現実 第十五部

「坂波さん一つお聞きしたいことがあるのですがいいですか?」

「……なにかしら?」


 目元に浮かぶ涙を拭いながら俺の質問に答えてくれる坂波さん。

 そんな坂波さんに聞きたかったことは今だからこそ聞けること。いや、今しか聞けないこと。今の坂波さんなら答えてくれるだろうという心算で俺は彼女に問いかけた。


「坂波さんが何かで悩むように、綾さんも悩むとしたら何で悩んでいたと思いますか?」

「綾ちゃんが悩むこと?」

「そうです」


 一瞬考えるかのように静寂が俺たちの間を包み込むが、すぐに坂波さんによって破れらる。


「綾ちゃんが悩むことなんてないと思うけれど」


 坂波春にとって園田綾は憧れであり、雲の上の存在。だからこそ、綾さんの欠点どころか、悩みなどないと考えていた。

 その考え自体は別におかしいことではない。なぜなら、実際に会ったことがなくともテレビやネットを通して見たことある人は世の中にたくさんいて、その中で自分が尊敬するスポーツ選手やアイドルはいつも輝いて見える。

 何かの媒体を通して見るその人たちは必ず輝いているため、誰しもこの人たちは自分たちのように、こんな小さなことで悩んでいないのだろうなという一種の錯覚に陥る。

 だが、同じ人間。悩みのないものなどまずいない。

 絶好調に見えても、実際は過去の自分と比べ悩んでいるかもしれないし、可愛く見えても、実際は化粧がうまく決まらず四苦八苦しているのかもしれない。

 そういう意味では坂波さんの思考はおかしくはない。けれども、坂波さんの憧れる人物は実際に会ったことある人物。良いことも悪いことも自分の目で見ている。だから、決して見たことある人間が完璧だとは思えない。


「今に限った話じゃなくていいんです。小学生の頃、綾さんが悩んでいただろうなってことを聞かせてくれませんか?」


 片手を口元に近づけて考え込む仕草を取る坂波さんであった。それは一見して俺の質問にさらに考えを巡らせているように思えた。けれども、その視線はこちらに向けられていて、俺の質問の答えを考えているというよりかは、どうして俺がこんなことを聞いてくるのかと考えているようであった。


「どうしてそんなことを聞くの?」


 俺の予想は当たっており、どうして俺がこんなことを聞くのかわからず、その答えを求めてきた。


「俺は、綾さんと知り合ってからずっと思っていました。この人に悩みなんてあるのだろうかと。こんなすごい人が俺たちみたいに悩むのだろうかと」

「その気持ちはわかるわ。私もそう感じた時は何度もある」

「だから、聞いたんです。俺よりも長い時間綾さんのそばにいた坂波さんに」

「長いって、最近だと健くんのほうが長いわ」

「確かにそうかもしれません。でも、やっぱり坂波さんに聞いてみたかったんです。坂波さんは綾さんのことをどう見ていたのかを」


 俺の質問の意図を理解した上で、もう一度坂波さんは考え込む。真面目な彼女らしく、それ以上俺に対して何かを聞くこともなく、ただ素直に俺の質問の答えを考えてくれる。

 先ほどまでまだざわつきのあった場内も少しずつ静かになり、いよいよ式の開始が迫ってきた。

 あと何分、何秒で定刻になるかはわからない。

 だが、それよりも前に坂波さんの答えがまとまる。


「多分だけれどね。どうやったら今よりも良くなるのかって悩む。と言うか、考えていたんじゃないかと思う。成績とか、自分の能力とか、人間関係とか。それが綾ちゃんらしい悩みなんだと私は思う」


 坂波さんの述べた綾さんの悩みは見事なまでの想像通りの答えだった。

 常に高みを目指し、向上し続ける人間らしい悩みそのものであった。

 最後に、人間関係という言葉を持ってきたあたりが少し気にはなるものの、もう式も始まる。

 俺は静かになるほどと言ってから、必死になって考えてくれた坂波さんに感謝を述べ、いつかのように、二人して同じ人物の顔を眺めたのだった。

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