獅子の子ふたり

 軍の一行は、街で一夜を過ごし、翌明朝に発っていった。


 立ち去る直前まで、指揮官コマンダントベイルは、父と何かを話していた。それが軍のことなのか、ウルグの街の“風”のことなのか、レオンには分からない。分からなくてもいいから、父の考えだけを知りたい、と思っていた。


 復隊など、今は考えられない。父の返答は、ごく簡単なものだった。復隊、という言葉を使ったのは、無意識だったのかもしれない。そして、今という言葉も。


 父が青竜軍アルメに属していた、ということは、知ってみれば意外でも何でもなかった。軍に旧友がいて、国内の状況にも明るい。考えてみれば、関わりがあって当然である。レオンにとっては、違和感がようやく拭えた、というくらいのものだった。ただ、今後どうするつもりなのか、ということだけは気に掛かる。


 しかし、レーヴェンの表情や振る舞いが、そのことを訊かせないようなものなのだ。派兵の件すら、あれ以来、口にしようとはしない。そうなると、レオンも何も訊けないのだった。


 少女のことも気にかかった。


 屋敷の使用人たちが世話をしている。レオンと父も、それぞれ様子を見ている。もう、眠り続けるようなことはない。食事も、初めは手を付けようとしなかったが、二日経ったころから、さすがに空腹になったのか、少しずつ口を付けている。言葉も、ほとんど口を利かないものの、問題なく話せるようだ。


 体温だけは、いまだに、はっとするほど冷たい。ふとしたときに、躰に指先がふれたりすると、その冷たさが分かった。


 ただ、記憶だけはどうしようもない。レオンやレーヴェンの名、使用人たちのこと、この街のことは憶えていっているようだが、自分のことになるとまったく、といった様子だ。そしてそれを尋ねると、決まって陰鬱な表情をする。思い出せないのだから当然だ、とも思った。しかし、次第に何かを尋ねることが辛くなる。陰りのある表情を見ていられないのだ。作りこまれた人形のような顔がそう見せるのか、悲壮なものはレオンにも痛いほど伝わってくる。


 そのうえ、少女の身寄りといえる人間も、まったく当てがなかった。あの村の生存者はやはり一人もおらず、密かに近隣の村に人をやって探ってもみたが、似たような容姿の者はまったくいなかった。


 銀の髪、青の瞳の人間など、見たことがない。まるで御伽噺だと思った。レオンの髪は黒いし、瞳は緑だ。父も同じで、他の人間も、大抵は似たような容姿をしている。街に行けば、金の髪の者や灰の瞳の者もいる。それと同じようなものなのだろうか。しかし、この容姿の娘を捜している者がいる、というような噂も情報もない。


 父は、無理に記憶を戻すようなことはない、と言う。死の風を思い出させて何になるのか、というのだ。うなずける部分もあるが、それでいいのか、とも思う。


 レオンが部屋に行くと、あの少女の姿がなかった。世話役のゲラルトもいない。屋敷の外を窺った。うまやの中に、人影が見える。そこに行くと、思った通り、少女と老人が二人でいた。秣を、馬にやっているように見える。


「馬の世話をさせるのか」


 レオンが尋ねると、老人は笑って首を振った。少女は叱られたように見上げるだけだ。青の瞳。ようやく、レオンもまともにその瞳を見つめることができるようになった。しかし、彼女が何かを話すことはない。


「何も決めておりませんよ。ただ、この子も何もせずにいるだけでは。様々なものに触れたほうがよいでしょう」


 そういうものか、と思った。それだけだが、少女は上目でレオンを見る。


「怖がることなどない」


 レオンは名を呼ぼうとして、口篭った。この数日、こういうことが、何度かある。名が分からないということの不便を、初めて体感した。もともと、わらべと接するのが得意ではない。話すべきことが見つからないのだ。しかし、この少女と自分が話せずにいる原因のひとつは、名前であろうとも思っていた。


「馬は好きか」


 レオンが尋ねると、少女は頷いた。ゲラルトが後を継ぐ。


「外に出し、どこに行きたいか尋ねると、はじめにここだと言いました」


「馬には乗れるのか?」


「それは」


 何か言おうとする老人を手で制する。少女が首を振った。やりとりは、できるなら直接行った方がいい。たとえ、言葉がなくても、それは大事なことだと思った。


 厩を出て、丘から周囲を見渡す。林の奥で、使用人たちが水汲みや木を割っているのが見えた。さらにその奥には牧がある。微かな声も聞こえる。父が、調練を行っているのだ。先刻始まったばかりだから、しばらく帰ってこないだろう。レオンも呼ばれていたが、踵を返して厩に戻った。馬具を引き出したレオンを、ゲラルトが妙なものでも見るようにしている。


「調練に行かれなくてもよろしいのですか」


「遠乗りをする。この娘も連れていくぞ」


「それは。旦那様がお許しになりません」


「様々なものに触れさせねば。おまえもそう言ったろう?」


 上着を持ってくるように言うと、ゲラルトは首を振って屋敷に入っていった。


 駈けたい気分だった。一度、林の中や丘を駈けて、すっきりとしたい。いろいろなことを考えすぎている。頭の中に、風を通したかった。


 ゲラルトが上着を二着持ってくる。少女の躰には大きすぎるが、毛皮で、暖かいはずだ。レオンは、それを少女の冷えた躰に掛ける。手を差し伸べた。


「来い。一緒に駈けよう。俺のことは嫌いかもしれないが、馬と一緒に走るのは、いいと思う」


 少女はレオンの顔を、目を丸くして眺めた。そして、馬の顔に目をやり、振り返ってゲラルトも見た。老人は肩を竦め、馬は言葉を返さない。レオンは、差し出した手をそのままにしている。


 白い、驚くほど白い手が、レオンの掌に触れた。冷たい。しかし、気にはならなかった。しっかりと握る。割れてしまいそうなくらい透き通った手だが、体温は、仄かに感じることができるのだ。


 少女の躰を、馬上に持ち上げた。馬は、動くことなく彼女が座るのを待っている。レオンも鞍に跨った。


 歩を進める。少し、脚を早めさせた。懐の少女が、躰を強張らせるのがわかる。大丈夫だ、とレオンは言い続けた。少しずつ、緊張がほぐれる。また脚を早める。少女の躰が固くなる。声を掛ける。繰り返した。並脚より少し遅い程度の早さで、いつの間にか駈けていた。丘を下りている。すれ違う人が、不思議そうにこちらを見ていた。街の中心とは反対の方向に行く。その先は林で、緩い斜面の小路が続く。そこを抜けると、開けた原野だった。


 小川に沿うようにして、林を歩いた。寒い季節でも、葉を落とすことのない木々が集まった林である。馬上で、レオンは少女に絶えず声を掛けた。とくに意味を持った質問や、会話をしようとしたのではない。ただ、大丈夫だ、とか、寒くはないか、とか、そういう言葉でしかない。


 馬の背に乗り、駈けることを楽しんでほしかった。少女は、応えられるときには、頷いたり、僅かに声で返答をした。


 そうしているうちに、原野に出た。背の低い草が一面に生えているが、季節柄、色は褪せたものだ。陽は、中空からやや西に傾いている。もう少し駈けてから戻っても、日暮れまでには街に戻れるはずだ。


 脚を早めた。速歩といったところだが、それよりは速度を上げない。同じ調子で、駈け続けた。少女はこれを楽しんでいるだろうか。声を掛けた。言葉が、返ってくる。調子は、明るくなっているような気がした。


 それからしばらく駈けて、なだらかな斜面の天辺で、馬を止めた。ちょうど、大きな岩があるのが目印で、レオンが気紛きまぐれで馬を駈けさせるときも、ここで引き返したり、休んだりしていた。


「大きな道が見えるか。“青の道ブラウ・シュトラーセ”といって、この国の北の果てまで続いているらしい。一日駈けると、東にあるのがハイデルの街だ。この辺りでは、一番大きい。その向こうには、また街があって、それを越えると、海に出るのだ。俺は、見たことがないが」


 レオンと少女は、馬に乗ったまま、岩の周りを、ゆっくりと回る。


「あの山を越えると、国では最も南のアイリーン領。さらに南には巨大な砦がある。その先は、赤の国」


 少女の反応はないが、独り言のように、レオンは続けた。なんとなく、彼女は聞いているように感じた。


「北の山が見えるだろう。あの麓には――」


 ウルグがある。いや、あった。言いかけて、めた。


「――“水の季節フリーレ”にあの山に入って、死んだ者もいる。だが、あの先には、また別の領地がいくつかあって、都もある。街道を使えば、山も越えられるそうだ」


 ほとんどは、父から学んだことである。地図と書物は、屋敷にいくらでもある。しかし、遠出といえば、ハイデルの街に数度行った程度のレオンにとって、それは想像の世界の話でしかなかった。


 自分は、領主レンスヘルの息子だ。だから、領地を受け継ぐのも、あの街を守るのも、自分の役目だ。レーヴェン・ムートの子であることを自覚したときから、同時に、そう思い定めている。ノルンの街から出ることは、今後も無いだろう。


 街の、他の若い者も、先のことなどほとんど考えないし、当然のようにノルンで一生を過ごすつもりだ。多くの者は、文字も読めない。遠くの国、遠くの街。見たり、聞いたりするのは、自分だけだ。いつからかレオンは、その話を誰にも――もちろん、父にも――しなくなった。なぜそんなことを、この少女に話しているのかは、自分でも分からない。


「海を見たい」


 唐突に、懐から少女の声がした。


「見たことがあるのか?」


「わからない。忘れているだけかも」


 ぽつりと、寂しそうに言う。胸が、締め付けられるように感じた。何もかも忘れた少女。しかし、海という言葉には、反応した。レオンにはそれが意外だったが、きっと何か意味のあることだ、と思えた。


 陽光が紅みを増していく。太陽は海に沈む、という。そして夜が訪れ、闇と寒さがやってくるのだ。赤い竜の創った太陽が、青い竜の創った海に消える。そこからは、青い竜の支配する時だった。いつか聞いた伝説を、レオンは思い出す。


「名は、思い出せそうか?」


 少女の応えはない。この問いを、レオンは数日ぶりにした。


 名を忘れる。父や母の名、もしかすると顔まで、忘れている。もしかすると、亡くしてしまっているのかもしれない。しかしそれも、わからない。


 なぜ自分がここにいるのか、それもわからないまま、何日も大人のあいだで過ごした。寄り掛かれるものもなく、世界にただひとりでいるような心地がしたに違いない。それがどれほど恐ろしく、寂しいことだったか。


 この少女は、自分と同じなのだ。父も母も亡くした、あの時の自分と。


「俺や、俺の父を、家族だと思えばいい」


 自然と、口をついて出た言葉だった。


 毛皮の外套が、少し動いた。レオンは顔が見えるように、それを除けてやる。あの青い眼が、自分を見つめている。


 馬から降りた。少女も抱え上げ、降ろす。いつかそうしたように、少女の眼と自分の眼が同じ高さになるよう、膝を折った。その肩に手を置き、レオンは瞳から眼を逸らさずに語りかけた。


「おまえのほんとうの家族の代わりにはならないかもしれない。それでも、一緒に生きよう」


 少女が青い瞳を見開いた。やはり、その光はレオンに向いてくるようだ。こんな眼は、おそらく他の誰も、見たことがないだろう。得体の知れないものを、内側に秘めているようでもある。

 レオンは瞬きをひとつした。これは少女だ。身寄りをなくし、頼れるものはいま、俺や父しかいないのだ。そう思うと、得体の知れないものは、見えなくなる。


「家族」


「そうだ。父はレーヴェン・ムート。“雪の獅子”と呼ばれるほどの戦士だ。そして、兄は俺だ。おまえには、父と兄がいる」


 こんなことを口走っていいものなのだろうか、とレオンはふと考えた。人を養えるような立場ではない。父が決めることであって、自分ではないのではないか。しかしそんな考えも、潤んだ瞳の前ですぐに消えていく。


「レオンが、わたしの、兄上になるのですか」


 少女が、顔をほんの少しだけ、紅潮させている。真白な肌に、僅かに色が浮かぶ。初めて見る。きっと、悪い感情ではない、と思った。


 名を、呼んでやりたい。しかし、彼女は忘れている。


「リオーネ、と名乗るのはどうか。“獅子の娘”という意味だ」


 咄嗟に考えついた名だ。しかし口に出してみれば、悪くないと思った。“獅子の娘リオーネ”。少女も繰り返した。


 いつか、自分と父のように、ほんとうの家族になれるかもしれない。まずは、自分がこの少女を愛することだ、と思った。そうすれば彼女も、自分たちのことを本当の家族だと思えるようになる。血は繋がっていなくても、心の底から、家族だと思えることがある。レオンはそれを知っていた。


 リオーネ・ムート。少女は何度も呟いた。外套の下で自分の躰を、細い両腕で抱きしめるようにする。父上。兄上。消え入りそうな声だが、たしかにそう言っている。その顔にまた、笑みが浮かぶ。


 陽はますます暮れて、青の竜の時がやってこようとしていた。海が満ち、月が現れる。


 おまえの時間だ。レオンは少女の肩に置いた手に、力を込めた。


 冷たさは感じない。




(水の季節  了)

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