【書籍化】はじまりを告げる音

青桐美幸

第1話

(……あれ?)

 コンビニのドアの前で立ち止まった。

 中に入る前に傘立てに入れたはずのビニール傘がなくなっていた。

 先ほどは、自分の傘と骨の曲がりかかったビニール傘と二本立てかけられていたはずだが、用事を済ませて出てきた今は壊れかけたそれしか残されていなかった。

 同じビニール傘の持ち主が間違えて持っていってしまったか、壊れかけの傘を捨てて代わりに持ち去っていったか、はたまた傘を持っていなかった人間がひどい降りになってきた雨を見て咄嗟に使おうと思ったか。

 いずれにしろ、間違えて持っていってしまった場合を除けば全て窃盗に値する。

 ただ、盗んだ物はといえば百均で購入した何の変哲もないビニール傘だ。柄に名前を書いているわけでもなく、壊れたらまた同じものを買い直せばいいと思える程度の代物にいちいち腹を立てるのも馬鹿らしい。

 そうはいっても複雑な気分はするわけで、多少の喪失感と嫌悪感が体内を駆け巡った。

 せめて確信的に持っていったわけではなければいいなと思った。

(それにしても……)

 止む気配どころか徐々に強まってきている雨足を横目にため息をつく。

 さすがにこの状況で出ていくのは遠慮したい。目的地まで大した距離ではないとはいえ、自分が濡れるのも荷物が濡れるのも避けたいところだ。

 やはり新しいビニール傘を買うしかないか、と再び店の中に入ろうとした時だった。


「あの、よかったら私の傘に入りませんか?」


 声をかけられただろうかと振り返ると、同じようにコンビニから出てきたばかりの女性が佇んでいた。

 淡いブルーのブラウスに白黒チェックのスカート、右肩にバッグをかけて小首を傾げている。何より右手にはしっかりと傘が握られていた。

「ええと……、申し訳ないですし」

 買い直すから大丈夫です、と続けようとして、なぜいきなり話しかけてきたのだろうとふと疑問に思った。

 そんなに困っているように見えただろうか。傘立てを前にため息をついていたところを見られていたのだとしたら少々かっこ悪い。

 戸惑っている自分を知ってか知らずか、女性は親しみやすい笑みを浮かべたまま言葉を重ねた。

「どちらまで行かれますか?」

「あ……っと、通りの向こうの駅まで」

「私も駅まで行くんです。お嫌じゃなければ、ご一緒してもらえますか?」

 その言い方はずるい。けれど嫌味には感じない。

「……それでは、お言葉に甘えて」

 了承の意を伝えると、彼女は嬉しそうに瞳を輝かせた。


 自分の方が背が高いので持ちますよ、と傘を指差すと、ありがとうございますと素直に預けてくれた。

 女性用のサイズの傘に二人で入るとどうしてもおさまりきらないので、できるだけ彼女の方に傾けて歩く。

 歩幅を合わせるようにすれば自然とゆっくりとしたペースになり、普段よりはっきりと過ぎていく景色を捉えることができた。

「傘、なくなってしまったんですか?」

「ええ。コンビニで買い物をしてた数分の間に。ただのビニール傘だったからそれほど気にしてないんですけどね」

「ビニール傘なら結構あることですよね。自分の物がどれなのかわからなくなってしまったり」

 好意的に解釈してくれたが、おそらくわざと持ち去られた可能性が高いと推測していることだろう。

 思い出すとまた少し気分が沈みそうで、親切な女性と知り合うきっかけになったと前向きに考えることにした。

「他に傘はお持ちじゃないんですか?」

 彼女がこちらを見上げる度に、鎖骨辺りで切り揃えられた髪がさらさらと零れ落ちるのが目の端に映った。

 雨の匂いに混じってシャンプーの仄かな香りが漂った。

「それが持ってないんです。ちゃんとした物を選ぶのが面倒で、いつも手軽なビニール傘を買ってしまって」

「では、これは良い機会かもしれませんね」

「と言うと?」

「一度じっくり自分の傘を選んでみなさいというお告げなのかもしれないな、と」

 まじまじと彼女を見つめると、双眸の奥に悪戯っぽい光が宿っていた。

 素早く変化した表情が意外で、思わずふっと吐息が漏れた。

「それもいいかもしれないですね。今度百貨店にでも行ってみます」

「お気に入りの物が見つかれば、雨の日に外出するのもなかなか楽しいですよ」

 明るい口調で話す様子から、きっと彼女は今日のような日にこうして外を歩いていることも苦ではないのだろうと思った。

 そのお供として今差しているこの傘を大事にしているのだろうということも。

 白地に青い蔦を絡ませたような紋様を描くデザインのそれが、雨の滴を弾いてより一層鮮明に見えた。


「それでは、私はここで」

 駅に着き、軽く水滴を払って閉じた傘を返すと、別の路線の電車に乗るという彼女と改めて向かい合った。

「本当にありがとうございました。おかげで助かりました」

「お役に立てたのならよかったです」

「傘、なるべく早く買うようにします。ちゃんと選んで」

 その一言に驚いたように目を見開き、次いでふわりと笑った。

「素敵な物と出会えますように」

 丁寧にお辞儀をして去っていく彼女の背中を、角の向こう側に消えるまで見送った。

 姿が見えなくなってから、もう二度と会うことはないだろうという事実を少し残念に思った。



 本格的に梅雨入りし、澄みきった空を眺める日の方が少なくなっていた午後。

 この日も朝から雨が降り続け、出かける時間になっても弱まる気配がなかった。

 家から目的地に直行したかったものの、借りていた資料をコピーするために途中コンビニへ寄った。

 入り口でビニール袋を取って傘をしまい、以前の失敗を踏まえて面倒がらずに店内に持って入る。

 コピー機を使う時間とちょっとした買い物をする時間を足しても十分にも満たない。それでも、傘を出し入れする作業や中でも携帯することに不自由を感じなかった。

 些細なきっかけで自分でも驚くほど意識が変わることに苦笑する。そんなに柔軟な思考を持つ人間ではないはずなのにと。

 結局ものの数分で全てを済ませ、先ほどビニール袋に入れたばかりの傘を取り出した。

 その時、不意に視線の先の軒下に佇む女性の姿が飛び込んできた。

 手元にある、不自然な方向に曲がった傘と、しとしとと降りしきる雨とを交互に見てため息をつく。

 ――白地に蔦が絡まった紋様。

 その傘のデザインに見覚えがあることに思い至った瞬間、言葉は自然と口をついて出た。


「あの、よかったら俺の傘に入りませんか?」


 振り向いた彼女の顔が明るい笑みに変わるのはすぐのことだった。

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