自分を切り裂くという適応方法

和泉茉樹

自分を切り裂くという適応方法

     ◆


 八月三十一日付、ワールド・スクープ紙。

 ドイツ国内の複数の病院にて、秘密裏に脳に対する外科手術を実施した事例が発覚。

 五十年前から行われており、被害者の数、実態は今後、ドイツ政府の調査委員会とヨーロッパ同盟の特別委員による調査に委ねられる。


     ◆


 私、ユーリ・フリーマンが精神異常者と認定されてから、どれほどが過ぎただろう。

 眠れなくなり、幻聴が聞こえた。視界から色が消え失せ、わめき声が頭の中で鳴り響き、何かに急かされるように、暴力衝動が私を突き上げ、四肢を暴れさせた。

 病院に収容されたのは、二十歳をいくらか過ぎた時で、まるで独房のような部屋で、四肢を拘束されて、寝台に寝かされた。最初こそ、私は激しく抵抗したが、それが無意味だといくらもたたずに発見した。

 医者も看護師も、私が暴れているうちには、決して拘束を解くことはない。

 拘束を解かせるためには、私が平常に戻った、と彼らを騙すよりない。

 しかしそれも骨が折れることだった。

 科学技術の進歩は恐ろしいもので、人間の脳のどの部位が何を司るのか、そして今、脳がどのように機能しているのか、大型とはいえ装置を使えば分かってしまうのが、現実だった。

 私が暴れなくとも、心の中は医者には筒抜けである。

 それでも週に一度、医者は私が閉じ込められている病室へ、警備員を連れてやってくる。その警備員はジュードーだかアイキドーだかをやっているような、屈強な男で、手には昔ながらの武器、トンファーを持っている。

 ドクターは、私と机を挟んで向かい合うように座り、話し始める。

「フリーマンさん、何かお話ししたいことはありますか?」

 大抵はこんな切り出しで始まるが、私には話せることなどほとんどない。食事の味がしない、という事実や、外が見たい、という願望を繰り返すだけだ。ドクターは、頷いて聞いているが、最後には「脳ソナーの結果は変わりません」と言う。

 脳ソナー、というのが、脳の活動をリアルタイムで調べ上げる装置の俗称だった。

 私は週に一度、それを受けているが、ヘルメットを着け、巨大な筒の中に入ると、奇妙な重低音が連続して響き、それが途絶えると、検査が終わる、という代物だった。とりあえず、それで体調に異常が出ることはない。

「何度もお話ししていますが、これは提案です」

 いつからか、もう見慣れた様子で、ドクターが話し始める。

「脳を切ってみればどうか、と思うのですが、いかがですか?」

 はっきりと言わないが、私も噂で知っている。新ロボトミーと呼ばれている手法で、最新技術を使った装置でその手術ができるのだ。

 脳ソナーと連携する電磁メスという装置が、脳の一部を超精密に焼き切ることを可能とする、らしい。

 決して後遺症がなく、また半日でできる、という触れ込みだった。

 ただ、まだ実験段階らしい。

 私はこれまでのように、その時もこの提案を退けた。

 ドクターが部屋を出て行く。部屋には私一人になる。

 静かだった。

 そこへ、天井のスピーカーからブツリという、音が出る予兆の音がした。

 スピーカーに雑音が乗り、続いて、言葉が流れ始める。

「生きていることに感謝しましょう、生かされていることに感謝しましょう、社会に感謝しましょう。社会に関与し、身を捧げましょう」

 私はその言葉を寝台に腰掛けて、じっと天井を見上げて聞いている。

「あなたの努力で社会が変わります。あなたには善をなす力がある。あなたが変われば社会がより良くなるのです。あなたの感性を社会に活かすのです」

 全く空々しい言葉だった。私はまだじっと天井を見ている。

 スピーカーは十分ほど、ひたすら聞いている人間の尊厳を讃え、社会貢献の必要性を説き、不意に途絶えた。

 私はこれを聞くと、より一層、激しい怒りが渦巻くのを感じる。

 私の価値は私が決める、私の可能性は私が掴み取る。

 社会なんて関係ない。社会は私を爪弾きにした。

 社会は私を抹殺したのだ。

 激しい怒りが私の中心からふきあがり、衝動的に寝台を殴りつけていた。マットレスが鈍い音を立てる。治りきらない私の怒りが私を駆動させ、拳は壁を殴りつけ、足は戸棚を蹴りつけた。

 スピーカーからサイレンが鳴り、すぐに看護師がやってくる。この看護師は看護師というより看守である。

 私は組み伏せられ、一人の看護師が接触注射器を私の首筋に押し付ける。

 何の音もしない、反応もないのに、何かが私の首筋に浸透していくのがわかる。背骨に沿って氷の針が滑り落ちていくような感覚があり、思わず喘ぐ。喘いだ瞬間、全身から力が抜けてしまう。

 気づくと寝台に寝かされ、何本ものベルトが私を締め付けている。

 だが、それをどうこうするという気持ちにはならない。

 怒りどころか、全ての衝動、活力のようなものが奪われていた。心に不自然な空白があり、まるでそこに意志のようなものが吸い込まれていくような具合だ。

 首をひねり、天井の隅にある小さな半球を見る。その中にあるカメラが、四六時中、私を監視し、同時に心拍数、血圧などもリアルタイムで取得する。

 そして私の首筋に埋め込まれている、パラサイトとも呼ばれる、有機端子が私の精神状態すらも簡易的に取得している。

 つまり私が、あの放送に対して敵意を爆発させたことは、病院側に筒抜けで、ドクターも知るところとなる。

 視線を天井に戻し、目を閉じた。

 そのうちに消灯時間になり、明かりが消える。窓がないので、真っ暗闇だ。

 その暗闇こそ、私には心地いい。

 眠れないまま瞼を閉じているうちに、ドアが開く気配がした。ゆっくりと、看護師がやってくるのだ。

「フリーマンさん、眠れませんね? お薬を処方します」

 断ることもできるが、それも面倒だ。

 反応せずに眠ったふりをしていると、またも首筋に接触注射器が当てられる。

 じわり、と首筋から今度は頭にしびれが広がっていく。

 酩酊したような状態になり、三半規管が混乱を始め、寝ている状態にも関わらず、グラグラと体が揺れる。地震かと思うが、違う。まるでベッドが四十五度くらいに傾いているような錯覚。

 やがて体が夢の中に飛び込み、寝台が私を拘束したまま、深海へと沈没する。

 息ができない。もがきたいのに、もがけない。

 が、急に空気の方から私の中に入ってきて、突然に呼吸が強制的に再開される。

 ハッとして目をさますと、そこに屈強な看護師がいる。手には接触注射器がある。

「おはようございます、フリーマンさん。具合はいかがですか?」

 私は呼吸を繰り返しつつ、どうにか笑みを返す。

「ええ、すっきりしました。爽快です」

 パラサイトの監視を考えないように意識して、堂々と私は嘘をついた。

 体調はどん底だった。今も冷や汗なのか脂汗なのか、発汗が続いている。顔も火照っていた。呼吸も荒い。

 看護師が手元の接触注射器を調整し、小さなカプセルをそこに押し込んでいる。二度、三度と注射器が振られる。その間に看護師は片手の手首にあるマルチウォッチで何かを見ている。

「どうやら数値上では具合が悪そうですね。お薬を注射しますね」

「ええ」

 もう作り物の言葉で答えるのも億劫なほどの疲労が私を押し包んでいる。

「ほんの十分で良くなりますからね」

 接触注射器が首筋に触れ、かすかにひりつく感触。

 呼吸が静まり、汗も止まった。奇妙な静けさがやってきて、私は完全に調律された人間に生まれ変わった。

 どれくらいしたか、先ほどとは違う看護師が朝食の乗ったワゴンとともに部屋にやってくる。その手が私を寝台に固定するベルトの金具を、小さなチップを当てて開錠した。

「ごゆっくり」

 ベルトが外され、私は起き上がり、目の前にある朝食を眺めた。

 スプーンを手に取り、何かのスープを口に運ぶ。

 味はしなかった。


     ◆


「あなたの可能性を社会は待ち望んでいます。新しい社会があなたの前にはあり、その社会では大勢の人々が幸福に暮らせるのです。あなたの価値を発揮しましょう。社会があなたの一部であり、あなたは社会の一部なのです」

 私はやはりじっと天井を見ていた。

 ドクターがやってくる。警備員がわずかな身じろぎをして、その背後に控える。

「フリーマンさん、電気治療はいかがですか?」

「ええ、そうですね」

 私はぼんやりと答えた。ドクターが部屋に入ってくる前、スピーカーががなり立てる前に、私は注射で薬物を投与されていた。それが私を無気力状態にさせ、抵抗する力を奪っていた。

「電気治療ですか……」

 自分でも不自然に思うほど、言葉が出てこない。失語症を疑似体験しながら、それでも私は心の中を漁り、探り、見渡した。しかし言葉は、見つからなかった。

 結局、電気は私の体を痺れさせただけだった。

 毎日が繰り返し繰り返し、やってくる。ドクターはもう電気治療を私には勧めない。代わりに薬物が常に私を麻痺させ、判断力、ひいては意志を激しく奪っていく。

 私も長い時間をかけて、事実に気づいた。

 この場所は、私を破壊することをまず念頭に置いている。

 私という精神異常者はおそらく物理的な変質を身に抱えているらしい。

 その変質を乗り越えるため、克服するために、私はまず私を捨てることを強制されている。

 薬物も他の治療も、私の肉体という歪んだ器からこぼれている私の精神を、必要な量を残して捨ててしまうことが目的なのだ。

 では、私という精神から切り捨てられた部位、必要とされなかった部分が、私という個体にとって重要な要素なら、どうなるのか。

 私の精神は良いように破壊され、切り崩され、切り取られ、どこかへ捨てられる。

 残った精神は、果たして私と呼べるのか。

 寝台に腰掛けて、私はその時も天井のスピーカーを見ていた。

「あなたの才能は社会でこそ生きるのです。あなたの努力を決して社会は無下にはしません。正当なる評価、正当なる報酬が、あなたをより素晴らしい生活へと導き、精神的安寧と幸福感がやってくるのです」

 私はゆっくりと手を振りかぶった。

 振りかぶり、それきりだった。

 思わず私は自分の手を見た。振り上げられた拳。どこか、力のない拳。

 どれだけ見ても、力はそこに蘇らない。

 私の意志は、宿らなかった。

 ゆっくりと握り締められていた五本の指が解け、そっと寝台に戻る。

 スピーカーはまだ話し続けている。

「高揚と活力に満ちた、豊かな生活。穏やかな隣人と家族。美しい街並み、鮮やかな自然の中にある、あなたのための、あなただけの居場所。社会は常にあなたを歓迎します」

 社会。社会。社会。

 私を捨てたそれに対する怒りが、激しく渦巻く。何かが私の頭の中で切れる。

 そう、切れたのだ。

 切れて、途切れ、力を失う。

 怒りが私の中で唐突に失われ、輪郭は一瞬で消えて霧散していく。

 何だ? 何が起きたのだ?

 あまりの出来事に、私は思わず自分の頭に触れていた。

 ここに入った時から、髪の毛は短く刈られている。少し伸びている髪の毛に触れ、頭皮に触れるが、何もおかしくはない。

 立ち上がり、部屋の隅、壁にある鏡を見る。自分の頭をじっくりと観察する。

 何もおかしなところはない。

 いつの間にかスピーカーは黙っていて、もう雑音も流れない。

 どこかで誰かが泣いている。感情までうかがい知れない。

 ドアがノックされ、看護師がやってくる。昼食なのだ。

「どうかされましたか?」

 鏡の前に立ち尽くす私に、看護師が不思議そうな視線を向ける。

 いや、とか、ああ、とか、口の中でモゴモゴ言いつつ、私は寝台に戻った。ワゴンが反重力装置で宙を浮いて、こちらへ押されてくる。

「先にお薬を注射しますね」

 看護師が接触注射器の支度を始める。

「何の薬ですか、それは」

 ちらりと看護師がこちらを見て、手を止めたかと思うと、部屋に備え付けのタブレットを手にして、それを操作した。

 指が画面をなぞり、端末がこちらに差し出される。

「ここに書いてあるドクターの処方に基づいています」画面が指のひと撫でで切り替わる。「処方している薬物の成分はこちらです。効能の一覧も、副作用の注意もこちらに」

 看護師が注射器の支度を再開し、私はタブレットをじっと見た。

 全く頭に入ってこない。私は一体、何を体に打たれているのだろう?

 効能を眺める。全く理解できなかった。心に作用するようなことが列挙されているが、物理的な薬物が、観念的な精神にどう作用するのか。

 私という器を変えるということか。

 唐突に衝動が蘇った。

 看護師に飛びかかり、注射器をその手からもぎ取る。看護師が悲鳴をあげる。

 私は床に注射器を叩きつけた。鈍い音を立てて注射器は床から跳ね返って視界から消えた。

 強烈な衝撃。

 いつの間に部屋に入ってきたのか、別の看護師が私に組み付き、押し倒していた。

 暴れる私はあっさりと組み伏せられ、別の看護師が首筋に接触注射器を押し当てようとする。激しく頭を振り、首をひねり、回避しようとする。

 ぐっと後頭部を押さえられ、床に押し付けられた状態で、注射器が首筋に当てられた。

 凍る寸前の液体が全身に流れていく。

「別の部位も切らなくちゃね」

 脱力した私は、床にうつ伏せに寝たまま、看護師の会話を聞いていた。

「薬だけじゃこのポンコツはどうしようもないわ」

「いきなり襲い掛かるなんて。ドクターに苦情を言わなくちゃ」

 私はまるで人形のように抱え上げられ、寝台に乗せられた。てきぱきとベルトが私を拘束する。薬は私の意志を完全に消し去り、もはや指一本も動かせないのに、彼らはきっちりと仕事をした。

 二人が去ってから、私はぼんやりとした意識のまま、天井を眺めていた。

 どれくらいが過ぎたのか、スピーカーが音を発する。かすかな雑音の後に、例の声が話し始める。

「社会はあなたを待ち望んでいます。あなたの手助けを、能力を、行動を必要としているのです。それはあなたがあなたらしく生きるということ。あなたは社会の中でこそより一層、輝き、生き生きと生活することができるのです」

 私はじっとスピーカーを眺める。

 私が社会に戻れるわけがない。私はここで無様に、何もできずに天井を見据えるしか、できないのだ。

 私という不完全な器と、そこからさらにはみ出す歪な精神は、社会に居場所を持たない。

 私は器を削って成型し直し、精神を切り取って自己を失うしかないのか。

 瞼を閉じても、スピーカーは喋っていた。

「光の中で生きてみませんか。それはとても素晴らしいこと、真の幸福なのです。調和の取れた、助け合い、補い合う、平穏な場所。それこそが私たちの社会なのです」


     ◆


「そうですか、フリーマンさん。決断なさいましたね」

 私の前でドクターが微笑む。

 私は新ロボトミーを受けることを決断した。同意書を書くように言われたが、もちろん電子書類で、私は指でなぞって自分の名前をそこに署名した。

 手術はその日に行われ、事前に脳ソナーが私の頭を徹底的に調べ上げ、あとは機械の微調整だけになる。施術自体は全自動で行われる。

 手術室で、巨大なヘルメットを被って席に座ってからの微調整が、やけに長く感じた。

 看護師が私の左の鎖骨のあたりに接触注射器のやや大きいもので麻酔薬を打ち込み、私は眠った。

 なぜか幼い頃の記憶が蘇った。犬を飼っていたのだ、今時珍しい、血統書付きの純潔の犬だったけど、思えば遺伝子操作犬だったのだ。

 目の前で、その小型犬が私が幼い頃を過ごした庭で飛び跳ね、吠えているのが、驚くほど鮮明に見えた。吠えている声が頭に響き、それは記憶とピタリと一致する。

 だがどうしてだろう、名前が思い出せない。

 背後で何か、音がした。

 振り返ると、小学校の時の親友が、右手にグローブをはめ、ちょうどそこからゴムボールを掴みだす。左手が振りかぶり、こちらにボールが来る。

 私の左手にはいつの間にかグローブがあり、反射的にボールを受け止めた。

 相手が何か叫ぶ。すぐそこにいるはずなのに、声が聞こえない。

 途端に、相手の顔から、顔の部品が全て消えた。

 のっぺらぼうのその顔が、何か叫んでいる。声の気配はあっても声がしないのは、口がないからか。

 彼の名前も、やはり思い出せなかった。

 私はただ立ち尽くす。

 誰かが怒鳴りつけてきた。振り返る。

 両親がそこに立っている。身ぶりを交えて、私を怒鳴りつけている。傷つけることだけが目的としか思えない言葉遣い。攻撃的な口調。今にも殴られそうだった。殴られたことなんて何度もある。私はその度に痛みに耐え、誰にもそのことを口にしなかった。

 この世界で、なぜか両親の顔だけが、鮮明に見えた。

 そしてそれは、はっきり言って恐怖だった。

 だが、急に記憶に光が差したかと思うと、両親の顔にその光がぶつかる。 

 両親は顔を背けないのに、私は反射的に目をかばった。

 光は一瞬で消えたが、同時に消え去ったものがある。

 両親の顔が、消えていた。声も気配だけで、はっきりとは聞こえない。

 助かった。これでもう、嫌な思いをせずに済む。

「フリーマンさん」

 突然の鮮明な声に、私は目を見開いた。

 いや、見開こうとした。だが瞼が持ち上がらない。誰かが私の手に触れた。

「フリーマンさん、今は、麻酔の影響で体が動かないと思いますが、これから解毒剤を打ちます。もし具合が悪いようでしたら、すぐに言ってくださいね」

 頷くこともできない。どうやら私は力なく、背もたれの倒された椅子に伸びているようだ。

 首筋に接触注射器が触れる感触があり、そこがカッと熱を持った。その熱が全身に広がり、不意に自分が浅くしか呼吸をしていないことが理解できた。

 息を吸い込む。できた。吐く。できた。

 繰り返しているうちに意識が鮮明になり、瞼を持ち上げた。

 病院の手術室だ。看護師がこちらの顔を覗き込んでくる。

「具合はいかがですか? フリーマンさん」

「具合……」

 もったりと口が動き、言葉が出た。自分の声とは思えないほど、くぐもっている。

「少し、疲れました」

 看護師がにっこりと、どこか作り物のように笑みを浮かべる。

「車椅子を持ってきますね。病室でゆっくり休んでください。何かあったら、このスイッチを押してください」

 手の中に入りそうなほどの小さな装置を渡された。ボタンが一つあるだけで、看護師を呼ぶボタンだろう。

 右手の中でその装置を握ったり力を緩めたりしながら、私はさっきまで見ていた夢を思い出そうとした。

 肝心なことが、重大なことがあったはずだ。

 でもそれが全く思い出せない。この記憶の不正確さ、曖昧さは、夢を見ていた朝の、目覚めた後に非常に似ている。

 私は夢を見ていて、夢は私の精神とは全く関係ないのか。

 私が受けた手術とは、何の関連もないのだろうか。

 看護師が浮遊式の車椅子を押してやってくる。

「あの」私は思いきって訊ねた。「ちょっといいですか?」

 何でしょう、と看護師が首を傾げる。

「記憶が曖昧というか、思い出せないことがあるんです。いえ、その、思い出せないことを思い出せないというか……」

「新ロボトミーではよくあることですから、心配はいりません」

 私はやっとヘルメットを外され、ぐっと体を抱えられて車椅子に移った。

 もう一度、手術のための装置を見たが、無機的で機能的なその筐体には、どこか不気味なものを感じた。

 私は病室に移り、拘束されることもなく、横になっていた。

 雑音の後、天井のスピーカーが喋り始める。

「やりがいのある仕事と、充実した休暇。美味しい食事と、おしゃれな服装、快適な住居。全てが社会によって保障されています。社会は万人に向けて解放され、誰でも望めばその中で生きていくことができるのです。不自由のない生活と、力強い安心感。あなたもその中へ入れるのです」

 私は目を閉じ、思い出そうとした。

 手術の後の夢ではなく、私が弾き出された、私の感覚でいえば、私を弾き出した社会というものをだ。

 もう何年、十何年、もしくは何十年と接していない社会というもの。

 全ての人間が、規律正しく日々を過ごし、等しく幸福を享受する場所。

 私はそこに入れなかった。

 今からでも入れるのだろうか。

 こんな私が?

 私に不足しているものは何か。そう考えると、実は不足していないのではないか、と思えた。

 私に必要なのは、余計なものを切り捨てること。型にはまるように、余った部分をなくすことなのではないか。

 それを最も単純に可能にするのが、新ロボトミーだろう。

 手術の間の記憶は全くない。しかし、何かが失われ、それにより私は安堵したという感覚は残っている。

 このまま脳を切り続ければ、私はいずれ、社会に復帰できるのではないか。

 残ったものが私と呼べるのかは、わからない。

 ただ、どんな人間でもどこかで妥協し、自分の一部を殺すだろう。私はその殺すという行為を、手術に委ねるだけだ。

 大小の問題はあれ、他の人間と同じ立場になる。

 妥協。もしくは、適応。順応と言ってもいい。

 私にもその手段があるのだ。

 寝台に横になりながら、何かワクワクしている自分を、私は意識した。可能性が、光が見えている気がした。

 翌日の朝、いつになく爽快な気分で目覚めた私は、朝食を運んでくる看護師を待ち構えた。

 ドアが開き、看護師が入ってくる。

「お願いがあるのですが」

 こちらから先に声をかけると、看護師は不思議そうにこちらを見た。

「新ロボトミーを、もっと受けたいのですが」

 その時、看護師の顔に浮かんだものは何だったか。

 恐怖、に見えた。

 しかし私はそれを無視して、もう一度、繰り返した。

「新ロボトミーで、治療して欲しいのです」


     ◆


 俺は黙り込んだ目の前の端末を眺め、思わず腕を組んだ。

『役に立ったかな』

 ドイツにある脳書庫の対話室の一つだ。

 目の前の端末には培養液で長期保存されている、ユーリ・フリーマンという男の脳が接続され、彼と俺はまさしく対話できるわけだが、なかなかに厄介だった。

 脳に負荷をかけないように、会話の内容を選ぶ必要があり、脳の負荷状態は常にモニタリングされている。色で表示され、これが赤になるとペナルティが課される。脳書庫への出入りが制限されるのだ。

 それはフリーライターの俺としては避けたいところだ。

 ドイツ国内の病院での不祥事の実態を探るべく、どうにかこうにかフリーマンの脳の保管場所を探り出したまでは良かったが、聞いた内容は観念的すぎる。

 まさか、あなたは二十四歳の段階で三度、秘密裏に新ロボトミーを施術され、記憶や思考力、意志にまでも影響を受けています、とは教えられない。そんなことを口にすれば、目の前の脳が混乱し、負荷はてっぺんまでぶっ飛び、真っ赤っかになる。

 俺はフリーマン氏の脳に礼を言って、対話を終えた。

 四十年前の欧露戦争では、自律型兵器が多用されたが、人間の兵士も十分に活躍した。それは必然的に、大量の精神疾患を患う兵士を生み出した。

 この精神を病んだ兵士を癒すのに、新ロボトミーは多用されたわけだが、はっきり言ってこれは人体実験じみていて、欧露戦争以前は全く日の目を見ない、むしろ危険な手術の一つだった。

 裏があるのは明らかで、欧露戦争後にヨーロッパ諸国の新しい統一であるヨーロッパ同盟が成立した後、この手術を秘密裏に繰り返した事案が、いくつも明らかになってきた。

 当時のヨーロッパでは、全社会主義などと今は呼ばれる、集団に貢献し、集団は個人を尊重する、という思想が広まっていた。社会こそが全てであり、社会に受け入れられないものは、生きる術がなかった。

 もっとも、社会に適合できないものは、精神異常者とされ、施設や病院に収容されて、隔離されていたが。

 そんな人々が、新ロボトミーには格好の標的だった。

 フリーマン氏は俺が調べた限りでは、最も脳を切られら、むしろ、切り刻まれた、と言ってもいい患者だ。

 彼は二十歳の時に精神に異常をきたし、病院に収容された。

 初めての施術は、四十歳とされているが、実は秘密裏に彼には二十四歳の時と二十八歳の時、そして三十五歳の時に、脳に電磁メスを入れられている。回数は十回を超えている。

 彼は医者にとっても、医療機械のメーカーにとっても、また幾人かの科学者にとっても、格好の研究対象だったようだ。

 しかしフリーマン氏は四十歳からの二年間に、進んで七回の新ロボトミーを受け、結果、社会復帰した。これは驚異的で、それもあって、彼の脳は今も保存されている、ということになる。

 もっとも、社会に復帰してもヨーロッパには戦争の波が押し寄せ、彼は徴兵こそされなかったが、厳しい環境に置かれ、戦争の終結と同時に全社会主義も終焉を迎えてしまった。

 もう彼が復帰しようとした、戻ろうとした社会という場は、決定的に消えてしまったのだ。

 それでも彼は七十歳まで生きた。結婚したが、子どもはいない。

 脳書庫の受付で、書類にサインして、俺は外へ出た。

 ドイツのうら寂れた田舎で、ポケットからガムを取り出し、口に放り込む。

 社会に戻るために、自己を、それも、その中枢を切り刻む。

 胸糞悪くなり、この件で記事を書くのは、やめにした。

 どこか濁った風が吹き抜けた。

 脳を切り刻まれた男が求めた世界はどこにもない。


(了)

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