第3話 豚しゃぶの和え物(1)

 マルコの話を聞いたと言って食べにくる客が後を絶たない……。


 などということもなく、とても静かに時間が過ぎていく。満腹になったマルコが帰ってからそんなに時間が経っていないのだから当然だ。

 さて、暇なときというのは時間が過ぎるのが非常に遅い。


「ふわぁぁ」


 純白の髪に、透き通るように白い肌、明るく輝く瑠璃色の瞳をもつ少女クリスは、ヒマすぎて欠伸をしてしまう。

 無垢の木でできたカウンターに数席のテーブルがある店内は、白い土壁と石でできた床が少し和風の雰囲気を醸し出しているのだが、少女が着ている服は少し不似合いだ。

 フリルが多用され、刺繍まで施された贅沢なブラウス。その上には胸元を強調するような形に縫い上げられた黒いワンピースを着ており、その上にまたフリルと刺繍がついたエプロンを着けている。

 仕事をしていれば必ず汚れてしまう、そのエプロンにまでフリルや刺繍をするというのは、この街では非常に贅沢なことだ。

 この店があるマルゲリットという街にもメイドを雇う階級の人たちがいる。そこのメイド達が城門近くにある交流街へと買い出しに来ることがあるのだが、その一般的なメイドは黒のワンピースにエプロンという姿である。

 いや、言葉にしてしまうと同じに聞こえるが、一般的なメイドはブラウスを持っているわけではなく、つけ襟、つけ袖なのだ。

 そんなメイドと比べると、クリスの服装がいかに常識外れなのかということもわかってもらえるだろう。


「そういや、マルコさんに自己紹介するとき、思いっきりフルネーム言ってなかったか?」


 厨房に立つ料理人、シュウさんこと、生田秀一が思い出したようにクリスに話かける。


「あ……」


 クリスの本名は、クリスティーヌ・F・アスカ。

 代々、このナルラ地方を治める、アスカ家の娘である。


「まあ、マルコさんも気づいていないみたいだけどな」

「じゃぁ、いいじゃない」


 恐らく、まったく反省していない様子だが、その美しい顔でニッコリと笑うクリスを見るとシュウはもう何も言えない。


「それにしても暇よね……」

「宣伝してないから仕方ないだろう?」


 とても残念なことだが、宣伝だけの問題ではない。


 店に看板がなく、暖簾が掛かっているだけである。

 暖簾には日本語で「めし」とだけ書かれており、マルゲリットの人々には見かけることもない暖簾というものに、読めない日本の文字で書かれていては料理屋であることすら認識されない。

 また、マルゲリットの店に限らず、建物の出入り口は扉になっている。

 この店のような引き戸というのは、非常に珍しく、入りづらい。

 最初の客となったマルコ・キャンベルは、開店準備をしていたクリスと会ったから入ることができたのだ、そのことに二人はまったく気が付いていない。


「また雨でも降ってるのかな?」


 そう言うと、クリスは店の引き戸を開いて外に出ようとした。


「わっ……おはようございます!」


 クリスは引き戸の前に立っている人たちに向かい、頭を下げた。


 店の前から数歩離れたところに、弧を描くように商人らしき人々が集まっており、クリスの様子をうかがっている。

 挨拶されたことで、何事もなかったかのように背を向けてどこかに行くフリをする男もいれば、横にいる男の耳元でヒソヒソと話している女、場違いな豪奢メイド服姿ではあるが、とても美しいクリスに見惚れる叔父さん……それぞれに違う反応を見せているが、共通しているのは「無言」である。


「ど……どっ……どうなさいました?」


 クリスは思わず言葉に詰まる……

 十数名もの人々から一斉に注目を浴びているのだが、このような機会はそうあるものではない。

 いや、クリスは領主の娘なのだから、社交界デビューしたときに数倍の規模のものを経験している。だが、慣れるものではないし、その社交界を蹴って王都の魔法大学へ進学したのだから、余計に慣れていないというのもある。


 しかし、店の前にいた人たちからはまったく反応が返ってこない。

 この構図は、知らない者が離れてみると追い詰められた豪奢メイドという感じすらするだろう。


 すると、一番後方にいた男が商人らしき男たちの合間を縫うようにして前に出てきた。


「よお、朝めしを食わせる店なんだって?」


 男は少し脂っぽくなった髪、汚れたヨレヨレの服、泥のついたズボンという姿である。

 少し眠そうではあり、とても疲れているのか肩や立ち姿に力が無い。


「はい!少し変わった料理ですけど、お味は確かなので是非お試しください!」


 クリスは大きく元気な声で、返事をする。

 もちろん、目の前にいる汚れた男以外の者たちにもしっかり聞こえるようにだ。


 だが、誰も店に入ろうとはしない。


「ああ? お前ら、食べに来たんじゃねぇのかよ」


 じろりと周囲に目をやると、そのちょっと小汚い感じの男は大股で店の中へ入っていった。





「らっしゃい!」


 厨房のシュウが挨拶をするが、男は店の中をぐるりと見回す。


「よお、酒はあるのかい?」

「すみません、朝食の店なので、お酒は置いてないんです」


 申し訳なさそうに厨房のシュウが答える。

 実はビールも日本酒もあるのだが、こちらの世界の酒と比べると日本の酒は美味すぎる。

 となると、居酒屋のような雰囲気になることも予想されるし、こちらは剣と魔法の世界なのだから、酔って暴れられても困る。

 また、酒を出すにも値段がどうしても高くなってしまう。朝食一人前で50ルダールしかとっていないが、生ビール一杯で同じくらい取らないといけない。


「なにかお疲れのようですし、まずはこちらにお掛けになってくださいね」


 客の男に向かい、クリスはカウンターの椅子を引いて座るように促す。


「まあいいか、いま飲んだらそのまま寝ちまうな」


 そう呟くと、男はカウンターの椅子に腰を掛ける。


「うちは一汁一菜のお店でして、肉と魚、卵、野菜料理から一つ選んでいただくことになっています。

 肉は『鶏肉』、『豚肉』、『牛肉』の3種類から選んでいただきます。

 卵は『鶏』の卵、今日の魚はべに…塩漬けの『紅鮭』の切り身を焼いたものです」


 慣れない手つきで熱いおしぼりを男に渡しながら、クリスがメニューの説明をする。


「おっ、熱いな……

 料理も思ったよりいろいろあるんだな……

 もう疲れて考えたくないから、お任せするよ」


 男はそういうと、思わずおしぼりで顔を拭く。


「ぷはぁーっ

 気持ちいなこれ!」


 熱々のおしぼりで顔を拭くことの気持ちよさを知った男は、あちこちをゴシゴシと拭き始める。

 みるみるうちに、おしぼりが黒ずんでいくのを見て、男は驚く。


「うわっ!汚ねぇな……オレ……」


 その姿を見て苦笑いしながらクリスが尋ねる。


「お疲れのようですし、『豚肉』の朝食にしましょうか?」

「おう、それでいいぜ」


 そう軽く返事をすると、男はおしぼりを裏返し、また身体を拭き始める。


「豚朝食、一人前承りましたぁ」

「あいよっ!」


 厨房に向かって注文を通すと、シュウがテンポよく返事する。

 クリスはマルコの時よりはテキパキと動き、お漬物とお茶を男に差し出す。


「お茶はおかわり自由です。

 こちらは、お漬物の盛り合わせ。

 無料ですので、料理ができるまでお楽しみくださいね」


 ゴシゴシと身体を拭く手を止めて、男は漬物の乗った皿を見る。


「こりゃなんだ?」


 目の前に出された漬物は3種類。

 いや、気になったのはその手前の木の棒だ。


「それは、箸です。

 箸を使える方はいないと思うけれど、覚えてもらえたらいいなと思ってお出ししています」

「どう使うんだい?」


 男がそう尋ねると、クリスは別にあった割り箸を取る。

 杉の端材を使った利休箸で、中央を紙で巻いて固定してあり、紙を剥がして持つ。


「右利きの方なら。1本目をペンを持つようにして、2本目を薬指と中指の間に挟みます。

 1本目の方を動かして、ものを挟んで食べるんですよ」


 そういうと、クリスは実際に胡瓜の古漬けを掴んで見せる。


「こっ……こうか?」


 男は太い指で箸を使おうとするが、いまいち要領を得ない。

 ペンなんて持ったこともないのだから、見よう見まねだ。


「こうですよ」


 クリスは男が見比べやすいよう、右後ろに立って持ち方を見せる。

 すると、花のようなすばらしい香りがクリスの髪からフワリと立ち上がり、その香りを嗅いだ男はすこしうっとりとなってしまう。そして、その香りがやってくる方向に男が目を向けると、自然なピンク色で、ぷっくりと柔らかそうな唇が艶々と輝いている。その香りに包まれた、とても柔らかそうな唇に、つい男は見惚れてしまう。


「お客さん?」


 クリスの白い肌や、純度の高い大粒のラピスラズリのような瞳、純白の髪にグロスで輝く唇……。

 あまりに豪著で派手なメイド服姿が街にも店にも不似合いで気がつかなかったが、この少女はとても美しい。


「あ……ああ、すまん……こうか?」

「そうですそうです!あとは練習あるのみですよっ!」


 クリスは両手でガッツポーズをしてそう言うと、ふいっと男の横から立ち去ってしまう。

 男は去っていく髪の香りについ手を伸ばしてしまいそうになるが、邪念を払うかのようにかぶりを振ると、皿の上の胡瓜の古漬けとのバトルを開始した。


 なんとか目の前に胡瓜の漬物を持ち上げると、発酵した匂いがすこし漂ってくる。何かに漬け込まれていたようだ。


「これは『胡瓜』だよな……」


 この世界の胡瓜は太くて硬く、大きい。

 特に大きいものは、男性の二の腕くらいの太さはあるし、長さも身長の半分くらいになるものがある。

 それに比べると、この胡瓜は親指より少し太いくらいだ。


 初めて見る日本の胡瓜を前に、男は意を決して前歯で齧る。


 パリッ……ジャクッジャクッ……


 少し歯ごたえは頼りないが、かなり細い胡瓜だ。

 思った通り、発酵した何かの匂いと、瓜臭さが少しだけ口の中に広がる。

 そして、結構すっぱい。


「おい、これ腐ってねぇか?」


 酸っぱいものは腐ってることがある。

 男もそれくらいは知っていて、心配になって尋ねてしまう。


「発酵したヌカ床というところに漬け込んでいたもので、その香りと酸味が移るんですよ。

 だいじょうぶです。お茶を飲んでみてください」


 髪の香りがすごくよくて、唇がキラキラと輝く女の子がそう言うのだから、信じないわけがない。

 男は、何の迷いもなくお茶を口にした。


「ほぅ……」


 酸味が支配した口の中に、甘さと渋さを持った清々しい香りがするお茶が入ってくると、きれいに洗い流してしまう。

 そのお茶のもつ温かさに、思わず溜息がでた。

 少し放置していたので冷めているのだが、逆にゴクゴクと飲むには丁度よいくらいの温度にまで下がってくれている。


「あと、この醤油をつけると更に美味しいですよ」


 純白の髪が花のような香りを漂わせ、艶々と光るぷっくりとした唇が話かけると、細くて白い指が小皿に醤油を注いでくれる。その醤油というものを少しつけた漬物は、美味しさが数倍に膨れ上がる。


「うまいっ!」


 ほんの少量の醤油により加えられた旨味に、男は大声を出して喜んだ。

 こうなると、男は唇のことはとても気になるが、食欲にも火が付いたようだ。

 白菜は、塩で漬け込むことによってその葉から出た甘みが全体に染み込み、美味しくなっている。また、蕪の漬物は赤い唐辛子も一緒に漬け込まれており、その辛みを少しだけ感じるところがまた美味しい。

 それぞれに違う素材で、違う漬け方、違う味になっているが、どれも醤油をつけると美味さが跳ね上がり、お茶にもよく合っていた。


 そうして、お茶を三杯ほど飲み、たっぷりと漬物を堪能したところで、ようやく料理が運ばれてきた。


「お待たせしました!

 豚朝食です!」


 また花のようなすばらしい香りをたてながら、クリスが右側から丸いトレイに乗った料理を男の前に差し出した。

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