声が聞こえる

サクライ

 


 しまった、と思った時には遅かった。ゆっくりと目の前で仰け反った体は、こんな時なのに綺麗だと感じてしまう。長い髪が広がって彼女の頭上を舞ったあと、重力に従って落ちる。彼女ごと。

 ゴロゴロと長い石階段を転がり落ちるのを上からただ眺めた。もうどうしようもない。あれでは助からない。あんなに怖かったはずの彼女はもうすぐただの肉となるのだ。

『ずぅっと一緒にいますね先輩』

 耳元で囁かれた気がして腕を振り回した。辺りを見渡しても誰もいない。…そうでないと困る。もう、大丈夫なのだ。私のせいじゃない。

 下まで転がり切ったのを確認して階段を降りていく。転ばないようにゆっくりと。転々と並んだ小さな提灯では足元は薄暗い。アレの二の舞になってはなるものか。

 カバンからスマートフォンを取り出して小さく息を吸った。

「——あのっ、後輩が、階段から……!」

 オペレーターに状況を伝えながら、我ながらよくぞここまで悲痛な声を出せるものだと感嘆した。自信といってもいい。私は本来こうあるべきなのだ。

 ——彼女に奪われなければ、今でも全てが上手くいったのに。

 電話を切って下まで降り切る。転がった彼女はピクリとも動かなかった。うつ伏せの状態で顔は見えない。全身のかすり傷、鉄の匂い。背中に手を添えて何度か揺さぶった。動かない。

 こんなものに私は苦しめられていたのか。笑い出したいような泣きたいような奇妙に凪いだ感情だった。

 かつて人間だったコレに出会ったのは、一年ほど前の話だ。


 私は、唯一のアイデンティティが演劇だった。


***


 彼女は初めてあった時から美しかった。触れたら壊れてしまいそうな繊細さを持つ子だった。大学の演劇部に入りたてだった彼女は私に駆け寄ってきたのだ。

「あの!去年の文化祭、主役を演られていた方ですよね!?」

 聞けば高3の時に劇を見て、私に憧れてこの大学に入ることを決めたのだと言う。

「さすがウチの看板女優だ!」

 ニヤニヤと笑った仲間たちに照れたそぶりを見せながらも、私は内心歓喜した。

 唯一私を私たらしめる演技が、また一つ意味を得た瞬間だ。嬉しくないわけがなかった。

 聞けば彼女は役者になる気は無いらしかった。綺麗な顔をしているのだからもったないとは思ったが、「裏から先輩を支えたいんです」と言われれば悪い気はしない。

「先輩の演技本当に好きです。ずぅっと一緒にいてくださいね」

 そう懐く彼女が可愛くて仕方がなかった。

 そうして彼女と私は部内で最も仲の良いふたりとなった。


 歯車が狂い始めたのは確かに半年前だったと断言できる。翌日、オーディションを控えていた私は彼女から飲みに誘われた。ランチに行ったり遊びに出かけることはあっても、お酒を飲みに行くことはあまりなかった。そもそも彼女はまだ未成年だったし。

 二つ返事で了承して、適当な居酒屋に入る。喉を痛めたくなかったので、ジュースを注文した。もちろん彼女も。居酒屋に来ておいてどちらもアルコールを摂取しないのは少しおかしかったが問題はなかった。そもそも私たちはアルコールの力がなくとも楽しく過ごせるだけの関係はあったから。

「先輩はどうして演劇を?」

 唐突な問いに枝豆を食べる手を止める。

「どうしたの、急に?」

「なんか気になって。あっでも、言いたくないなら聞きません」

「いや、別にいいよ」

 他人に話したことはほぼ無かった。それでも、彼女には良いと思った。重ねて言えば私たちは本当にいい関係を築けていたのだ。

「私、もともと個性が何もない人間だったの」

「先輩が、ですか」

 目を見張った様子に、苦笑する。言いたいことは分かる。今の私とは程遠い。

「最初は……演技を、するのは、自分を隠したかったからなの。勉強も運動も出来なくて要領の悪い私は演技をしている間はいなくなった。ステージに私は居なくて、代わりにいるのは恋をしたお姫様や悪い女盗賊、悩みを抱える高校生……」

「…こう言っちゃなんですけど、随分後ろ向きな理由だったんですね」

「ああ勘違いしないで。今は違う。今は演技をすることこそが私なの。私を表現する術となった。私は私じゃない人を演じることで私になれた。

んーややこしいね。アンタは本末転倒していると言うかもしれないけど、私はこれが正解だったの」

 まあ今はそれにメインが良いな、だなんて欲が付いちゃってるけど。

 そう付け足して話を終える。ちらりと彼女を見れば、大きな瞳がキラキラと輝いていた。

「すごく良いこと聞けました…!」

「そこまで言う?」

「言いますよ!これ知ってるの私ぐらいじゃないですか?」

「ま、まあ」

 勢いに戸惑いながらも、くふくふと心底幸せそうに笑う彼女を見れば話して良かったなと思った。


 翌日、部長が告げた言葉に、まず耳がおかしくなったことを疑った。

 急遽後輩もオーディションに参加する。それも私が狙う役に。

 困惑し隣を見ると彼女は悪戯っぽく微笑んで、小さな声で教えてくれる。

「昨日の話聞いてたら、興味湧いちゃって」

「そんな甘くないわよ」

「知ってます」

 忠告しながらも私は安心しきっていた。今回の役は気の強い女盗賊で、本来の彼女とは程遠い。素人が上手くできるはずもなく、自分は役を手に入れられるだろうと。


 それが誤っていたことに早々に気がついた。


 彼女は上手かった。いつもは穏やかに下がり気味の眉が釣り上がりキリッとした凶暴な表情を作る。高めの声が、低くはないもののドスが効いたものとなり聞くものを震わせた。ニヤリと嗤う顔が恐ろしい。

 止め、の合図を聞いた彼女はまたいつも通りで、その豹変ぶりにまた周りがざわついたのが分かる。

 そんな、バカな。

 私が見ていることに気がついた彼女は、私を見てただ微笑んだ。駆け寄って感想を聞くこともない態度がかえって図々しい。

 発表の時、呼ばれたのは私の名前ではなく彼女の名前だった。


「ねえ飲みに行こ」

「良いですよ」

 昨日と逆の立場に代わってしまった私たちは、無言で店に入った。机の上は昨日とほぼ変わらない。

 酒を飲む気にはなれなかった。

 2人の前に並ぶジュース。昨日と同じシチュエーション。それがこんなにも違う心境になるとは思っては無かったけれど。

 平然として唐揚げを摘んだ彼女を睨みつける。

「なんでこんな事したの」

「こんな事ってなんです?」

「アンタ役者になる気はないって言ったじゃない」

 ああ、と彼女は頷いた。オレンジジュースを飲んで、こちらに身を乗り出した。

「私、先輩が好きなんです」

「は?」

 子供が友人に大切な秘密を打ち明ける様子と似ていた。酒を飲んでもいないのにほんのりと色づいた頬が目にさわる。

「言っときますけど、恋愛的な意味ですよ? もちろん友愛もありますけど、コレは恋です」

 じゃあなんで、こんな事を。

「なんでって思ってます?言ってるでしょう、好きだからですよ。普通に好きって言っても相手にしてくれないでしょう?でも先輩の大切なものを私が奪えば、貴女は嫌でも私を見てくれる」

 彼女は微笑んだ。美しい顔が急に人間味を失ったように思えてくる。舌が固まってしまったかのように何も言えない。彼女は必死になにかを言おうとする私をただじっと見つめた。

「…私はアンタを好きになったりしない」

「そうですか?」

 やっとの事で喉の奥から絞り出したそれに、さして気にした様子もなく彼女は私の手に自らの手を重ねた。冷たさにゾクリとする。

「これは確信ですけど、そのうち先輩は諦めて私を受け入れますよ。そしたらずぅっと一緒です」

 心臓が彼女の冷えた手で握られた気がした。

 おきまりの言葉が今は酷く禍々しい。


 彼女はいつも通りに私に接した。プライドがあった私も、みんながいる前では“後輩を可愛がる先輩”を演じた。2人きりになれば彼女には強く当たったが、それさえも嬉しそうに流して彼女は言い続けた。

「好きです」

「愛してます」

「ずぅっと一緒ですよ」

 はっきり言って地獄だった。逃げたくて、それでも演劇から離れることはできなかった。唯一の救いを手放す方が、よっぽど恐ろしかったのだ。


 本番を間近に控えた春。

 彼女は街全体を見渡せる高台へと私を連れ出した。

「どうしたの急に」

「なんです?」

 柵にもたれかかり街を見渡す表情は見えない。それでも暢気な言葉に舌打ちした。

「何ってアンタが連れてきたんでしょう?」

「嗚呼そうでした」

 ふと思い出したとでも言いたげに彼女は振り返った。

「先輩、何かオネガイゴトとか無いんですか?」

「なに、突然」

「オネガイゴトですよ。何か言ってくれたら叶えてあげますよ。なんでも」

「なんでも?」

 疑問符は上ずった。彼女はにっこりと笑う。

「はい、なんでも。先輩がどんな事を言っても受け入れますよ?」

 知らず知らずのうちにコクリと唾液を飲み下した。良くない考えが浮かびかける。

「なんだって急に」

「先輩知らなかったんですか?私神さまなんですよ。神さまだから、気まぐれなんです。気まぐれで、なんだって叶えてあげられる」

 巫山戯たセリフだった。いやに芝居掛かった風に言うのだから尚更。

 普通の人は相手にしない。私だっていつもならスルーする。

 それでもそんな馬鹿げた言葉に乗ってしまうほど、それだけ私は限界だった。

 なんでも。言うだけなら、なんだって。

「…死んで欲しい、」

「良いですよ」

 なんてね、とは言わせてはもらえなかった。言葉を失う私に、クスリと笑って繰り返される。先ほどよりも心持ち大きくゆっくりと。

「良いですよ。先輩がそう望むなら、今からでもすぐに死にます」

「冗談、でしょ」

「先輩は冗談で言ったんですか?」

 ヒュウッと喉がなる。何を言うんだ。私が、本気で?

 口元を弓なりにしてこちらをじっと見つめるその目はどこまでも冷静だった。自然に頬に熱が上がる。

「あっ当たり前でしょ」

「そうなんですか?…よく、考えてみてくださいよ。私が死ねば、先輩にはまたあの役が返ってきますよ」

「だからって、そんな」

「こっそり練習してるでしょう?すぐに代わりできますよね」

 鼓動が速くなる。バレている。どうしよう。どう弁明すれば良い?

「また欲しくないんですか?先輩のアイデンティティ」

 後ろから抱きしめられた。いつもなら振りほどくそれも、今回ばかりは気にする余裕はなかった。いつのまにか接近していた彼女が耳元で囁く。高めの音に反して落ち着いた調子が耳に快い。

 ねえ、先輩。

 たっぷりと砂糖衣を纏わせた甘い誘いだった。悪魔の誘惑とはこの事を言うのだと本能的に悟る。

「大丈夫ですよ。先輩が疑われるような失態は犯しません」

「…え」

「そこに、階段があるでしょう?長い石階段。壁、って揶揄されるアレです。知ってますよね。私、あそこは危ないから立ち入り禁止にすべきだって主張してたんですけど、今回は好都合ですね」

 これ以上聞きたくはなかった。急にこの子が口がきけなくなればいいのに。けれど叶うこともなく彼女は続けた。

「そこから自分で落ちます。そうすればさすがに死ねるでしょう」

 さも良いアイデアでしょうと言わんばかりにこちらを覗き込む。自分が死ぬ話をしているはずなのに、その顔は随分と晴れやかで私は肩を前に丸めた。

「体、ぐちゃぐちゃになっちゃうけど」

「良いですよ、別に。私可愛いんで、きっとそれでも大丈夫です」

 微笑んだ口元にはありありと自信が浮かんでいた。今の戯言が、確かにそうなるだろうと錯覚させるほどの強さ。声すら震える私とは大きな違いだった。

「なんで」

「やだな、忘れちゃったんですか。好きだからですよ、先輩が」

 こんな場面で、変わらずそんな事を言うのか。好きなだけで、命さえ投げ出せるなんて。感動なんてしなかった。ただただ付きまとう恐怖に何も言えない私をよそに彼女は滔々と続ける。

「先輩は私のこと嫌いでしょうけど、先輩のために私が死ねば流石に忘れないでいてくれるでしょう? それこそ死ぬまで。永遠に。それって死ぬほどの価値があると思いません?」

「…おかしいよ」

「そうですね。マトモではないかも。でも私をこうしたのは貴女ですから」

 だからせめて、死ぬまでは責任持って見届けてくださいね。

 理不尽な責任だ。それなのにそれをはねのける気力はもう残ってはいなかった。

 彼女は私をおもむろに引っ張っていく。どこに行くのか聞くまでも無い。石階段だ。死に際になにかをすることもなく、彼女は私を連れて自らの断頭台へと進んでいく。

 あっさりと階段上に立った彼女は私を見て苦笑した。

「なんて顔してるんですか」

 どんな顔をしているんだろう。分からない。なにも。今どうすべきかも。

「そんな顔されたら死ににくいですよ。いつもみたいに、笑ってください。自信に溢れた、けれど私相手には憎悪が混じった可愛い顔」

「できるわけ、ないでしょ」

「そうですか?うーんじゃあ、代わりにコレで」

 言うなり彼女の綺麗な顔が近づいて、私の口に自らの唇を重ねた。やがて、チウと可愛らしいリップ音がして離れる。

 唇を舌でちろりと舐めていたずらっぽく笑う。

「ゴチソウサマでした。ふふ、可愛い」

 頬が熱い。こんな時にも照れることはできるんだと他人事のように思う。見渡せる夜の街並みを背にして彼女は心底幸せそうに笑った。

「愛してますよ、先輩。世界で誰よりも、永遠に。では、またいつか」

 あっさりと彼女は身を投げ出した。ふわりと体が浮く。手を伸ばしても届かない。そうして、そうして。

  

***

 どんな顔をしているのだろうかと気になった。自ら死を選んだ彼女は、最期まで飄々としていた彼女は。

「んっ…」

 石畳と体の間に手を差し込んで体をひっくり返す。思ったよりも重い。それとも死んだ人間とはこんなものなんだろうか。

 泥と傷で皮は酷い有り様だった。ぐちゃぐちゃという形容詞が最も似合いそうなほど。けれども私が息を飲んだのは別の理由だった。

 穏やかな表情だったのだ。泥も傷も不釣り合いすぎて、写真だったならば悪意のあるイタズラによって合成されたものだと思うほどに。

 眠り姫のように、キスをすれば目を覚ましそう。運命の王子様。ならばその役割は私になる。

『大丈夫ですよ。私可愛いんで』

「っ…!」

 反射的に手を伸ばした。顔を覆って、必死に彼女の顔を歪める。死ぬ時まで、綺麗なままで、私が愛した顔でいないでくれ。

 爪が何度も顔を引っ掻いた。まだほんのりと温かい。思い通りに彼女の表情筋が動いてくれない。

『先輩』

 やめてくれ。呼ぶな。死んだくせに。お前から離れたくせに。キスなんて、死んでもしてやらない。

『愛しています』

 顔を背けえずく。私らしくないまるで醜い声がする。苦味がある酸味が喉を焼く。

『先輩も、私のこと好きでしょう?』

「あ、ああ…!」

 耳を塞ぐ。うずくまる。目を固く閉じた。どうして。どうすれば、良かったのだろうか。

『ずぅっと一緒ですよ』


 また、声が聞こえる。

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