りが解けたように勢い良く振り返り——そして見慣れたつぶらな瞳と目が合ってあごを落とす。

「いーちゃん?!」

 朝、家のエントランスで別れたはずのイルカと、船の上で再会してしまった。パティオの外に出るところなんて、見たことがなかったのに。

「なんでこんなところに……」

 礼一の困惑をよそに、イルカは常にない乱暴な仕草で、何かを訴えかけてくる。尾びれをはためかせ、その尖った口先で肩をつつき回し……。

「もしかして、逃げろって言ってる?」

 でも何から。

 その時、ただ海原が広がっていただけだったはずの視界の隅に、何かが映り込んだ。

 礼一は、濃密な空気の圧力が全身にのしかかってくるのを感じながら、そっと顔を上げる。  そこで悲鳴を上げなかったのは、まだ心に余裕が残っていた証か。

 何度か口を開閉させ、震える呼吸を繰り返し、ようやく礼一は声を絞り出した。

「竜……!」

 月明かりに浮かび上がった伝説上の生き物と、目が、合ってしまった。

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