雨森老人 -Amenomori old man-


 雨森老人の死後、彼の家には、政府の人間や研究者が、密かにそして大勢、おしよせたそうです。

 彼の家は、誰も住まない山の奥にありました。その家というのは、人ひとりが住めるのにやっとな小さな木の家です。家というより庵と呼ぶほうがよいでしょう。周りには自然以外に何もありません。

 標高で云うと千二百くらある山の、六百くらいのところ、まさに中腹という所にこの庵をこしらえました。この庵を作ったのは彼の古い友人であると云われています。実際にはその人もすでに亡くなっていて、どうもはっきりとは分からないのです。


 雨森老人がこの庵に住むようになったのは、彼が二十五歳のころ。それ以降彼は人に会っていません。実際にはいくらかの交際をやめない種類の人(兄弟や、学生時代の理解者)には会っていたそうです。が、大学で認められた学問を、どこへも出さず、黙々と深めて広めて、ただそれに従事する人生に徹底しました。そんな風でしたけれども、やはりいつになっても、誰か一人か二人は雨森老人のことを気にしていました。それは学問の面においても、健康や精神の面においても、です。それは、雨森老人が、悪い人ではなかったからです。


 部屋にあった大量の資料は、今やもうありません。根こそぎ、どこの許可もなく彼らは持ち去ってしまいました。その情報が世に出ることは、少なくとも当分はないでしょう。それらの資料というのは、色鉛筆やパステルで、理論や図式、数式いたずら書き落書き、日記、詩、曼荼羅などが描いてあって、それらを読み解こうとすると、まず、どれがいつか書かれたものか、どれとどれが繋がっているのか、どのように関係しているのか、そういうこと調べるところから始めないといけません。

 彼の学問のいくつかを並べます。


「宇宙は檸檬と同じ紡錘形の形で、それが蓮根のように連なっている。そしてそれ自体は二重螺旋。宇宙外宇宙で蠢いている。宇宙外宇宙はレンズの形である」

 雨森老人のもつ宇宙観であり、すべてではありませんが、彼の学問はこういう宇宙観のなかに展開されており、時間・空間・存在・非存在・生命・因果、これらの前提として設定されています。彼のこういった宇宙観は、大体がこの庵に住み始めてから創り上げられたもので、それまでの彼の理論と見事に合致するところもあれば、少しずれたようなところもあります。けれど、彼の学問は、この〈雨森紡錘‐レンズ宇宙観〉の発見により、より一層の広がりと、進展を見せました。


「太陽は心臓。地球は脳。月は目」

 一つの哲学として記されたこの短いフレーズは、彼の描いた絵画を並べてみても明らかなように、彼の芸術的霊感のモチーフとなりました。無機物に生命の法則を当てはめる彼の絵画は、単なるアニミズムとは少し違って、より大局的な、大雑把な構造を持ちます。そこに魂があるとみるのではなく、それよりは少し機械的な連動としての生命化なのです。

 雨森老人は木の葉や、雲、月などに波形を見つけました。この波が、これらの無生物の生命的連動のしるしだとして、様々なところに書き記しています。


「円錐型座標を用いた時間理解法」

 雨森老人の解く時間というのは、非常に理解に難しく、かつ単純ではありません。彼は時間のその理解法を図に表そうとしました。そこでいかに三次元に落とし込むかという努力を、苦心惨憺やっており、その結果はついに完成したのかどうか、あとに残された紙を読み解く我々にはまだ辿りついていません。しかし何度も何度も繰り返される円錐形座標には、時間の有限性と、空間と、もうひとつ高い次元との融和を試みており、それを解き明かすためには、このほかの彼の学問を順々に解いていかないといけないように思われます。


「《マグリット理論》を《限界相対性理論》に組み込む」

 彼の発明発見のなかでも最も革命的で偉大なものの一つに数えられるこの功績は、未だにその衝撃を世界に走らせ続けています(とは云え世間一般には全く膾炙することはないままです)。彼は現象としてのこの世界、実存在を裏返し、その裏に隠れていたいくつもの高次元、運動因果を掘り出して、その実態を記しました。驚くことに、それらに主だった法則はなく、実に様々な状況、条件それぞれにおいて、それぞれの働きをするのです。その虚無限的な原子の姿とその運動を、彼は逐一観測、記録しました。


「銀河の中身はフィルムである」

 一つの彼の哲学です。彼は実に映画好きで、その感覚を彼の過去とその時間の意味り理解することに利用しました。彼にとって過去や、現在、それとそこに付随する「意味」は重大な問題で、彼は殊にこの「意味」というものに頭を悩ませました。そんな彼にとって映画のフィルムは格好の材料でした。彼は彼のなかで意味や理由が撹拌しやすいのに悩み、目のまえでほどける過去をどうにか繋ぎ止めようと、フィルム的記憶法を用いました。けれども、これはわりに若い頃の彼の発明であり、晩年の彼はそう言って意味から解き放たれた、哲学的に自由な空間に生きました。彼のこういった価値の転換は往々にしてあります。それは多く彼の苦悩を感じるよい資料となるのです。


 こういった様々なことを、彼は孤独に、着々と解き明かしました。床に並べた大量の紙とにらみ合い、木と語り合い、天気と心を通じ合わせて。そこにあったのは、学問や芸術、哲学やその他の色々な事、それらの一番純粋なところを追求したいという彼の願いであり、それらと自分の心を繋げるという感動でした。

 このように積み上げられた論文やメモ、書き物・絵画のほかに、重要な資料として日記があります。日記は彼自身を読み解いたり、彼の発明発見がどのようなところから着想を得たのか、どう発想したのかを知るのによい手掛かりになるのです。

 

 雨森老人の日記より抜粋・編集


 歳のころ六十にも近づいたある日、雨森老人は森を歩きました。これはいつもの習慣です。彼の一日の過ごし方といえば、朝は日の出の少し前に目を覚まし、まず最初に読みかけの小説を読み進めます。このれらの小説は彼の友人が二週間に一度届けてくれます。読む速度はとても遅く、一日に三十ページ、多くて五十ページ。海外の小説が多く、時に日本の古典や古い文学、彼は新しい小説はあまり読みません。読み終えると、そのまま日の出を迎えます。

 彼はその読んだ本によって感じたことや、思いついたこと、どうでもいい事柄からそうでないことまで、昨日一日過ごしてのことをまとめて日記に記します。それから彼は質素な朝食を済まし、家の周りを歩きます。このときはまだ森へは足を踏み入れません。家の周りに勝手に咲く花や、朽ちてきた弱い木、気になる形の石なぞを眺めて、少し体を動かすとすぐに部屋へと戻って研究に着手するのです。

 いちど学問を背負いこみ、紙へ向かうと、彼は時を忘れます。その間隔がいくらか日記にも表れており、彼はその現象を、精神を海の中に投げ込むようだとしました。

 そうして腹が鳴っても、風が吹いてもペンを動かし、頭を悩ませ、図鑑をめくり、発想を追求します。そうしてはっと気がつくと彼は立ち上がり、家を出て散歩にむかう、このような流れであったようです。

 そのはっと気がつく瞬間が訪れるともう何も浮かばず、何も進まずと彼は言い、森へ潜ってその日いちにちの働きを感謝の気持ちで清算するのです。


 その日は美しく晴れており、風も人や自然を責めるような風でなく、やさしさで守るような風でした。葉も嬉しそうにかさかさと身をふるって、水のような音を鳴らしました。それには小鳥も嬉しそうで、けれど彼はそのようなことに特別性を感じるのではなく、あくまで平常心でめきめきとあゆみを進めてゆきました。

 いつも、前半は同じ道である程度まで奥へゆき、それから後半になって行ったことのない方向へ曲がって進むのですが、この日も同じように歩いて、そのさきで雨森老人は細くて低い白い木を見つけました。

 その高さは彼の胸の辺りまでしかなく、そして葉っぱも、丸くて硬い緑色のが四枚ついているだけでした。枝は三つに分かれていて、それぞれ細く折れ曲がっていました。そして彼はそこで立ち止まったのですが、その木の下に何があったかというと、そこには少年の死体がありました。

「こんなところに、」

 都雨森老人は言いました。

「こんなところに、捨てられてるのか、それともこの少年がここまで一人できてのたれ死んだのか。それにしても、美しい」

 そうなのです。そこに横たわっている少年は、少しありえないくらいに美しい少年でした。色は星のように白くって、体は肉の付いていない健康的な細さでした。少年は消えた宝石のようにそこに横たわって、まったく動きませんでした。

 少年の死体は新しく、ただ人の気配がないだけでした。老人は腰から紙と硬筆を取り出すと、すぐに少年のスケッチを始めました。その光景が彼に何かの霊感を与えたのです。

 スケッチは空が滲んで薄暗くなるまで続きました。老人は髪に引かれた線が見辛くなるのに気がついて、その場を離れて帰りました。夜はぐっすり眠ることができました。

 それから一週間後に、老人は再びあの場所を訪れました。少年はやはりいたのですが、前よりずっと朽ちていて、もうすっかり生きているのとはかけ離れた位置に彼は眠っていました。

「人というのは、いいや、生物というのは、一体どういう奇跡なのであろうか」

 彼は少年のスケッチを、その日も暗くなるまでするのでした。

 それからたびたび、老人は少年の元へ訪れました。少年はそのたびごとに腐敗してゆくのでした。それを老人は、毎回毎回見事な色彩でスケッチしていったのです。時には完璧なデッサンで、時にはシュルレアリスムな発想の中で、空から降ったような色合いで塗ったり、線を束ねて形を浮かせたり、それらは様々で、一日に彼は三、四の手法で色々と画世界を試みました。それらの絵は、彼の日記のその日のページに、その都度挟まれました。

 紫色と桃色と、黄色。またある時は薄橙に赤。



『もう骨だけになった少年を集めて穴に埋めた。彼はわたしであった。わたしは彼のなかに私自身を写して眺めていた。ほんとうの感動は私自身をわたしのあずかり知らぬところの力で、そのうえ私じしんのこの手でその存在とたもとを分かつことである。』


『十四のころの若い恋が現在同時にあるように思われた。追憶とはかけ離れた経験としての体験である。はたして特別な事とは何であるか、そのようなものは一切ないとさえ考えられた。言い換えればすべて特別であると。けれど、わたしはそうではない特別な特別に出会いたかった。わたしはそれを今初めて手に入れそして捨て去るのである』


『彼はすでに、常に瞬間とともに更新される記憶の流れのない存在となったのだ。過去現在未来すべてと、この世の端から端まで同時に知覚する。全身が目であり目ではない。知覚や感覚において可能性が制限をうけない。我々は彼のことを表象として知覚するが、その内存在を見ることは不可能なのである』


 老人の日記には、少年との邂逅より以後、その心の人恋しさを感じられることが書かれ、それまでの学問的自己反省とは別種の反省が吐露されています。老人は自らを泉に例え、そのそこに沈む手の届かない超自我や、それに付随する世界理想、そこから湧き上がる泡として、人間の本存在としての対実存の関係を記しています。老人は少年を舟に見立てて、自意識を地に眠らせました。


『我々はそして森から抜け出して、空間に満ちる不定形の水として生きることでしか、無美的幸福感を感じ得ないのである。心臓からは透明な水が流れる。極端にそう考え、この肌を光に透かして、究極的には自らその名前すら透明にしてしまうのである。一息が非常に静かで、当たり障りなく、それでいて正しくしている。そういう存在である。

 わたしは長らく間違っていたのだ。無意味なイデアを追っかけていた。水を求めて幻想に馬を走らせるように。蜃気楼に手を伸ばすように。わたしは少年と一緒に朽ちて死んだ。森に消えた。実に美しいことであった。これほどの時間に見合うほどに』


 老人は穴を埋め終えたとき、涙を流したそうです。三粒の静かな涙を。理由はわからなかったとだけ書きました。彼はそれを宇宙や物理の法則、心理学や観念哲学のすべてを超越した、大いなる感激と、出会いであるとして、浄土に覆われた生きた少年の絵を、水のように薄く美しく描いたのでした。

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