第2話



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 旅に出る前のマーマン住んでいたのは、ファドの町からは北の方角に或る、半分以上が海に沈んだビルの中だった。そのビルの海から突き出た場所で、マーマンは世話をしてくれた博士と一緒に生活をしていた。海の生物の専門家だと言うその博士とは、ある日海に浮かぶ船の上で目を覚ましてからずっと一緒だった。それ以前の記憶は無い。自分の本当の名前も、それまでどんな生活をしていたのかも判らない。唯一解っているのは、博士が何処かでマーマンを助け出し、目覚めさせたと言う事だけだ。こうして一緒に暮らし始めた博士は、その時はまだ十代後半の少年だったマーマンをジュニアと呼び、様々な事を教えてくれたのだった。海に沈みかけたビルの住み家で、博士はこの世界を襲った異変やそれ以前の世界の様子をマーマンに話し、専門の海の生物の知識をマーマンに教えたのだ。そして博士所有の船やボートで海に出ると、食料となる魚を捕りながら海に潜る事や海の生き物達との触れ合い方を教え、時には船で海辺の町に向かい、一目を気にしながら町の店で買い物をしたりもした。特殊な笛を使って海の生き物である彼らに、ミュージシャンでもある博士が作った縦笛を使って呼び掛ける事も、博士から教わった事だ。こうして海で捕った魚やビル内部の野菜工場の野菜を食べながら博士の教えを受ける日々は五年間続いた。だがマーマンが青年に成長した時に、突然終わりを迎えた。黒い服を着た一団がやって来て、二人を連れ去ろうとしたのだ。マーマンと博士は追っ手から逃れようとして、ビルの中の階段を駆け下った。そしてそこから下は海の中と言う場所まで来ると、博士のロボット船に乗り込もうとした。

二人はおそらくかつてはバルコニーか何かだったのだろう場所まで走って来ると、そこに係留されているロボット船に飛び乗ろうとする。マーマンが先にロボット船の甲板に飛び乗り、博士がその後に続こうとした時、博士はばったりと倒れ、その後ろには、銃を持った黒服の男の姿があった。

「船の電源は動かしてある早く出発しろ! 行先は船のコンピューターに入力してある」

床に倒れたま博士は、顔を上げてマーマンを見ようとしながら、大声で叫ぶ。再び黒服の男に銃で頭を殴られるまで。殴られた博士が動かなくなると、黒服の男はロボット船に向かって走り出す。もう躊躇する余裕はない。マーマンはロボット船の中に入るとブリッジに行き、制御卓に向かうとロボット船のコンピューターに命令する。

「シテネラ、発進だ」

マーマンが命令すると、制御卓のカメラがマーマンの顔に照準を合わし、ロボット船を動かしているコンピューターがマーマンを確認した。

「はいマスター、今から目的地に向かいます」

渇いた声がブリッジに響き、ロボット船はバルコニーを離れ、一機に海面を滑り始めた。

 長年暮らしてしたビルが、遠く離れていくのに時間はかからなかった。出発してから数時間後には、マーマンを乗せたロボット船は、島影一つ無い海の上を走っていた。あの後、博士がどうなったのかは解らない。ただ覚えているのは、ロボット船が出発してからすぐに、何かが海に飛び込む音がしたと言う事だけだ。海に飛び込んだのが博士なのか、それとも黒服の男なのかば解らない。ただ解っているのは、もう博士には会えないだろうという事だけだ。それから一週間、マーマンは見知らぬ海をコンビューター船が進むがまま海を漂っていた。行先は解らない。ただ狭いロボット船の船室で寝起きし、博士がコンピューターのシテネラに入力した航路を進むだけ。これが一人ぼっちの旅の始まりだった。

 マーマンを乗せたロボット船は十日ほど広い海を突き進み、マーマンを博士がロボット船にプログラムしていた行先へと誘い、建物の廃墟が海底に沈むこの入り江へとやって来たのだった。そこはかつて博士が自分の研究所を構えてした場所らしい。入り江に入ると、なんと博士の研究相手だった*かれら*がマーマンとロボット船を出迎え、入り江の奥の、断崖絶壁が複雑に入り組んだ地形を作っている場所にマーマンを誘う。身体に博士の研究相手である証拠のタグを付けた*かれら*は、ロボット船の先頭を泳ぎ、高い崖の下にある海水が入り込む洞窟へと、マーマンとロボット船を案内してくれた。コンピューターのシテネラもどうやら*かれら*の後を追うように、プログラムされているらしい。彼等に先導されたロボット船は、やがてマーマンを入り江の点在する廃墟の間を通り抜け、崖の下に掘られて海水が流れ込んでいる洞窟の前に辿り着いた。そこで*かれら*と別れると、マーマンは船を洞窟の中に入れる。ロボット船がそのまま十分はいれるほど大きな洞窟は、かつては船の格納庫として使われていたらしい。中は船を係留しておく設備が全てととのっていた。しかもどういう仕組みになっているのかは不明だが、洞窟内部は天井に取り付けてある照明器具から作り出される光で明るく照らされている。マーマンを乗せたロボット船は、洞窟の中にすっぽりと納まると静かに動きを止めた。どうも此処は博士がロボット船にプログラムした目的地の様だ。船の窓からは、天井の照明に照らされた洞窟の内部が見える。マーマンはロボット船が洞窟の壁に段差を付けて作られた岸壁に接岸したのを確認すると、まずブリッジでロボット船の電源を切りにかかった。

「シテネラ、シャットダウンだ」

「承知しました。まずは認証を開始します」

マーマンがコンピューターに命令すると、制御卓のカメラがマーマンの顔に照準を合わせた。ロボット船の電源を切るには、まずコンピューターに登録された人間であることを確認されねばならなかった。

「顔と網膜パターンの確認を終わりました。次にカメラに手を翳してください」

マーマンの顔の確認が終ると、シテネラはマーマンの証文の認証に取り掛かる。

「全ての認証が終りました。シャットダウンします」

マーマンが登録されているのを確認すると、シテネラは電源を切り、船の中が一気に薄暗くなる。電源が切れたので、船内の明かりが非常用の照明になった為だ。これでコンピューターに登録された人間がスイッチを押すまで、ロボット船は誰にも動かせなくなったのだ。登録されていない人間がスイッチを押しても、コンピューターは完全には起動しない。

船内が完全に静かになったのを確認するとマーマンは、船を出て岸壁に移り、ロボット船をしっかりと係留すると、船に積んでいた荷物や食料を岸壁に降ろす。そして洞窟の壁に掘られた階段を見付けるとその階段を、洞窟の外に上がって。階段を上がり、地面に開いた穴から顔を出して見た場所は、崖の下に海を臨む荒れ果てた場所だった。僅かに草が生えているだけの崖の上の荒れ地に、朽ちかけた灰色の建物がぽつりと立っている。マーマンは穴を出て用心深く建物に近付き、そっと入っていく。これが博士の研究所なのだろうか? 建物の中は何やら解らない機材が置かれていて、その真ん中に置かれた机の上には、一枚の写真と小さな本があった。手に取って見ると、若い男女が写った写真だった。男の方は幾分若く見えるものの、間違いなく博士だ。やはりここは博士の研究所だった。しかし博士と一緒に写っている女性には見覚えが無い。博士の妻が恋人なのだろうか?

仲良く並んでいる二人は夫婦のように見える。でも博士からは、妻の話しなど聞いた事はない。博士は自分の事をあまり話さない、謎の多い人だ。この写真は、そんな博士に謎を一つ付け加えたようだ。マーマンは写真を机に戻すと、今度は本を手に取って開いてみる。どうやら詩集らしい。持っていたら、退屈しのぎにはなりそうだ。マーマンは詩集を上着のポケットに入れると、研究所を出て洞窟に置いてある荷物や食料を取りに行く。

荒地に開いた穴の中にある階段を下りて洞窟に入り、係留しているロボット船の前に置いてある食料や荷物を一つずつ地上へと運び上げていった。荷物と博士がロボット船に置いてくれていた現金を全て地上に運びだすと、マーマンは洞窟で眠っているロボット船にそっと声を掛け、穴の傍に置かれていた穴の蓋で洞窟への出入り口を閉じ、その上に軽く土を掛けておいた。これで地上から洞窟へは入れなくなった。海から洞窟に入るには、船で断崖絶壁の入り組んだ場所を通って行かなければならない。多分、彼らの案内無しには洞窟の入り口まで来る事は不可能だろう。安心して研究所で生活することが出来る。そう思って研究所での一人暮らしを始めたマーマンだったが、たちまち研究所の暮らしが容易ではないのを思い知らされてしまう。博士の研究所はもはや完全に廃墟と化していて、とても生活できる場所ではなかった。しかも食料は、ロボット船に積んでいた物だけだ。しかも海で魚を捕る道具も無い。食料が無くなる前に、研究所を出るしかなかった。しかし何処へ行けばいいのか……。いや、その前に今いる場所がどんな場所かも解らない。マーマンは研究所に置かれていた本やノート、書類の類を調べ回り、研究所の周囲を歩き、自分が居るのが海辺にあった大きな町が、人間が起こした異変により海に沈んだ場所だと言う事を知ったのだった。

人間達によって引き起こされた地殻変動が大地を引き裂き海に沈め断崖絶壁に囲まれた入り江に変えると町をその記憶ごと地上から消してしまったのだ。後に残ったのは、町を沈めた海とその海を望む荒涼とした土地だけ。人々の姿もなくなったのだ。しかし暫くすると、人の住めなくなったこの土地にやって来て住み着いた人々がいた。発掘人達だ。廃墟の中にある資源を求めてやって来た彼らが入り江の近くに住み着き、町を作っているのを知ったマーマンはその町に行こうと思い立ち、研究所を痕にする。しかし地上からその町に往く道はあまりにも遠すぎたので、マーマンは海から町に行こうとした。断崖絶壁に沿って歩き続けると崖が緩やかになり、下の砂浜まで楽に降りられる場所に辿り着く。博士の残した地図よると、その砂浜に博士のもう一つの研究拠点があるらしい。しかし崖の斜面を下って砂浜に辿り着いても、建物らしいものは見当あたらない。狭い砂浜には、何かがカバーを被せられて置かれているだけだ。マーマンがカバーの端に置かれた石を取り去ってカバーを捲り上げると、一艘のボートと、ボートに置かれた笛が姿を現した。それはマーマンが博士と一緒に暮らしていた時に、博士から動かし方を教えてもらったボートとほぼ同じ形だった。そう言えば博士は、この様なボートを研究仲間と一緒に幾つか持っていて、海の生物の観察に使っていたと話していた。海岸に置いてあるのは、その中の一つなのだろう……多分。それなら、使ってもいいだろう。マーマンは軽くて丈夫なそのボート持って来たわずかな荷物と食料、そして現金を乗せ、砂浜から海まで押していくと、海に浮かんだボートに乗り込み、博士に教わった通りに動かす。こうしてマーマンは再び海に出て、ファドの町を目指してボートを進めた。

砂浜から離れ、再び侘断崖絶壁が入り組んだ海を進むと再び*かれら*が姿を現したマーマンと再会したかれらは、マーマンの乗るボートを先導するようにボートの前を泳ぎ、マーマンも*かれら*の後を追うように、ボートを動かす。十数時間ほど*かれら*の後を追うと断崖絶壁を離れ、遠くに陸地を望む海原に出る。そしてボートをその陸地に向けて進めていると、大きな船と出会った。海辺の町へ行く貨物船らしい。貨物船がボートに近付いて来ると船の姿を恐れたのか、*かれら*は姿を消してしまった。*かれら*と別れたマーマンは、貨物船の後を追ってボートを走らせ、ようやく海辺の町の船着き場へとたどり着いたのだった。町にはいるとマーマンは、とりあえず博士が用意してくれたお金でパンを買って腹を満たし、宿を借り、町の中を歩き回った。これから自分がどうすれば良いかを探る為に……。そして過去の文明の遺物を発掘する発掘人達と出会い、数か月間を彼らと行動を共にし、発掘人の仕事を覚えた。そして発掘人の仕事を一通り出来るようになると、海に出て仕事をするようになったのだ。ファドには海に出で仕事をする発掘人は無く、ボートと博士から教わった潜水技術を持つマーマンは、誰にも邪魔されずに仕事が出来たし、なによりもマーマンには*かれら*の助けがあった。*かれら*はボートにあった笛の音を聞くと姿を現し、海に潜って遺物を探すマーマンの仕事の手伝をしてくれる。さらに発掘人達に伝わる、海に沈む廃墟の話しがマーマンを海へと向かわせていた。入り江を行き来する船乗りたちの間で噂されているその廃墟は、地上に立っていた時と同じ様に、海底に立っているのだと言う。おそらく向かいの遺物を沢山抱えながら。海に潜ってその廃墟を見つけ出し、中に入る事が出来たなら、どれほどの稼ぎになることか。いやそれ以上に、海に取り残された建物で暮らしていたマーマンにとって、海の中に建物そのものが興味を魅かれる存在だ。この時から海の廃墟を探すのが、マーマンの目的となった。そして海に潜って仕事をする事が町に知れ渡ると、いつしか人魚男{マーマン}と言う呼び名で呼ばれるようになり、その名を使って海辺の町から町へと移動しながら、海での仕事を続けたのだ。ファドの町はマーマンにとっては五番目の町だった。 

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