未来とは 第三部
「とりあえず、その辺に座ってくれるかな?」
綾さんにそう促されたので俺は先ほどまで友継さんが座っていた席に腰掛ける。
「なんで、そんなに遠いの?」
綾さんの言うように、友継さんの座っていた席はベッドに座っている綾さんから少しばかり距離のある場所にあった。しかしながら、話すくらいならこのくらいの距離がいいかと思って座ったが、綾さんは不平を漏らした。
「そこ座って」
綾さんが指差す先は真子さんが座っていた席だった。
特に拒否する意味もないし、何よりも早く会話をしたかった俺はすぐに席を移動して、綾さんの目を見る。
初めて、こうやって向かい合ってみると、これまで会って来た人たちが言うように綺麗な顔立ちをしているし、凛々しさのようなものもあり、見た目からも優れているような人であることは伺えた。
さきほどから見せている余裕のあるそぶりも年上のものとは別に、場慣れしているような人の感覚であった。相手のことを考え、自分がどういう行動をしたらいいか。そういうことをわかっている人のそぶりであった。
「話したいことってなんですか?」
こちらからあの言葉について聞いてもよかった。しかし、綾さんからあの言葉のことについて知りたかった。だから、こんな会話の始まりになってしまった。
「えっとね。私が事故にあった時の状況を教えて欲しいんだけど」
「事故にあった時の状況ですか?」
「そう。さっきも言ったけれど。私、記憶が曖昧で少しずつ思い出しているんだけど、健くんに教えてもらったら一気に思い出すかなって思って」
どうやら、本当に綾さんは記憶が曖昧なのらしい。とはいえ、あの言葉のことを思い出してもらえるならこちらとしても願ってもないことではあった。
「今、思い出せていることってなんですか?」
「えっと、横断歩道のところで轢かれたってことかな」
「そうですね。僕が横断歩道を渡っている時に、そこへ突っ込んで来たトラックから綾さんが助けてくれたんです」
「私が?」
「はい。トラックに轢かれしまいそうになった僕に対して、綾さんは自分の体をていして助けてくれたんです」
「なるほどね……」
右手を口元に持っていく仕草を見せながら、綾さんは思い出していた。
「ちなみになんですけど、その時僕に言ったことって覚えてますか」
「言ったこと?」
「はい。綾さんが僕に言った言葉です」
ぐっとさらに悩むような表情を浮かべながら、思い出そうとする。
「なんていったの?」
しかしながら、思い出せなかったのか考えることを放棄して俺に答えを求めて来た。俺の口から言っていいものか、一瞬悩んだがこのまま思い出せずじまいと言うのが一番まずかったので、言うことにした。
「ごめんなさいって言ったんですよ」
「ごめんなさい? 私が」
「はい。思い出せませんか?」
改めて首をひねって記憶を辿っていく綾さんであったが、俺の願いも虚しく思い出すことはなかった。
「ごめんね。まだ思い出せないや」
「いえ、いいんです。急かして思い出すようなことでもありませんから」
「急かす必要はなくても、思い出しては欲しいことなのかな?」
俺の言った言葉に対して、綾さんは打ち返すような勢いでそう言い放った。俺としては別に意味を持った言葉ではなかったが、綾さんからしたら含みのある言い方に聞こえたのかもしれない。
「そうですね。あの状況で初めて会った僕に、ごめんなさい。なんて言われたら気にもなりますよ」
「それもそうね」
「思い出したらでいいので、あの時の言葉の意味。教えてくれませんか?」
「わかった。思い出したら言う」
俺としてはあの言葉の真意を聞けることもなくなったし、今日はこの辺りで失礼しようかと考えたが、友継さんたちはまだ帰ってくる気配もない。いくら病院とはいえ、このまま綾さんを一人にするのも少し気が引けた。何事にも、もしもの出来事がある。だから、俺の方から帰るという選択肢は残されていなかった。
「他に、何か聞きたいことありますか? といっても綾さんのことについては友継さんたちから聞いたことしか知りませんが」
「そういえば、父さんたちとすごく仲よさそうだったね」
「そうですね、あの事故以来。何度かお話しさせてもらっていましたから」
「なんだか恥ずかしいな。私のことを聞かれていたと思うと」
「そんなことないじゃないですか。綾さんのこれまでの人生はすごいことばかりでしたよ。文武両道で、その容姿。何も恥じることはないと思いますよ」
「緑川くんは褒めるのが上手だね」
「いえ、決して」
「ううん。相手を敬い、相手を調子に乗らせるのが上手いよ」
「……綾さん、怒っていますか?」
「えっ。どうして?」
先ほどから優しい表情を浮かばせている綾さんであったが、先ほどの言葉にはどこか棘のようなものを感じた。それはまるで、髪をといでいる時に櫛が一瞬引っかかったような感覚。もう一度同じ場所をときなおしても、その引っかかりはなくなっており、至って普通になっている。そのくらいの些細な気づきであった。
「いえ、綾さんが眠っているのをいいことに、人の個人について聞くことは常識的に考えてもおかしいことですから」
「う〜ん。確認なんだけど、それは緑川くんが私のごめんなさいって言葉が気になって、私の父さんたちに聞いていたってことだよね?」
「はい、そうです」
「なら、何かわかった?」
「わかったといいますか、あくまで綾さんが思っていることなので、僕が考えていることとはまた別で……」
「聞かせて。緑川くんが考えた私があなたにごめんなさいと言った理由」
俺の目をまっすぐに見て、決して逸らそうとしないその瞳は、何が何でも俺の口からあの言葉の理由を聞きたがっていた。
実際、姫野さんとの一件があり、ちょうど一つの考えが思い浮かんでいた。そして、それはおそらく当たっている。
だからこそ、今の綾さんに言うべきか考えさせられた。
今の綾さんが今後このことに気づかずに生きていくのなら、それはそれでいい人生だと思うし、相手が忘れていることを俺の口から言って、思い出させるのも俺個人としては気が引けた。
俺が思い浮かんだこの理由は、綾さん自身が思い出してこそ意味がある。そう思っていた。
しかし、そこまで考えて俺はなぜ、そこまでして綾さんのことを考えているのだろうと不意に気づいた。綾さんとは命を救ってもらった恩人という関係があるとはいえ、赤の他人。そして、俺の考えを話して、綾さんがそれを思い出せばもう今日までの苦労や、生活もなくなるのだ。それは俺にとっての終着点。ゴールなのだ。
そう考えたら、ここで黙っておく必要はない。
俺の考えを言って、それを綾さんが聞いて、思い出せば俺の人生は終わる。
だから、肩にかかっていた重みのようなものもなくなり、自然と言葉にしていた。
「綾さんは、死にたかったんじゃないんですか?」
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