ビラ配りの少女

七海けい

第1話

 

 例えば、街角でビラ配りをしている人がいたら、俺は貰ってあげるタイプの人間である。配られているのがポケットティッシュであれば尚更貰ってあげたくなり、スナック菓子であれば当然貰ってあげたくなる人間である。

 そして、例えば、好みの女性が配っていたら、明日も会えないかな……などと思って、同じ時間や道のりを意識するタチの人間である。


 さて。


 大学1年目の冬。12月の年の瀬も迫る頃。俺は大学から直帰せず、一駅歩いたところにある本屋に寄った。

 目当ての新書を買い、そろそろ帰ろうと、傾いた夕陽に目を細めた頃、俺は駅前で、一人の少女を見かけた。高校生くらいであろうか。豊かで艶々とした黒髪が、マフラーの縁でゆるりと丸みを描くように膨らんでいて、温かな雰囲気を醸し出していた。

 しかし、当の彼女は白い息を吐きながら、紅がかった手の甲を顧みる暇もなく、休む間もなく、懸命に、健気に、少し悲壮さも漂う様子で、道行く雑踏に声を掛けていた。


「──駅前の24時間ジム、絶賛会員募集中です! よろしく御願いしますっ!!」


 先日、この辺に、チェーンのフィットネスジムができたことは噂に聞いていた。自分は肉体改造に微塵の興味もないが、いつものルールに従って、俺は彼女に近づいた。そして、無言で手をかざした。


「ありがとうございます!」


 彼女は営業スマイルを浮かべながら、ビラを差し出した。

 俺は受け取り際に、彼女の足下を見た。段ボール箱が一つ、鎮座していた。それはまるで、囚人に繋がれる鉄球のように、彼女を見張るように、重々しい存在感を示していた。

 俺は紙面を眺めながら、無論、彼女をジロジロと見るような真似はせずに、その場を後にした。ニカッと笑った顔の濃ぃい男女が、もりもりゴテゴテとした筋肉を見せつけながら、「入会費無料ッ!」の赤文字を囲っていた。冬の寒空に、何とも暑苦しい広告であった。


「……」


 俺はビラを畳んで鞄にしまうと、改札に向かった。

 地下一階のホームに下りる前に、俺は振り返った。彼女は、人の流れに逆らうように、ビラを配り続けていた。棘刺すような冷たい突風が、彼女の赤らんだ手からビラの束を吹き飛ばした。彼女は慌てて駆け出すと、ぴょんぴょんと跳ねながら、宙を舞うビラに、届きそうもない指を伸ばしていた。


「配ったことにしちゃえば良いのに。……」


 彼女は、完全に風とビラに弄ばれていた。

 若干の躊躇の末、改札を入り直すほどのことでもないか……と思い、俺は帰路に着いた。



 次の日。

 俺は特に用事もないのに、大学から直帰せず、隣駅まで歩いた。


 同じ時間の、同じ場所で、俺は彼女を見かけた。


「──駅前の24時間ジム、絶賛会員募集中です! よろしく御願いしますっ!!」


 今日は、ビラにポケットティッシュが付いていた。しかし、彼女の顔色を見るに、あまり事態は改善していないらしかった。彼女は相変わらず、一所懸命に、ビラを配っていた。


「……」

「ありがとうございます!」


 俺は、またしてもあの暑苦しいビラを貰ってしまった。一緒に貰ったティッシュの方も、なかなかのデザインだった。筋骨隆々とした男女が、ナルシズム的な笑みを浮かべながら、その肉体を強調している写真が、透明な袋越しに見えた。


 俺はビラとティッシュを鞄にしまうと、改札に向かった。

 ホームに下りる前に、俺は振り返った。彼女はくしゃみをした。両手で口と鼻を隠し、背中を軽く屈め、チョコンと跳ねるような、恥じらいのある小さなくしゃみだった。彼女はコートのポケットからティッシュを取り出すと、チン、と縮こまるように鼻をかんだ。


「風邪引くなよ……」


 明日──クリスマス・イヴ──も、彼女はいるだろうか。明日はさすがに全日休講だが、定期券は有効だし、大学の図書館に用事が無い訳でもない……。そんなことを考えながら、俺は帰りの電車に乗り込んだ。



 次の日。

 俺は午前中から大学へ行き、生協で昼飯を済ませると、「あの時間」までの間、図書館で暇を潰すことにした。普段は行かない他学部の棚を眺めたり、前々から気になっていた未読の本を手に取ったり、微妙なWi-Fi環境でネット小説を読んだりしながら、時間を潰した。


 意外と没頭してしまい、俺が大学を出た頃には、陽は思いっきり沈んでいた。俺は校門の階段を二段飛ばしで降り、街灯の下を早足に抜け、駅前に向かった。


「──駅前の24時間ジム、絶賛会員募集中です! よろしく御願いしますっ!!」


 今日もまた、彼女は人混みに挑んでいた。彼女は、ポケットティッシュを添えたビラを差し出す度に、素通りされていた。


「……」


 女子高校生を日没後まで扱き使うとは……このジムは、結構なブラック職場だと思った。……ぃや、単に、俺の推定が間違っていただけかも知れない。何にせよ、あれこれ考えるのは止めにして、俺は歩調を緩めつつ、いつもの調子で、彼女に近づいた。


「はぁ。……」


 彼女は突然、電池が切れたかのようにしゃがみ込むと、溜息をついた。背中を丸め、膝を抱えながら、力なく肩を落とすと、薄暗い目付きで、ビラが詰まった段ボール箱を見つめた。

 道行く人々は、彼女の挙動を横目に窺いつつも、声は掛けなかった。彼ら彼女らが薄情であるのは事実だが、それにしても、彼女からは、話しかけづらい雰囲気が漂っていた。

 かく言う俺も足を止め、少し離れた位置から、遠巻きに、彼女の様子を見守ることにした。怪しまれないよう、スマホと彼女を交互に見ることにした。


「──私、今日はもう限界です……」

「──いや、まだだ! 君は、もっとできるはずだ!」


「……?」


 俺は男の声に反応して、視線を泳がせた。

 薄暗くて見えづらいが、彼女の傍らに、えらく体格の良い青年が立っていた。彼は分厚い体にジャージを着ていて、恐らくは、ジムの関係者のようだった。



「残りのビラは、あと二百枚じゃないか!」

「まだ二百枚もあるんですよぅ……」


「大丈夫さ。昨日だって、一昨日だって、最後まで配りきったじゃないか!」

「……じゃぁ、いつものアレ……また見せてくれますか?」


「ぁあ、喜んで!」

「ゃったぁ!」


 甘えるような彼女の頼みを、青年は快諾した。彼は体を温めるように小さく跳ねながら、軽く肩を回し始めた。

 何が始まるんだ……? と、俺は心配半分に見守っていた。


「じゃあいくよ~……──フロント・ダブルバイセップスっ!」


 青年は健康的な白い歯を光らせながら、両腕を高く掲げて肘を織り込むと、胸と上腕を肉々しいまでに隆起させた。あまりの膨張に、彼のジャージが破けた。俺は危うくスマホを落としかけた。


「わぁ! ……三角チョコパイが見える……!」


 彼女は目を輝かせながら、口から涎を垂らしながら、青年の踊る大胸筋を見つめながら、夢心地の表情で呟いた。


「まだまだいくよ~……──アブドミナル・アンド・サイっ!」


 青年は眩しい笑顔のまま、肩をさらに持ち上げ、腹と腿に力を込めてみせた。彼の腹筋はバキバキと音を立てるようにして盛りあがり、そのシックスパックには、深い格子状の溝が走った。下半身も同様に巨大化した。ジャージの下も散り散りに裂け、彼の真っ黒なブリーフパンツが露わになった。


「今度は板チョコだぁ……」


 彼女は、とろけかかった顔で、まどろんだ瞳で呟いた。彼女は、冬の夜に佇んでいるとは思えない、温かな空気を纏っていた。


「次は……──バック・ラットスプレッドっ!」


 青年は意気揚々と反対側を向くと、背中を左右に大きく広げ、肩甲骨を離し、両腕を抱え込むようにして折り曲げた。さながら、アークエンジェルの翼が如く鍛え上げられた背筋を、彼は見せつけた。


「その冷蔵庫には、何が入ってるんですか?」


 彼女は興味津々に聞いた。

 冷蔵庫って何だよ……と思いつつ、いったいこの奇行がいつまで続くのか、俺は最後まで見届けることにした。


「中身は……──バック・ダブルバイセップスっ!」


 彼は背面を向けたまま、両腕を高々と上げ、力強く肘を折り曲げた。背中と足の筋肉を、これでもかと強調した。


「なるほど、カニかまですね!」


 彼女は、彼の脹ら脛を見ながら叫んだ。筋状に盛りあがった足が、なるほどそう見えるのかもしれないが、俺にはやや難易度が高かった。


「まだまだあるよ~……──サイドチェストっ!」


 青年は横を向くと、胸の厚みもさることながら、肩から腕、足にかけての肉付きを、これ以上ないほどに際立たせた。


「高級メロンが見えます!」


 見えない。……が、彼のパンパンに盛りあがった三角筋は、激しく脈打つ血管に押し上げられており、それはメロンの編み目に見えなくもなかった。彼女は、鼻息荒く青年の肉体美を絶賛した。


「最後に……──もう一度、フロント・ダブルバイセップスっ!」


 青年は、再び最初のポーズを取った。洗練された彫りの深い体が、夜の闇を打ち払うかのように後光を帯びた。


「ダチョウの卵ですね! 目玉焼きにしたいです!!」


 彼女は青年を拝むように、手を合わせた。


「……」


 俺は呆れつつ、他人の視線を気にして、周囲の状況を確認した。真っ裸の男と、少女……風紀に敏感な街なら、通報案件であった。


……「よっ、筋肉王!」

……「素晴らしいよ!」

……「惚れる~~っ!」

……「もっと見せて!」

……「その筋肉、おたくのジムに行ったら手に入るのか!?」

……「今すぐに入会するわ!」


 どうやら、取り越し苦労のようだった。

 拍手喝采の群衆が、二人を取り囲んでいたのだ。


「ぁ、ぁのっ! それでしたら、このビラに器具の説明がありますので、どうぞ参考にしてください!」


 彼女は、ここぞとばかりに、ビラをばらまいた。人々はそれを手に取ると、民族大移動が如くの勢いで、ジムに向かって歩き出した。


「ぃやあ、今日もビラ配りは無事完了だね」


 裸同然の筋肉美青年は、朗らかに笑った。


「はい! これで終電前、飲み屋帰り、帰宅ラッシュを制覇です!」


 彼女は、生き生きとした笑顔で答えた。


「……」


 俺も、いっそのこと全身を魔改造して、あの青年のような肉体を手に入れれば、あの名も知れない彼女の気を引くことができるのだろうか。


「……ぃや」


 こういう発想を突き詰めないところが、俺が俺たる由縁なのだろう。色々な意味で、俺の心の天秤は、片側に深く傾いだまま、全く動く気配を見せなかった。


「帰ろ……」


 俺は暗い空に呟くと、駅の方へと向かって行った。



~終~

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ビラ配りの少女 七海けい @kk-rabi

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