3-4


 資材置き場でぶっ倒されてから二週間は経ったのだろうか。

今朝もタケさんの訪問後から体力回復作業として徐々に始めた来るべき時に備えたランニングに出ている。

複視に関してはある治療のお陰で消失したようだ。

五円玉を自分の目の前に吊り下げて顔を動かさずに目だけを左右に動かす眼球運動の練習方法を医者に教わり、日々地道に努力した結果なのだろう。

全身の痛みはほぼ消えつつある。

現時点で腕立て伏せや腹筋、背筋を少しづつ鍛えられるまでになった。

ある信念をもって細胞に働きかけるとこうも顕著に顕れるモノなのか。

自然治癒力恐るべし。

今日まで怒りに飲まれず早まった行動に走らず冷静に粛々と過ごせているのは、確実且つ徹底的に奴を潰さなくてはいけない使命を己に科したからだ。

圧倒的に凌駕し、完膚無きまでに叩きのめし、最悪消し去るまでもいとわない。

たとえそれが誰一人として望む結末ではなかったとしても、今回ばかりは自身が相手に劣る訳にはいかない。


「お兄ちゃん」

散歩に近くなっていた足取りで通り掛かった駅前の比較的に長くはない商店街を抜けた交差点で、向かいから横断歩道を渡ってきた弁当屋のオバサンに呼び止められた。

寸前まで気付かなかった。

その格好がいつもの割烹着ではなく薄緑のジョギングウェアだったから。

「どうも」

名前は……名札に何て書いてあったっけ……あ、『榊原』だ。

「最近ウチに来てないじゃないと思ったら、その顔のせいね」

「えぇ、まぁ」

腫れは既に引いていたが顔面の所々に傷跡が残っていたのを指摘され、恥ずかし気に返答するしかなかった俺の言葉を聞いたオバサンは、ケタケタと笑いながら二の腕を叩いてきた。

「嘘ウソ、知ってたわよ。ケンカでしょ」

誰が喋ったんだ?奥様方の情報網も侮れない。

その奥様(既婚者かどうかまでは知らないが)は、頭から爪先まで視線を二往復させ「良くなったのね」と又叩いた。

こうして街中で遭遇したのだからそりゃそうだろう。

すり抜けて行く人の眼差しでお互い歩道の真ん中で立ち止まっていた事に気付き、通行の妨げにならぬよう道端に移動した。

「それにしても朝早くから歩いてるなんて、何処かに用事でもあるの?」

そうか、クリーム色の開襟シャツにグレーのダボダボカーゴパンツ、踵を踏み潰した紺のブラバスチョン靴姿ではどう見てもランニング中とは思えないか。

「体がなまってるから運動っす」

そう答えると榊原さんは「頑張って」と俺の腰骨辺りを小突く。

この年代の女性は何故平気で人を叩けるのだろうか。

その後、少し小声になって手招きの様に一回手首を振った。

「あ、そう、朝って言えばね……」

すり寄ってきたオバサンが更に声を落として話を進める。

「お兄ちゃんがケンカした朝に日課のジョギングで資材置き場の前を通りかかったら穴井さんが扉の隙間から中を覗いていたのよ」

(?)

「それで、距離は離れてたんだけど私の視線に気付いた途端、慌てた様子で『何やってるんだ』って叫んで中に入って行ったの」

(??)

「気になったから暫く遠目から眺めたのよ。そしたら敷地から出て来た穴井さんと目が合ったのね。その時何だかバツが悪そうな顔してたわ」

(ん?ん?ん?シノさんが居た?やっぱりあの日も定時に来てたって事だな。

外から覗いてた?直ぐに入って来なかった理由は何でなんだ)

「その時にやられちゃったのね」

はい、ガッツリやられました。

気持ち顔を曇らせた榊原さんは、まだ話を続けるべく「それとね」と切り出す。

「過去にあそこで人が亡くなっているの。鉄パイプが落下して下敷きになっちゃたみたいでね」

初耳だ。

「それは頭部に集中していて顔面が異様な潰れ方をしていたって聞いたのよ」

惨い。

「その時シノさんが置き場に居たもんだから『事故じゃなくてあの人が……』なんて噂が広まっちゃってねぇ」

これが原因で会社の悪評が浸透してたのか。

ていうか、あの人に対しての噂か。

「でも、お兄ちゃんは大事には至らなかったみたいで安心した」

危ない叩かれる、と思ったら今度は片腕全体を擦られた。

入院騒ぎになんなかった点では大事に至ってないか。

それにしてもお年を召した女の人ってのは噂話や長話がお好きなこと。

急にピクッっと動いたオバサンは腕時計に目をやり、

「じゃあね、またお店で」

とキャバクラ嬢でもあるまいし、な言葉を屈託のない笑みで言い放って軽快なフットワークで商店街に突っ込んで行った。


 残された自分はその場に留まって沈思黙考する。


どうしても腑に落ちない。

覗く、という行為のまま積極的に動かなかったのは何故だ。

徒党を組んだヤンキー共に怖じ気づいたのか。

自分に被害が及んだらヤバいと考えたのなら警察や会社の人間を呼べば済む事。

いつになく腰痛に悩まされていたのか。

仮に体調が万全でなかったとしても建築に携わる者なら、そこいらのガキに怯む程の腕っぷしではない。

現にあの時怒鳴って飛び込んで来たし、何時だったか酔っぱらった数人に絡まれた夜に間を割って制したのはあの人だった。

勝手に資材置き場に入っていた人物が分からなかったからなのか。

いや、車は出払っていたから敷地内は見通せた筈、違う。

もしや、中で騒ぎを起こしていた事に腹を立て、そいつが痛めつけられるのを楽しんでいたとか……

様々な事情を勘案してみるが理解しかねるシノさんの行動。

やはり腑に落ちない。


ちっともこれといったモノに辿り着かなかったが、隣の住人に不信感を抱いたまま歩行者信号の『通りゃんせ』が流れる交差点を離れた。

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