第7話 緊張と緩和



意識がぼやけたまま、僕は目を開ける。



見知らぬ天井が僕を出迎える。



あたりはまだほの暗く、ただ単に天井を眺める。



そこになんの思考もない。



ただ単に機械のように目を見開き、天井を見て目を閉じる。



そして、また再び僕は眠りの世界へ誘われる。



眠りの世界にたどり着くと、僕は1つの夢を見る。



ある草原に僕は立っている。



周りにはそこがどこかというヒントを与えるようなものはなにもなく、ただどこまで行ってもそれは草原だった。



ひどく冷たい風が吹き付ける草原。空には雲が幾つか顔を出し、太陽を覆い始めている。



辺りを見渡すと一人の少女の存在に気付く。



小さな女の子が僕を見ている。



彼女と面識はないはずだが、なぜかその顔は懐かしく思える。



彼女は僕の一挙手一投足を観察している。



それは好奇心というよりかは、監査しているかのように鋭い目つきだった。



僕はその視線に耐えきれなくなり、彼女に話しかける。



彼女はその声を聞くと、すぐに姿を消してしまう。



その幼い少女が消えてしまうと、その草原は徐々に消え去り、僕の視界は真っ暗な世界へと変化していく。



真っ暗な世界のまましばらく時間が経った。



なにか声が聞こえる。そして僕の体の一部が自分とは違う何か別の力によって揺れている。



僕は瞼をゆっくりと開き、新しく始まった世界をぼやけた意識で確認する。



まず視界には女性の姿が写る。



僕はそれがなにを示すのか、いまいち理解が出来なかった。



その女性はおはようと僕に言ったようだった。



僕はなにも発することなく、ただその女性を見つめる。



少しずつ僕の意識は回復する。



その女性が誰なのか、徐々に理解していく。



それは会社のアイドル東条さんだった。



彼女の顔を見つめると、昨夜の記憶がものすごい勢いで僕の脳内で蘇生されていく。



映画なんかに出てくる大型のコンピューターが何かを処理するように、カタカタと音を立てて、目まぐるしい速さで。



僕は顔を赤面させ、東条さんの視線から目を外す



「随分熟睡してたね。そのまま寝せておこうかと思ったけど、もうそろそろ起きないと遅刻しちゃうから。」



僕はゆっくりと体を起こし、辺りを見回す。



そこは昨晩の出来事が本当にあったことだということを証明するように昨日のまま残されていた。



テーブルには昨晩飲んだ僕のハイボールのグラスと彼女の飲んだワインが飲みかけでまだ残っていた。



グラスの縁には彼女の真っ赤なグロスの跡が生々しく残されていた。



「どうしたの?体調悪い?」



彼女は僕の顔を覗き込むようにしてそう問いかける。



いつも会社で会うときと同じようにしっかりと化粧がほどこされ、髪も綺麗に梳かされていた。



僕よりもいくらか早く起きて、朝の準備を進めていたのだろう。



「いや。その大丈夫です。」



「あ、また敬語。昨日あったことちゃんと覚えてる?酔った勢いでとかだったら許さないよ。」




「あ、あの。いや、大丈夫。覚えているよ。」



僕の言葉は、なんだか自分から発されていないかのような不思議な響き方をしていた。



「そっか。それならよかった。じゃあ早く着替えて会社行こう。」



「うん。」



僕は言われるがまま、顔を洗い、髭を剃り、スーツに着替えた。



昨日の汗を存分に吸収し皺が残るYシャツを着るのは気分が良くなかったが、替えのシャツもないのでそのままそれを着る。



「準備できた?じゃあ行こうか。」



「うん。」



僕らは部屋を出て、顔のない受付にカードキーを返却し、外へと出た。



外は今日も太陽が燦々と輝いていた。



太陽の光に照らされると、僕は何とも言えない罪悪感に見舞われた。



非常に居所が悪くなり、早くこの場所を離れたかった。



僕は少し早足でラブホテルWITHを後にする。



眠らない街新宿も朝になれば、随分閑散としていた。


僕らは急ぎ足で駅へと歩みを進める。



「ちょっと、歩くの早すぎでしょ。」



一刻も早くこの地を離れたいという思いが強すぎて、僕はだいぶ早歩きになってしまっていた。



彼女の声を聞き振り返ると、3mほど後ろを彼女が歩いていた。




「ごめん。」



「いいけど。一緒に歩くの嫌?」



彼女は困った顔をし、上目遣いで僕を見つめる。



その顔は小さな女の子が、お父さんにおもちゃを買ってもらおうと、ねだる表情に似ていた。



「い……嫌とかじゃないけど……なんというか、慣れてないから……」



彼女は僕の目をしっかりと見つめる。



そして僕の手を取り、彼女の手を絡ませる。



「これなら大丈夫でしょ?」



彼女は先程と一変し、穏やかで優しい母親のような表情になる。



彼女はとても表情が豊かで、それら全てが作られた芸術品のような美しさがある。



そして握られた彼女の手は冷たく、柔らかかった。



他人の手というのは自分のものと全く違う感触を持ち、不思議な感触があった。



彼女に連れられる形で、僕らは新宿駅へと進んでいった。



彼女の冷たかった手は、僕の体温が伝わり、少しずつ温まるのがわかる。



駅に近づくにつれて、道が混みはじめ、改札に着く頃には、一つの集落くらいの人混みに僕らは取り囲まれる。



蟻地獄に吸い寄せられるアリの行列のように、みながなす術なく駅へと吸い込まれていった。



僕は少しでも男らしいところを見せなければと、彼女にたびたび目をやり、なるだけ人混みから自らの身体を使い、彼女を守っていた。



ホームに降り立ち、僕らは山手線に乗り込む。



僕はこの握られた手をどうすれば良いか分からなず、頭の中で様々な選択肢を思考する。



そんな中で、握られた彼女の手は、僕の手からするりと離れていく。



それは、遠方へと旅立つ恋人との別れのような、どこか物悲しく、また決意のある離れ方だった。



迷子になった僕の右手は、しばし空中を彷徨い、やがて僕のジャケットのポケットへと逃げ込んでくる。



「そんな顔しないの。駅着いたらまた手繋ごう?」



僕の考えていることなどすべてお見通しのように、彼女は僕の頭をポンと軽く撫でる。



僕は自分の考えが彼女に悟られたこともそうだが、頭を撫でられているところを他の人に見られているかもしれないという気持ちで、ひどく恥ずかしくなった。



でも周りを見渡すと、僕らに視線を送る者は誰一人としていなかった。



乗客は繰り返される一日の始まりを、それぞれの決まったルールに従って消費するだけだった。



それは決められたプログラムに沿って動く、ロボットに似ていた。



彼らのプログラムを崩すほどの衝撃は、僕らの行為にはなかったということだ。



新聞を読む中年のサラリーマン、スマートフォンで退屈そうに携帯ゲームをやる高校生、気怠そうな表情で俯く朝帰りと思われる大学生。



誰もがベルトコンベアで運ばれる大量生産のネジのように、無表情で目的地へと向かう。



僕だってそうだった。



昨日の僕は、彼らと同じように無表情で、ベルトコンベアに運ばれていた。



でも今朝は違っていた。



一日でこうも世界の見え方が変わるとは、昨日の僕には知る術もなかった。



気付くと車内のアナウンスが、馴染みのある駅名を告げ、僕らは会社の最寄駅へと到着する。



無表情のサラリーマンの群れとともに、僕らはホームへと足を運ぶ。



僕は改札へ向け、一歩二歩と足を踏み出す。



そしてそれを追いかけるにして、彼女も早足で歩き出す。



そして僕の隣に来て、彼女の手がまた僕の手を握る。



遠くに旅立った恋人が、一年ぶりに地元に帰ってきたような安心感があった。




その感触は前に味わったものと同じで、妙に安心感があった。



僕らは改札を越え、会社へと向かう道を進んでいく。



見慣れたその道を歩いていると、ふと僕は現実へと引き戻される。



この道に来るまで、それはどこか遠くの御伽噺のような第三者的な感覚があった。



しかし、今僕らは会社へと歩みを進めていた。



僕らは手をしっかりと繋いで、二人は肩と肩が触れ合う距離で歩いていた。



こんなところを同僚に見られたら……



いや、それどころか専務に見られたら……



僕の体は、羞恥心に覆われ、心拍数が上がり、汗が少しずつ込み上げてくる。



「あ、あのさ。僕ちょっとコンビニ寄りたいから、先に会社行ってて欲しいんだけど。」



「え?コンビニ?なら私も一緒に行くよ。」



「いや、ほんと大した買い物じゃないから、気にしないで。」



僕は一刻も早くこの場を離れようと手を振り解き、彼女を背に歩き出していた。



彼女がどんな表情をしているのか気になったが、僕は振り返ることもせず、ただ前だけを見て歩いていた。



コンビニに着くと、僕は急いで鞄からタバコを取り出し、火をつける。



彼女と昨夜会ってから、一本も吸っていなかった。



吸い込んだ煙が、肺の中で広がる。



煙は僕の中で、踊り狂い、僕の肺もまたそれを広く受け止めようとする。



次第に僕は頭がぼんやりとしてくる。



久々に吸ったタバコは、麻薬のように僕の頭の中を空っぽにしてくれた。



昨夜から東条さんとずっと一緒だったので、こうした一人きりの時間がひどく僕を安心させた。



こんなんで僕はこれから先、東条さんと付き合っていけるのだろうか。



誰もが羨むこんな状況下にいるのに、僕は不安と緊張でいっぱいだった。



「幸せってなんだっけ。」



僕はお笑い界の大御所の歌のような台詞を意図せず呟いていた。



再び僕は新たなタバコに火をつける。



僕の幸せは、ちっぽけでもここでこうやってタバコを吸っている時間なのかもしれない。



極度の緊張状態から解放された僕はいま、とてつもない安息感に包まれていた。



しかしながら、時間は有限で、あっという間に始業時間が迫ってきてしまっていた。



僕は仕方なく、火のついたタバコを目一杯吸い込み、灰皿へと投げ込む。



会社に向かう道中で、僕はまた不安に駆られる。



もしかしたら、もう既に会社中に、僕らの噂が広まっているんじゃないか。



そして、僕はすぐ専務に呼び出されるかもしれない。



専務の横には、涙を浮かべた東条さんがいるかもしれない。



僕はどうすることも出来ず、ただ専務に土下座をすることになるかもしれない。



悪い予想だけが僕の頭の中をグルグルと蛇のように動き回る。



しかしそんな悪い予感を、頭の中に巡らせたところで、時計の針は止まってはくれない。



そして適当な理由を考えて、会社を休むことも脳裏に浮かんではいた。



ただ、僕は学生時代からズル休みというものをしたことがなかった。



僕は誰からも頼られることはないし、別に一日くらいいなくたって困りはしない。



けれど、ずる休みをする罪悪感に苛まれるくらいなら、行きたくない気持ちを押し殺してしまった方が気持ちが楽だった。



僕はそういう性格なのだ。



重たい足を引きずり、グルグルと脳裏を暴れ回る様々な思考を断ち切り、僕はただひたすらに身体を会社へと向かわせていた。



続く…

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