Ⅸ
車のエンジンが明らかに過熱してしまっている。正直車が道路から逸れてしまったときには途中で車を捨てて歩くことも考えていたが、どうにかアルノース家の屋敷の近くまでたどり着いた。今からエンジンを冷やしてまでするほどの距離ではないし、アルノース領はかなりの田舎なのでそうそう反乱分子に襲われることもないだろう。
「もうここからは歩きましょう。大丈夫です、ここからならばもう襲われたりすることもないでしょうから」
僕がそう声をかけると、まずアリアンヌが車のドアを開けて自分が降り、アリアンヌに開けてもらったドアからポレール王女が降りるわけだが、車のミラー越しに見ていてもポレール王女の姿にこの上ない威厳を感じる。最も、王宮が襲われてしまい、他の王族の行方が僕たちにはわからないので、最悪の場合、このポレール王女が即位するのだ。
どちらにせよ見惚れている時間などない。自分も車から降りる。車は取り敢えずここに乗り捨てていく。といってもそう遠くない場所なのであとでいくらでも取りに行ける。明日には自然とエンジンも冷めているだろう。
「長旅になってしまいましたがお身体の方は大丈夫ですか?」
先輩がポレール王女を気遣う。だが、先輩の表情が少し赤い。なにかこう……弱みを握られているような、そんな赤さだった。
「ここから少し歩くことになります。といってもそう遠い距離ではありません。普段の足で2〜30分ほどですから1時間もあれば必ず着きます」
一応僕が補足する。するとポレール王女は心強い笑顔を見せた。
「ええ、大丈夫ですよ? さっきも言った通り、わたくしは狩りをするのですがその時はライフルを持って何時間も歩き回るのですから」
「アリアンヌの方は大丈夫なのですか?」
フィガロ大尉がもう1人の不安というか爆弾というか、ただのメイドにすぎないアリアンヌの心配をした。
アリアンヌは少し暗い表情をする。やはり体力に自信がないのだろう。普段ならまだしも、今日はもう逃避行で疲れ切ってしまっているので、もう歩けるかわからないのだと思う。実際僕ももうクタクタなのだから。
「やります。できます。私はこれでもポレール王女殿下お付きのメイドなのです。ここで1人残ったら誰が殿下の身の回りのお世話をするのですか? メイドは国内に掃いて捨てるほどの人数がいますが、最も王女殿下のことを存じ上げている、もちろん私の前任者がいますが、その前任者から殿下のことを最も詳しく伺っております。殿下のお世話は私がするのです。そういうプロとしての意地が私にはあるのです」
アリアンヌはそう言いながら、彼女の瞳の中に炎と形容してもいいのかわからないほど激しい炎を灯していた。これが彼女のプロ意識なのだろう。だったら僕も負けちゃいられない。
「アリアンヌにはメイドとしての意地があるように、私にも王族としての意地があるのです。さあ、行きましょう」
ポレール王女がそう言って手を叩いた。
「左様、もうなにも心配することはありません。あと少し、アルノースの御実家まで歩くだけです」
フィガロ大尉が同調する。この人にはやっぱり敵わないや……
僕は屋敷の方へと向かって歩き出すことでその答えとした。
アルノース領にはだんだんと春が近づいてきている。
それでも本格的に農業の季節が始まるわけではなく、まだ雪がようやく溶けきったような段階で、地面からぼちぼち草が生えはじめているような様子である。
最近はたまに、数日帰省するだけでずっと王都なりブレスティアなりにいるのでなかなか気づかないことであるが、ここは時間の流れがゆっくりとしているのである。確かに思い出してみれば最初に王都に来た時、人々の歩くスピードからして速いと感じ、どこか息が詰まったような感覚を感じたのだが、暮らしていくうちに自分がその空気に慣れてしまい、このアルノースの時間の流れをいつしか忘れてしまっていたのであろう。
「なんというか、いいですわね、この雰囲気。何もかもを忘れてしまっても生きていけそうというか、むしろここで何もかも忘れてしまえるような。それでも受け入れてもらえそうな、そんな温かい空気です」
王女殿下が呟く。そうだ、王女殿下は生まれた時から王都で過ごしておられるからこんな田舎の空気をきっと知らないのだ。
「殿下、あんまりゆっくりしてはいられませんよ。ほら、シャル君もボーッと歩いてちゃダメよ! 私達の任務は何? 王女殿下の護衛よ」
先輩が僕を叱ってくる。それにしても先輩はせかせかしているような……
「ジャンヌ様もいいじゃないですか、こんな田舎に誰も目なんてつけませんよ。こうやって、アルノース少尉……いや、シャルル様の御実家までこうしてフラフラと歩く、こんな経験はとても貴重ですわよ? ほら、アリアンヌも、こうして身体を自然にするのです。ああ、なすがままに」
王女殿下が完全にとろけてしまっていた。最初は何かフォローをしてくださるのかと思いきや、ただ自分がトリップ状態に陥っているだけだった。
まぁ、この地を気に入ってくださったのならそれはそれで嬉しいのだけれど。
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