あなたは私の運命の人 ―出会えた奇跡に祝福を―

第1話 終わりと始まり

荒れ狂う海の上、

一艘の小船の幌の下で、必死になって私は生きようとしていた。

この世には、運命の人と言うお伽噺が有る。

それは、この世にはただ一人、自分だけの人がいると言うお話。

一目会っただけで分かる愛する人。

私はその話が大好きだった。

誰にも愛されていないだろう私にも、

きっとこの世にたった一人だけ、私を愛してくれる人がいる。

そう思うだけでも、少し幸せになれる気がするから。

でも、この話を信じている人は沢山いるらしい。

それを聞くと、力づけられる半面、馬鹿らしいと言う感情も湧き上がってしまう。

「どうしてこんな事になっちゃったのかしら。」

いえ、いくら考えても仕方ない事なんだ。

運命の人に抗う事なんて、所詮無駄な事だから。

私はその時、海に続く川の桟橋に係留された、古い小舟の上に座り込んでいた。

林の影になり、ひっそりと人目に着かない此処は、偶然見つけた私だけの秘密の場所。

やり切れなくなった時は、決まって此処に隠れ、

その気持ちをやり過ごすようになったのは、一体幾つの頃からだろう。

今朝、家を出た時はとても幸せな気持ちだった。

優秀な兄様達といつも比べられていた私。

父様にも、女など仕事の役にも立たない厄介者だと言われ続けていた。

でも、そんな私でもようやく役に立つ時が来たの。

取引先のマティアス様は、うちの大株主でもあった。

そんな方が、私の事を気に入ってくれたのだ。

たとえ政略結婚の相手としての私でもいいと言ってくれた。

たとえ運命の人でなくてもいいからと。

――私を愛してくれる人がいた、そう思った。

父様もその話を聞いて、とても喜んでくれたのだ。

それからは、何度かマティアス様と一緒に出掛けた。

時には体を求められたことも有ったけれど。

ただ、私の覚悟が出来ていなくて、どうしても怖くて、受け入れられなくて……。

でも、マティアス様は待つと言ってくれたのだ。

とてもやさしい人だった。

「今日は部屋に飾る絵を探しに行こうか。」

式まであと1月と少し、時々デートを兼ねて、

私を町に誘い出してくれるマティアス様。

しかし、1軒の画廊の入り口を入った途端、その様子が変わった。

落ち着きを無くし、きょろきょろと何かを探しているようだ。

「どうかなさったんですか？」

そう尋ねたけど、私の言葉など耳に入っていないようだった。

やがて少し離れた所で、こちらをじっと見つめている女性を見た途端、

マティアス様は駆けだした。

「あぁ、そうか……。」

その時私は悟ってしまったのだ。

”出会ってしまったんだ”と

やがて二人は抱き合った。

誰も入り込めないほど、しっかりと。

私はただそれを見ている事しかできなかった。

でもそこには、すでに私が戻る場所は無いと分かっていた。

「帰ろう。」

この先、マティアス様には私は必要ないのだから。

その後、どうやってこの場所に来たのか、よく覚えていない。

「どうしたらいいのかな。」

また元の、役立たずの私に戻るだけなんだろうけど。

家族にはなんて説明すればいいのだろう。

マティアス様は、いつかは私の事を少しでも思い出してくれるかしら？

その時、どう思ってくれるかな……。

やめよう、いくら考えたところで元に戻る訳でもない。

小舟に掛けられていた古い幌の中で、いつの間にか私は眠り込んでいたらしい。

いきなりの激しい衝撃で目が覚めた。

「えっ!?」

私は慌てて幌から這い出す。

驚いた事に、いつの間にかあたりは真っ暗になっていた。

でもそれだけではない。

「海……？」

係留されていたはずの小舟はいつの間にか、流されていたようで、

ぐるりと見渡しても陸地や、その明かりは見えない。

悪い事は重なるのか、天候も悪くなる様子だ。

波は高くなり、今にも雨が降り出しそうな鈍い空。

「は…、ははは………。」

なんて日だろう。

とにかく雨が降る前に備えなくちゃ。

私は揺れる船の上で幌を広げ、なるべく船を濡れないようにした。

手探りで、荷物を引っ張り出して、なんとか幌がとばされないように重石にした。

その後私は幌の下に潜り込み、見つけたロープを体に縛り付け、船に固定した。

海は荒れ、私は船底にあちこちぶつかりながら、

必死になって椅子の部分にしがみ付く。

それからどれぐらい時間が経っただろう。

ようやく荒れ狂う揺れは収まり、幌の隙間から光が差し込みだした。

私は体のロープをほどき、日の光の下に這い出す。

「いたた…。」

体のあちこちが傷や打ち身で痛い。

「船がひっくり返らなくて良かった……。」

天気は昨日の嵐が嘘のように晴れ渡っている。

しかしその空の下に、島影など一つも無かった。

「ばかみたい、たかだか数日生き永らえただけなのかもしれないのに。」

あの嵐で死んでしまった方が楽だったかも知れないのに。

私は幌の上に溜まっている雨水を見て、飲み水の事を考えた。

「器になるようなものは無いかな。」

幌の水をこぼさないように注意しながら船の中を探するが、入れ物になるような物は無かった。

代わりに見つけたものは、瓶に入った水が２本と少し錆びたナイフだけ。

これが尽きる前に見つけてもらえるかなぁ。多分無理だと思うけど。

とにかく、幌の水が蒸発しないように折り畳む。

傷む前に、この雨水から飲むようにしよう。

あれから何日経ったんだろう。

4日目までは覚えている。

大事に飲んでいた幌の水は、2日ほどで飲み尽くした。

その後私はロープをうまく船に渡して、幌を風通しのいいテントのように張り、

その下でじっと動かず過ごした。

それから何とか瓶の蓋を開け、少しづつその水を飲んでいたけれど、

それもこの暑さの中、2日で無くなった。

今、私の唇は干からび、カサカサになっている。

指１本動かすのもおっくうだ。

それでもまだ生きている。

「神様って残酷なのね。」

これが私の人生だったんだ。

私は前世で何か悪い事でもしたのかな。

それとも今度生まれ変わったら、今までの分まで幸せになれるのかな。

「もう‥終わりにしてもいいですか………？」

もし、私がこのまま死んでしまったら、

やさしいマティアス様はきっと心を痛めるだろう。

家族にもまた迷惑をかけるかもしれない。

私は自分の身元を証明するものを身に付けていないか考えてみた。

役立たずの私は、家紋の入ったボタンの服など与えてもらえなかった。

縫い取りなど無い、何処にでも売っている既製品の服だけだ。

ただ一つ私だと分るものとしたら、マティアス様から婚約の印としていただいたこの指輪だけ。

私は左の薬指からその指輪を引き抜き、指につまむと、

怠い腕を持ち上げ、そっとそれを海に落とした。

ポチャンッと音を立てて海の中を沈んでいく指輪。

「さよなら。」

そう言ってから、傍に有ったナイフを手に取った。

ふと、遠くで声がする。

聞き取れないほどかすかな声が。

誰？

迎えに来てくれたの？

でもね、もう疲れちゃったの。

助けに来てくれてありがとう。

でも、多分私は助からない。

せっかく来てくれたのに、ごめんね。

あぁ、また…、雨が、降ってきたの…かしら……？

暖かいしずくが落ちて来る。

何だろう…？

徐々に私の口の中を、まるで甘露のようなものが広がっていく。

それはやがて、泉のように私の渇きを満たし、潤おしていく。

うっすらと目を開けると、そこにはとても美しい男の人が、

涙を流しながら私を見つめている。

あなたを泣かしたのは誰？私？

駄目よ、あなたは私なんかで泣いてはいけないの。

私はあなたの涙を止めてあげたい。

お願い

「な…かな……いで…。」

私の覚えているのはここまで、後はまた、暗闇に落ちてしまったから。