第5話 ノンフィクション


心が休まる場所というのはどこだろうか。


トイレの個室だとか、ベッドだとか。


人それぞれそういった心のオアシスは必ずある。


僕の場合、それは、お風呂場だった。


男の一人暮らしとしては珍しく、僕は湯船にお湯を張り、好きな香りの入浴剤を入れる。


それが僕の唯一といってもいい、心安らげる場所だった。


そんなお風呂タイムがこうも心が安らがない、緊張する事は初めてだった。


目隠しをされて、暗闇に放り出されたような言いようのない不安感が襲ってくる。


お風呂場のドアを開くと、入浴剤の香りが僕の鼻孔を刺す。


僕のユニットバスのお風呂とは全く異なり、洗い場も湯船も広かった。


僕は体を入念に洗い上げる。


性器はその中でも特別丁寧に洗った。


マフィアが抗争前に拳銃の手入れを行うように、僕も自分の武器を細部まで確認しながら丹念に磨いていった。


それが済むと、並々とお湯が張られた湯船に、静かに入る。


両生類動物が、敵に自らの入水を気付かせないように、そっと。


湯船に入ると、ひとつ奇妙な存在に気づく。


それは普通、お風呂という物体に不必要とされるボタンが壁に備え付けてあった。


僕は恐る恐るそのボタンを押してみる。


すると湯船に光が輝きだし、それが数秒間隔で色々な色の光に目まぐるしく変化していく。


ひどく下品な光に僕はうんざりしつつも、なぜか少し興奮を覚えていた。


奇妙な興奮と居心地の悪さから、僕は2・3分で湯船を出て、熱いシャワーを体にかけて、風呂場をあとにする。


バスタオルで体から水を拭き取り、着替えをする。


ーそこで1つの疑問が浮かぶ。


あれ?なにを着ればいいんだ?


スーツを着て戻るのはおかしい。


しかし、こいつを着て戻るのもなんとも滑稽だ。


洗面所にハンガー吊りでかけられていたバスローブを見ながら、自分が着ている姿を想像する。


なんとも不格好で情けない恰好だった。


全裸のまま、バスローブを見つめ、しばし考える。


けれども有効な手立ては考えつかないし、それ以外着るものもないので、僕は仕方なしにそのバスローブを着る。


曇った鏡で自分の姿を確認すると、自分の不細工さに絶望する。


なんで東条さんは僕なんかと……


惨めな気持ちのまま、僕は洗面所の扉に手をかける。


ただ、そのドアは固く重かった。


ここから先は後戻りが出来ない戦場だ。


いっそのこと僕は朝までここにいてしまおうかと考えた。


その方がよっぽど気が楽だった。


けれど女の子を部屋に一人残して、洗面所に籠城する根性もないので、僕は仕方なくそのドアを勇気を振り絞り開く。


激戦地に向かう船に乗せられる兵隊のごとく、逃れることの出来ないやるせなさと将来への不安で僕はすっかり気が滅入ってしまっていた。


扉を開くと、東条さんがベッドに無防備な姿で寝そべりながら、映画を見ていた。


「おかえり。ずいぶんと早かったね。」


「うん。いつも早風呂なんだ。」


「へぇー。」


目線をTVから離さず、聞いているんだか聞いていないんだかわからない返事をする。


僕はまた居場所を失ってしまい、どこに座っていいかわからず、そわそわしながら辺りを歩き回っていた。


「ちょっと。落ち着きなよ。こっち来て一緒にお酒のもう?」


東条さんはようやく顔を上げ、グラスを手に取り、ニコッと笑う。


「う、うん。」


僕はおそるおそるベッドの前に行き、自分のグラスを持ち、ベッドに腰掛ける。


昨日までの僕では考えられない距離に東条さんがいる。


そしてその東条さんは僕の彼女なんだ。


言い聞かせるように、僕は頭の中で何度もそうつぶやく。


「ねぇ。この映画見たことある?」


「いや、ないな。」


「ちょっとだけいま見たんだけど、結構面白そうだよ。初めからにするから一緒に見よ?」


「うん。」


僕は小さく頷いた。


正直この映画は見たことはあった。


高校時代に幼馴染の清水に、無理やり連れてかれて見に行った映画だった。


清水が誘ったくせに、上映開始数分で眠り、しまいにはあんまりおもしろくなかったねとか言っていた。


僕はそんな昔の事を思い出しながら、映画を眺める。


清水はラブホテルとか来たことあるのかな?


突如としてそんな疑問が頭に浮かぶ。

幼馴染と言っても最近はゆっくり話すこともなかったし、知らないことも多くなっていた。


大人になるというのはそういうことなのかもしれない。


まあ、僕も清水の知らない間に、大人になろうとしているんだけれども。


清水に話したらびっくりするだろう。あいつの事だから絶対否定するんだろうけれども。


僕はなんで清水の事なんか考えているんだろう。


僕に初めての彼女が出来たんだ。それもとびきり可愛い彼女が。


清水の事なんかどうでもいい。


僕は映画に集中することにした。


しかしストーリーは進んでいたし、元々見たことのある映画ということもあり、そこまで集中することは出来なかった。


東条さんに気付かれないように、何度か東条さんに視線を移す。


東条さんは相変わらず無防備な格好で、映画を見ていた。


彼女は無表情で特に感嘆もなく、映画を集中して見ていた。


映画はいつの間にか佳境を迎えていたが、僕は結局集中することなく、映画を見ているフリをしながら、東条さんをチラチラと見ていた。


バスローブからチラリと見える彼女の太ももは、今ここに生命を得たばかりの物体のように艶やかで、汚れを知らない白さだった。


映画のストーリーが進めば進むほどに僕の鼓動は早まって行った。


約束の時が近づいていることが如実に分かった。


映画の物語の主人公がどうなるかよりも、僕がこのあとどうなるのかのほうがよっぽど気になった。


バッドエンドになる未来だけはなんとか避けなければならない。


映画が終わりは陳腐な幕切れでハッピーエンドを迎え、エンドロールが流れる。


寝転んでいた東条さんは起きあがり、僕の目を見つめる。


「うーん、まあまあだったかな。」


「そうだね。割とありきたりな展開って感じだったね。」


「そうなんだよね。途中までは良かったんだけど、最後はなんか無理矢理良い話に持っていこうとして展開を急ぎすぎた感もあったしね。」


意外にも冷静な分析をする東条さんに僕は驚いた。正直に言えば、東条さんはもっと浅はかな感想を持ってくると思っていたのに。


というよりも僕が隣にいながら、特に何も気にしていないで、映画に集中していたことにショックだった。


そして気にしすぎな自分に対しても恥ずかしさを覚える。


「さて、寝よっか。」



「え……?」


僕は『寝る』という常用単語に別の意味を持たせて、一人で動揺していた。



「え?まだ寝ないの?明日疲れちゃうよ?」


「あ……寝ます。ごめんなさい。何言ってるんでしょうね、僕は。」


彼女は含みを持った笑みを浮かべ、僕を見つめる。



いよいよ、僕の決戦が始まる。僕の鼓動は烈火のごとく早まっていく。



続く

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