差異

混沌加速装置

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「ねぇねぇ、しってるぅ?」


 新鮮な空気を吸おうと私が外へ出ると、いかにも幼子おさなごのものと思われる、甘ったるく間延びした声が聞こえてきた。見ると近所の子であろう四、五歳くらいの女の子が、こちらに背を向けて庭の一隅にしゃがみこんでいる。


「ねぇねぇ、しってるぅ?」


 周りに他の子供の姿は見当たらない。ということは、どうやら私に問い掛けてきているらしい。何か面白いものでもあるのか、女の子はじっと地面に視線を注いでいるように見える。


「どうしたんだい」


 私は女の子に近付いて声を掛けた。正直に告白すれば、私は子供という生き物が苦手だ。どう対処していいのかわからなくなる。


「パパはねぇ、えらいんだって」


 まず、こうした子供特有の唐突さというか、会話の脈絡の無さに辟易へきえきしてしまう。


「パパはねぇ、まいにちかいしゃにいって、はたらいてるんだって。だからねぇ、えらいの」


 女の子は顔を上げずに地面を見たまま、舌足らずな口調でそう続けた。それならわかる。それより何をそんなに熱心に見ているのだろう。私は女の子の背後から地面を覗き込んでみた。


「何を見ているんだい?」


 特別なものは何も見付けられず、とうとう我慢できなくなった私は、女の子に直接訊ねてみた。


「アリさん」


 なるほど、確かに地面には蟻の行列ができている。門柱の辺りから始まっているらしいそれは、女の子の前を横切り南天なんてんの植えてある花壇へと続いていた。南天は鮮やかな赤い実をつけている。


「アリさんもさぁ、えらいよねぇ」


 私も子供の頃はよく一人でこうして、地面を這い回る小さなむしたちばかり見ていたものだった。兄弟もおらず友だちも少なかった私は、その時分じぶんずいぶん暗い子供だったのかもしれない。


「だってさぁ、まいにちはたらいてるもんねぇ」


 子供に説明したところでわかるまい、と私は思ってしまった。実際に働いている蟻たちは全体の八割で、残りの二割は動いているだけだということを。大人はこれで理解してくれるだろう。子供に対してよりも大人に説明する方が簡単だとは、何とも皮肉な話ではないか。


「じゃあさぁ、パパとアリさんはさぁ、おなじだよねぇ?」


「そうだね」


 女の子がどういう意味でそう言ったのか、私は深く考えもせず安請け合いしてしまった。彼女は垣根の方を向いたまま話しているので、私の位置からその表情までを読み取ることはできない。しかし、どうせ同じだ。人間社会においても、真面目に働いているのは全体の八割程度だろう。


「じゃあさぁ、ひととアリさんもおなじだよねぇ?」


 それは違う、と私は咄嗟とっさにそう思ったものの、なぜか声に出すことを一瞬だけ躊躇ためらってしまった。


「違うよ」


「えー、でもさぁ、パパとアリさんはおなじなんでしょぉ。パパはひとだもん。なんでちがうのぉ?」


 おそらく私はこういう質問が来ることを予想して、それで躊躇ってしまったのだろう。


「大きさが違うじゃないか」


 いくら子供相手とはいえ、あまりにもお粗末な返答をしてしまった、と私は情けなくなるとともに少々後悔した。


「そうじゃないもん……」


 女の子はふて腐れたようにそう言うと、行列からはみ出した蟻を指で潰し始めた。残酷さと純粋さは、もしかしたら紙一重のもの、あるいは表裏一体なのかもしれない。


「よしなさい。そんなことをするのは」


 思わず私は女の子を叱っていた。すると女の子は首だけを捻って、ようやく私の顔を見上げてきた。なぜ怒られたのかわからないという、不思議そうな目をしている。


「なんでぇ? なんでダメなのぉ?」


 秋の穏やかな陽光を反射して、まるで純粋さの象徴でもあるかのように、女の子の瞳はきらきらと輝いていた。私はその瞳に見つめられて、どうしようもなく目をそらしてしまいたい気持ちになった。


「可哀想じゃないか。蟻さんだって生きているんだよ。そんなことをしたら死んじゃうよ」


「しんじゃう? しんじゃうってなぁに?」


 女の子はあどけない表情で、真っ直ぐに私を見つめ返してくる。果たして私は「死」という現象を、この子にうまく説明できるのだろうか?


「いいかい。死んじゃうというのは――」


 視線を彷徨さまよわせると、さっきまで苦しみもだえていた蟻が目に入った。


「ほら、見てごらん。その蟻さんはもう動いてないだろ?」


 私が蟻を指差すと女の子はゆっくりと視線を動かした。


「その蟻さんは死んじゃったからもう動けないんだ」


 子供に説明するにはこれで十分だろう、と私は思った。なんやかやと小難しい言葉を用いたり、秩序立てて理論をね繰り回したりしたところで、到底それが効果的であるとは思えない。


「でもさぁ、ねてるパパ、もううごかないよ?」


「え?」


「じゃあさぁ、しんじゃうのとねてるパパはさぁ、おなじだよねぇ?」


「それは――」


 私は言葉を続けられなかった。死んでいることと寝ていることの明確な違いは何だ? 寝ている人間を見て「死んだように眠る」と表現したり、死んだ人間を見て「まるで眠っているかのようだ」と言ったりするではないか。そう考え出すと両者の境界線は至極しごく曖昧あいまいなものに思えてきた。


 子供相手に私は何を……馬鹿馬鹿しい。眠っている人間は呼吸をしているではないか。


「違うよ。寝ているパパは息をしているだろう?」


「いき? いきってこれぇ?」


 女の子は両手を口元に当ててハァーと息を吐いた後、クスクスと笑ってこう言った。


「おじさんさぁ、ほんとうはしらないんでしょぉ?」


 虚をかれた私はドキリとした。私が何を知らないというのだ。


「パパねぇ、いきしてなかったもん」


 そのような縁起でもないことを耳にして、私は不愉快な気分になった。ここは一つ厳しく教えさとさねばならないと思った反面、私は聞いてはいけない言葉を聞いてしまったような気がして、その場から逃げ出したい衝動にも駆られた。


「いい加減にしなさい。大人をから」


「ママがねぇ、こうやっておしてたんだよ。そしたらねぇ」


 私の言葉をさえぎって喋り出した女の子は、握り拳を両手に作ったかと思うと、今度は蟻の行列自体を勢いよく叩き潰し始めた。


「パパねぇ、ねちゃったの。ママがねぇ、いってたよ。パパはまいにちはたらいてるから、つかれてるんだってぇ」


 突然の空からの襲撃にすべも無く、蟻たちはただオロオロと不様ぶざまに逃げ惑っている。


「だからねぇ、ママはやさしいからぁ、パパにおやすみあげたんだってぇ」


 潰されても潰されても次々とやってくる蟻たちは、潰される運命を甘受しているようにも見える。


「アリさんもさぁ、つかれてるよねぇ。だからねぇ、おやすみあげてるの。やさしいでしょぉ?」


 女の子の純粋で残虐な行為に、いつしか注意することも忘れた私は、ただただ見入ってしまっていた。


「ねぇねぇ、パパとアリさんはさぁ、おなじだよね?」

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