ねこというもの

 あのねこと暮らすようになってから、すでに一週間が経とうとしていた。便宜上、ねこと心の中では呼んでいるのだが、そろそろ名前を教えてもらった方がいいかもしれない。呼ぶときにとても不便だ。ねこも私のことを、『こども』と呼ぶので、呼び方なんてどうでもいいと思っているのかもしれないが。

 どこにいてもいいというのは、新鮮でひどく面倒なことだった。ねこはどこにでもいて、それを認識しているだけでいいので、実質私はどこにいてもいいらしい。ぐるぐると屋敷の中を歩き回ったりとかした。ただこの屋敷は、広いけれど、何も物が存在していないので、空っぽの箱を見ているようでむなしくて、すぐに歩き回るのをやめた。

 ねこはどこにでもいます。ねこに連れてこられてからというもの、いやあの海の中にいたときから、かもしれないが、それからというもの、私から欲求というものがなくなったような気がした。食べることも、排泄することも、誰かと触れたいという欲も、前はあったはずなのに、今はする必要がないと思ってしていない。今、しているのは寝ることとねこを認識することだけ。きっと、もう、人間じゃなくなっているんだろう。私は、何になったのだろうか。まだわからない。

 わかる必要はない。



 ねこがいる。大きく伸びをして、にゅうっと私の肩の上に乗った。そうして、ひとことつぶやく。

『はらがへったなあ』

 ねこには欲求があるらしかった。私なんかよりもずっと人間らしい。

『こども、思い出せ』

 何を、と言う前に、目の前が真っ暗になって―――忘れかけていた記憶がよみがえる。昔の記憶、最近の記憶、家族の記憶。いつも甘やかしてくれる母親に、厳しくも優しかった父親。そこから移り変わっていく両親の姿。全部、思い出した。

『食事の時間だ』

 ねこはゆっくりと赤い口を開いて、笑う。その姿はいやに目につく。


 コンコン、とガラスの戸を叩く音がして、ガラガラと戸が開かれる音がする。ふらふらと玄関まで歩いて行くと、懐かしい顔がそこにはあった。一週間くらいしか経っていないというのに、それはとても懐かしいものに見える。

「帰りましょう」

 それは、手を私に差し出してそう言う。欲しかった言葉をくれる目の前の生き物がわからない。これは本当に懐かしいものだろうか。これは、一週間前に別れたはずのものなのだろうか?涙を流して、優しい言葉を投げる、この生き物は。

「はやく」

 差し出された手を握ってしまっていいのだろうか。これは本当に?そんな疑問ばかりが頭を支配して、手は力なくぶら下げられたままだ。あげる気力さえ起きない。

『こども』

 ねこがいた。

 ねこは楽しそうに、私が失ってしまった欲を取り込んでしまったかのように、実に楽しそうに笑う。食事だ、と笑う。

『うまそうだ。 こども、実にいいものを持ってきてくれたな』

 絹を切り裂くような悲鳴があがる。ねこの瞳のような色が、辺りに散らばる。無数の粒となって。ごとり、と重たいものがそこに転がる。転がったはずだったが、転がっていなかった。

「どこ?」

『はらのなかだよ』

 ねこが笑って言った。

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