記憶掃除

猫犬鼠子

記憶掃除

 今日、初めて出来た彼女に振られた。大学生の頃から今まで、実に二年間の付き合いだった。終わってしまえば、とても虚しい。未練だけが、後には残った。他に打ち込めることでもあれば、少しは気も晴れるのだろうが――。しばらくはこの悶々とした気持ちのまま、生産性の無い日々を送ることになるのだろう。


 こんな思い出、いっそ綺麗さっぱり、何もかも忘れてしまえればいいのに。


 男は、そう願いながら眠りについた。


   *  *  *


「無駄な記憶、忘れたい記憶はありませんか? あなたの思い出、掃除します」

 目が覚めると、見知らぬ少年が目の前に立っていた。

 ここは男が借りているマンションの一室。地上七階。玄関には鍵がかかり、窓も全て閉まっている。本来、男以外は誰も入れない密室であった。とすると、この少年は――


 物取り、もしくは人殺し。


 声を出すより先に、自分の不幸な運命を想像し、男は動けなくなっていた。

 しかし、ブルブル震える男をよそに、少年は満面の笑みを浮かべた。そしてそのまま手持ちのカバンを開けると、こう言い放った。

「記憶掃除に来ました! それで、今回はどれくらいの長さにしますか?」

 それは、実にわけの分からない提案だった。当然男は恐る恐る、不審者に出くわした時のやり方で、なるべく相手を刺激しないように事情を尋ねた。だが、

「記憶ですよ、記憶。何年分忘れるか、それとも特定の思い出だけを忘れるか。今回は急がないので、決まったら教えてください」

 返ってきたのは脈絡がなければ、突拍子もない言葉。


「お客さんが僕を呼んだんですよ」

 そうは言うが、男は少年の風貌に、一切心当たりがなかった。

「悪いけど」というわけで男は正直に答えた。「僕はそんな怪しげなサービス、頼んだ覚えがないんだよ。だから多分、人違いだと思うんだけど」

 すると少年は、いきなり泣き出しそうな顔になってしまう。

「言ってたじゃないですか、何もかも忘れてしまいたいって。だから遠路はるばる、此処までやって来たのに」

 少年は言った。思い返すと、確かに昨晩、そんなことをぶつぶつ呟いたような気もしてきた。仕方ない。ここは小銭でも渡して、大人しく退散してもらおう。そう思い、男はため息をつきながら財布を開ける。しかし、男がお金を差し出そうとすると、少年は大きく首を振った。

「代金は要りません。記憶を頂くだけで、十分です」

「でもそれじゃあ、君に何の得もないじゃないか」

「石集めに凝る人がいるように、僕は記憶を集めるのが趣味なんです」

「なるほど」


 無料ただ、という言葉に現代人の男は弱かった。

「でも、忘れるったって、そう都合よく……」

「なあに、簡単なことです」男が首を傾げると、少年は答えた。

「スマホの容量が一杯になったら、データをメモリーカードに移したりするでしょう。思い出もそれと同じことで」

 顔を上げると、少年は男の前で、透明のケースをひらひらさせていた。話を聞いていると、もっともらしく聞こえてくるから実に不思議だ。

「どうします、忘れてみますか?」

「うーん」しばらく迷った後で男は答えた。「それじゃあ試しにお願いしてみるかな。だけど消すのは、元カノに関する範囲だけでいい。双方の記憶から、相手の存在を余さず消し去ってくれ。完全に、赤の他人になりたいんだ」

「了解しました」

 既に愛情は失せていた。投げやりな気持ちも相まって、男は彼女の許可も取らずに勝手なことを言った。二人はその場で契約を交わした。

 その瞬間、男の意識は暗転した。


   *  *  *


 運命の人だ。女を一目見た瞬間から、男はそう思っていた。

 社会人にして、彼女いない歴=年齢。万年女日照りの男に訪れた初めての恋。柄にもない、猛烈なアタックが功を奏したのか、女は男の告白を受け入れてくれた。旅行に行ったり、食事に行ったり。それからは、かつてないほど幸せな日々が続いた。

 が、どこでどう間違えたのか。

 告白から二年が経ち、男は今こうして女に別れを切り出されている。SNSのスタンプ一つが絶縁状と同じ効果を持つなんて、何とも酷い時代になったものだ。


 何がいけなかったのか。


 自分の非を考える前に、男は女に告白したことを悔やんでいた。人の心をもてあそんでおいて一方的に振るなんて。悶々として仕事も手につかない。


 こんな思い出、いっそ綺麗さっぱり、何もかも忘れてしまえればいいのに――


 そう願うと、いつの間にやら、男の前に見知らぬ少年が現れていた。

「毎度有難うございます。記憶掃除に来ました」

 男が驚くと、少年は言った。

 あれよあれよという間に、男は少年の言葉につられ、記憶を忘れる事に相成った。が、契約するまさにその時になって、男はふと、前々から感じていた違和感の正体を尋ねてみたくなった。

「なあ」男は聞いた。「君はさっき『毎度』と言ったが、もしかして僕は以前にも、君と会ったことがあるのかい?」 

「ええ。以前にも何回か」少年は答えた。「常連のお客様なのでよく覚えております。よろしかったら忘れた記憶を見ていかれますか?」

 男はコクリとうなずいた。男が身を乗り出すと、少年は手持ちのカバンを開け、中身を見せた。中からは、色のついたもやが入った、透明のケースがたくさん出てきた。

 ケースには小さなラベルが張ってあり、

『大学生』

 と書かれていた。

 そして隣のケースには、

『高校生』

 と書かれている。

「他にもありますよ」

 少年は明るい声で、次々とケースを見せていった。


 中学生

 小学生

 幼稚園児

 託児所時代……


 まさか。まだケースを開けていないにも関わらず、男は少しずつ、以前の記憶を思い出していた。小学生、中学生、高校生、大学生と、子ども時代から今の今まで、女とずっと一緒だったことも。女を何度も好きになったことも。その度に振られ、その都度、少年の力で記憶を消していたことも。


「考え直しますか?」

「ああ、そうさせてくれ」

 男が頭を抱えると、少年はカバンとケースを残して消えた。男は静かな部屋で一人、ため息をついた。二年間、もとい二十数年来の付き合いだった女のことを考えていた。


 今度は忘れるのではなく、やり直してみよう。長い時間が経った頃、男はようやく前向きな気持ちで立ち上がった。立ち上がったところで、カバンの中にまだ一つ、ケースが残っていることに気が付いた。男は、首を傾げながらケースを手に取った。

 するとそこには、

『お腹の中』

 こう書かれていた。


(了)

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