最終話 再会る

 目を覚ますとお婆さんの家でいつものように寝ていた。


 ゆめ?

 いや、違う


 彼の首はなかなか千切ちぎれずに皮と肉でつながっていた。パックリ割れた首からドクドクと流れ出す血が、遺跡の地面に彫られていた溝をとろとろと流れてその場にいきわたるのを見ているうちに血の匂いで酔ってきた。身体の毛細血管のように隅々までその神殿を血の匂いで満たしていた。

 彼女は何かがおこるのを待っていたが何も起こらなかった。

 そして恭子は緊張が切れて倒れてしまった。


「浩一の嘘つき…私の珠杏じゅあんには会えなかったよ…」


 彼が生贄になって恭子に会わせようとした愛し子は結局遺跡には現れなかった。彼が死んでまで呼んだのだ、現れないはずはないと思っていたのに。




 ふとキッチンからいい匂いがただようのに気がついた。窓の外は暗い。

 覗くとお婆さんと子供を抱いた40くらいの男性がいて、御飯を食べていた。子供はくりくりとしたアーモンド形の目と真っ黒の少しくせのある髪をしており、男性とよく似ていた。親子なのだろう。


 恭子のお腹が鳴ると、お婆さんはいそいそと彼女自慢のスープ、カルド・デ・ガジーナCaldo de Gallinaを茶碗にをよそって椅子に座らせた恭子にすすめた。鶏肉のコンソメスープだ。

 温かい。身体に染み渡るのがわかる。


 この人たちは恭子が神殿で男性を殺したことを知っているはずなのに、怖がることなく料理を食べさせてくれている。警察には連絡しないのだろうか?それとも情けをかけて、これを食べ終えたら連絡するのだろうか。

 そんなことをぼんやり考えながらスープを口に運んだ。


『ママ』と誰かが恭子を呼ぶので見ると、子供は3歳くらいだろうか、恭子のヒザにぴょんと乗り移って御飯を食べ始めた。


「男の子…」


 お婆さんは、子供を指差して、「juanフアン」と言った。フアン君…


 男性はお婆さんの息子で、クスコで先生をしているそうだ。穏やかそうな性格の彼は英語が話せた。

 彼の妻は恭子がここで働きだした日に倒れ、先日亡くなっていた。

 だから、お婆さんは恭子に店番をいきなり任せてクスコに子供の面倒を見に行っていたということだった。


 男性がフアンを持ち上げようとしたが子供は恭子にくっついてどうしても離れようとはしなかった。

『ママ』と彼が鼻にかかる声で言うたびに、恭子の中身が温かいもので詰まっていくのを感じる。いつの間にか恭子もフアンをぎゅうっと抱きしめて泣いていた。


 珠杏じゅあんが私を残して死んだ時に涙など枯れ果てたと思っていたのに




 フアンが恭子に会いに毎日マチュピチュ村まで来たがるので、とうとうお婆さんとフアンと恭子と3人で村に住むようになった。何年かすると、いつの間にか本物のママになっていた。名前も、フアンの母親のLuzルスを引き継いだ。

 恭子が無心でフアンを可愛がっていることは周知の事実だった。


 フアンといられるようになって恭子は生きていたいと思うようになった。そしてなぜか、余命3か月と言われた彼女の身体からはガンが見つからなかった。


 浩一が全部私の悪いものを持って行った、と彼女は確信していた。

 彼は彼女に温かいものを与えようと真摯に願っていたから。


 浩一の遺体は村の男性たちが無縁墓地に丁寧に埋葬してくれた。




「あなたのおかげで大事なものにまた会えた…本当にありがとう」


 毎日夕方になると、彼女はマチュピチュ遺跡の神殿に浩一の為の花を一輪捧げた。それは彼女が63歳で死ぬまで続いた。


 彼女が亡くなってからは、フアンが花を捧げるようになった。そしてきっと彼の子供も捧げるようになるだろう。


 そのようにして遺跡の神殿の生贄の石の上には、今でも新鮮な花が一輪置かれている。

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記憶のない女 海野ぴゅう @monmorancy

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