猫はコタツで丸くなる ――アメリカのともだち――

烏川 ハル

アメリカの猫と日本の猫、野良猫とペット猫。

   

 これは、アメリカの田舎町で一人暮らしをしていた頃の話だ。

 俺が住んでいたのは、北アメリカ大陸ではあるが、その中でも南の方。気温そのものは高いが、カラッとしているために、夏でも蒸し暑くは感じない。体感気温としては日本よりも涼しいほどであり、また冬になっても、雪が降るのは一年のうち一日か二日くらいという、なんとも温暖で過ごしやすい地域だった。

 州都から車で二時間の距離にある、緑あふれる町。鉄道は貨物線しか走っておらず、公共交通機関はバス頼り。市内を走るバスは二種類あったが、片方の会社は平日しか運行せず、もう片方は一応週末も動いているものの、本数は激減。

 ……と、こう書き記すと、日本の感覚では、かなり辺鄙な田舎だと思われるかもしれない。だが、近隣の街には一つずつしか存在していないような大きなスーパーが――Wで始まる名前の有名なスーパーが――、市内に二軒もあったので、それなりの規模の町ではあったのだろう。


 そんな田舎町で、俺が一年目に借りていたアパートは、職場である大学の研究所から徒歩で十五分くらい。まだアメリカに渡ったばかりだから車もなく、行動に不自由な部分もあったが、それでも楽しめる範囲で異国暮らしを楽しんでいた。

 毎日の通勤で歩く道は、バス路線にもなっている大通りだが、まるで林の中を進むがごとく、右を見ても左を見ても緑の木々が視界に入ってくる。もうそれだけで心地よく思えてくるのは、俺が単純な人間だからだろうか。

 研究所とは反対方向に十分くらい歩けば、大学が管理している湖があり、ちょっとしたレジャースポットになっていた。湖畔を一周したら三十分か一時間くらいという規模の湖だが、だからこそジョギングコースには最適らしく、大学生くらいの若者たちが健康そうに、元気よく走っていた。

 また、釣りを趣味とする俺にとっても、都合の良い湖だった。さすがアメリカだけあって、シーズンともなれば、少しルアーを投げただけで、ブラックバスが簡単にヒットする。

 一度のキャストで同時に、二匹のブラックバスが釣れたこともあるくらいだ。ルアーの後ろに毛針フライをつけていたせいもあるだろうが、それでも俺自身「ルアーフィッシングで一荷なんてあり得るのか!」と驚いたし、近くで日光浴をしていた見知らぬ白人女性から「わあ、凄いね!」と声をかけられたのを覚えている。

 また、それこそシーズンではなくても、ブルーギルの仲間ならば、ほぼ一年中釣れる状態だった。日本のブルーギルとは違い、少し大きめのタイプのギルが。


 そんな感じでアメリカ生活を満喫していた、ある日のこと。

 アパートの裏庭で――駐車場と言うべきかもしれないが――、猫が歩いているのを見かけた。茶色の毛並みをした猫だ。

 いや、猫を見かけるそれ自体は、珍しくない出来事だった。ペットの飼育は禁止されているアパートだが、野良猫に餌をやる住人は複数いたらしく、色々と猫がうろついていたのだ。

 まあ俺も普通に猫は可愛いと思うのだが、実は、猫には嫌な思い出もある。

 それは、大学生だった時……。


――――――――――――


 大学に入って、一人暮らしを始めた一年目。

 後期合格で、それから急いで探した部屋だった。だから一年目に俺が住んでいたのは、大学から少し遠い――自転車で二十分くらいの――学生向けマンションだった。

 そう、学生向けとはいえマンションだ。アパートで十分なのに、急いで探したら、そんな物件しか見つからなかったのだ。住人の多くは、それなりに裕福な学生だったらしく、俺の隣の部屋の学生なんて、猫を飼っていたくらいだった。

 白と灰色からなる、一匹の子猫。俺は猫の種類には詳しくないので、それ以上はわからないが、いかにもペットという感じの、可愛らしい子猫だった。時々、俺の部屋のベランダまで来ることがあり、俺は遠目で微笑ましく眺めていた。

 一方、俺自身は、動物を飼ったりはしなかった。一応、ペット禁止のマンションなのだ。

「これくらいはペットのうちに入らないよなあ?」

 という勝手な判断で、コイやフナを――自転車で行ける範囲の川で釣ってきた魚たちを――飼っているだけだった。


 そんなある日。

 コリコリと、窓を叩くような、引っ掻くような音がする。何かと思って見てみれば、また隣の飼い猫が俺の部屋のベランダに紛れ込み、しかも今日は、律儀にガラス戸をノックしていたのだ。

 なんとも可愛らしいではないか!

 心が癒された俺は、少しだけ窓を――ベランダへ出るためのガラス戸を――開けてみる。すると、猫が手を差し入れてきた。

 おお! ますます可愛らしい! さすが飼い猫、人懐っこい!

 そう思って、俺も手を伸ばしたが……。

 残念ながら、俺の方には見向きもしない。猫の手は、俺ではなく、別の方角に向けられる。

 ……ん? 猫のお目当ては、いったい何だろう?

 自分の部屋の中を見回して……。

 ここで俺は、ようやく理解する。子猫が狙っているのは、魚が泳いでいる水槽だということを。

 確かに、水槽はベランダの近くに置いてあった。掃除や水替えをベランダで行うために。

 子猫は今、ニャーニャーと鳴き声まで上げながら、細い隙間――俺が少しだけ開けたその『少し』――から、手だけでなく体や顔まで突っ込もうとしている。全身全霊で、水槽の魚に手を届かせようとしているのだ。

 確かに、子猫が必死に頑張っている様子は可愛らしい。

 しかし!

 冗談ではない!

 俺が飼っている魚たちは、猫の餌でもなければ、玩具おもちゃでもないのだ!

 慌てて俺は、子猫を押し出して。

 ガラス戸を固く閉めて、カーテンも閉じる。

 以降、ベランダの子猫は、俺の敵になった。


――――――――――――


 というわけで。

 本来、猫は俺にとって敵側の動物だったはず。特に、アメリカでも俺は水槽を購入して、近所で釣ってきたブルーギルを飼っていただけに。

 ところが。

 この時は何故か、その茶色の猫を見ても、敵認識は出来なかった。

 もしかすると、その野良猫が、妙に痩せていたからかもしれない。それに、そういう目で見ると、いくらか歩き方が弱々しい気もしてくる。明らかに、戦闘意欲ではなく庇護欲を掻き立てられる対象だった。

 いや『庇護欲』とも、少し違うような……。

 むしろ、親近感を抱いた、というべきだろうか。

 アメリカでの俺は、ポスドク研究員として働いており、契約期間は一年や二年という短いスパン。それを更新する形で、契約が延長される。逆にいえば、雇われ続ける保証のない、先行き不安な身の上だった。

 しかも当時は、ちょうど与えられた研究テーマが上手くいっていない時期だったと思う。

 そんな俺自身の焦燥感を、元気のない野良猫に対して、勝手に重ねてしまったのかもしれない。


 まあ、俺の深層心理はさておき。

 猫と目があったので手招きしてみたが、ある程度までは近づいてくれるものの、手が届く距離までは来てくれなかった。

 しかし、何とかして仲良くなりたいものだ。

 そう思った俺は、料理の食材としてツナ缶の買い置きがあったことを思い出す。野良猫を餌付けしよう、という魂胆だ。「猫には魚だろう」という単純な発想で。

 まあ愛猫家に言わせると「猫に人間用のツナ缶を与えてはダメ! どうしてもあげるなら、ごく少量!」ということらしいが、当時の俺には、そんな知識はなかった。そもそも本当に食べてくれるかどうか、それもわからない状態であり……。

 俺と野良猫の間に、缶から出したツナを少し置いてみる。食べてくれないと無駄になってもったいないので、あくまでも少しだけ。

 だが野良猫は、ツナが視界に入っても、近寄ろうとはしなかった。いや、正確には、少しは近づこうとする素振りも見せるのだが、なんだか躊躇しているみたいだ。

 ……自分で食べ物を漁る野良猫だけに、人から餌をもらうのに慣れていないのだろうか?

 そう思って俺は、餌を置いた位置から、さらに遠くへ離れてみる。でも、まだ駄目だ。

 今度は、姿を隠すことにした。外階段のかげに隠れて、そこから様子を覗き見る。例えるならば、ひとり孤独に野球少年が練習するのを、柱のかげから見守るお姉さん。あんな感じだ。

 すると。

 そろりそろりと、野良猫はツナに近づいて……。

 ようやく食べてくれた!

 やった!

 喜んで俺が階段のかげから飛び出すと、猫は食べるのをめて、走り去ってしまった。

 ……食事の邪魔をしてしまったらしい。すまん。


 それから数日もしないうちに。

 また同じ、茶色の野良猫が現れた。

 今度も、俺は隠れて餌をやる。

 それを繰り返すうちに……。

 餌を食べている間に俺の姿に気づいても、野良猫は逃げずに、食事を続けるようになってくれた。

 進歩したではないか! この程度の話、愛猫家ならば小さな進歩かもしれないが、俺にとっては大きな進歩だ!


 満足した俺は、さらに欲が出てきて、新たな目標を立てる。

 第一目標、猫をナデナデすること。第二目標、俺の手から直接、餌を食べてもらうこと。

 目標クリアのために具体的に何をすれば良いのか、特に思いつかなかったが……。

 結局。

 時間が経つにつれて――餌やりの回数を重ねるにつれて――、俺と野良猫の距離は、少しずつ縮まっていったらしい。

 特に策をろうすることもなく、しばらくしたら、第一目標は達成。近寄ってきた野良猫に、俺は触る事ができた。

 猫はモフモフな生き物。

 そんな先入観を持っていた俺は、野良猫の背中を撫でて、驚いてしまった。全く『モフモフ』ではなかったのだ!

 もちろん、茶色い体毛には包まれている。だが、俺の手に伝わってくるのは、毛並みそのもののモフモフ感ではなく、その下にある背骨のゴツゴツとした感触だった。

 そう、最初に見た時に感じたように。

 触った事で、改めて実感する。この野良猫は、極度に痩せた個体だったのだ……。


 その後。

 第二目標もクリア。つまり、俺の手の上に載せたツナを、猫が食べてくれるようになった!

 ザラッとした舌触りで、ペロペロと指を舐められて。

 この段階まで来ると、この野良猫のことを俺は、勝手に友だちだと思うようになっていた。

 もちろん『勝手に』であり、一方的な気持ちに過ぎない。いわば片思いだ。『片思い』なんて言葉、普通は友情ではなく恋愛感情に用いる言い方だから、少し奇妙かもしれないが。

 そして、一方的な気持ちといえば……。

 友だちならば、ぜひ我が家に招待したい。

 そう考えてしまったのは、俺の欲張りだろうか。


 本来。

 愛犬家や愛猫家のやることを、俺は理解し難いと思ってきた。

 散歩などで外を歩き回っている、ペットの犬や猫。それをそのまま部屋に上げる……。なんとも不衛生な話ではないか、と感じていたのだ。

 しかし。

 ここはアメリカ!

 人間の中にすら、土足でカーペットに上がる者もいる国!

 それを考えれば、猫なんて可愛いものだ。


 今まで述べてきたような俺たちの――俺と野良猫との――付き合いは、全てアパートの裏側にある駐車場で行われていた。表側にも駐車場はあるのだが、そちらでなく、俺の部屋が面した方の駐車場。

 だから今度は、完全に室外に出て餌をやるのではなく、部屋の出入口に跨ったまま、餌を載せた手を外へ伸ばすようにしてみた。

 それでも、もう友だちになった野良猫は、同じように餌を食べてくれる。

 これならば上手くいきそうだと思い、俺は同じ格好のまま少しずつ、そろりそろりと後退していく。つまり、部屋へと入っていく。そして、俺の手が完全に室内に吸い込まれ……。

 つられて猫も、俺の部屋に足を踏み入れるが、カーペットに足の裏が触れた瞬間。

 ビクッとした反応を見せると、猫は食事を放棄して、逃げ去ってしまった。

 うぅむ、残念。

 部屋に入ってすぐの位置には、ブルーギルが泳ぐ水槽もあったのに……。この野良猫は、そういったものには魅力を感じなかったらしい。大学時代の隣室の、あのペット猫とは違って。


 それでも。

 同様の試みを続けるうちに、だんだん猫も、俺の部屋に入ることに躊躇しなくなって……。

 いつのまにか、体の半分以上が室内に入ってしまっても気にせず食べ続ける、というほど馴染んでくれた。

 ならば。

 もう少しだけ欲張ってみよう。

 体の一部が外に残ったままで、しかもドアが開いていたら、それは家に招き入れたことにならないよね?


 そんな考えから。

 ある日、ついに野良猫が完全に室内へ入ってくれたところで。

 こっそり俺は、ドアを閉めてみたのだ。

 ところが、その瞬間。

「……!」

 猫が暴れ出した。

 いやもう、この猫の一体どこに、これほどの元気があったのだろうか。

 感嘆してしまうくらいだった。

 同時に。

 俺の部屋をドタバタ駆け回る猫を見て、ふと考えてしまう。「犬は喜び庭駆け回り」の「駆け回り」は、こういう勢いなのだろう、と。

 いや、もちろん俺だってわかっている。この野良猫の場合、別に喜んで駆け回っているわけではない。むしろ反対だ。

「嫌だ嫌だ! 出口どこ? ここから出して!」

 言葉が喋れたら、そう訴えていたに違いない。

 さすがに俺は申し訳ないと思って、すぐに扉を開いた。

 室内を駆け回るうちに方向感覚も失っていただろうが、外から差し込む日の光で、そこが出口だと理解したらしい。飛ぶようにして猫は部屋から出て行き、遠くへ走り去ってしまった。


 俺の渡米が六月だったから、こうした猫との交流は、初夏あるいは真夏の出来事だったと思う。

 その後、この室内監禁事件――とはいえ『監禁』状態は一瞬だったのだが――をきっかけに、俺と猫とは疎遠になってしまった。もう俺を見ても近寄らず、餌も食べてくれなくなったのだ。

 せっかくの友だちを失った。

 俺は酷く悲しんだものだが……。


 やがて。

 仕事が軌道に乗り始め、また生活面でも、時間と共にますます異国暮らしに慣れていく。

 自家用車も入手して、行動範囲も広がった。人間の友人も増えて、二人で頻繁にドライブへ行くような間柄の友人も出来た。

 そうして、あの野良猫との思い出も、少しずつ薄れていったのだが……。

 ある冬の日のこと。

 冒頭で述べたような土地柄だけに、その日も降雪とは無縁な天候だったが、それでも冬を意識させるには十分な寒さの一日だった。

 用事があって外出していた俺が、部屋に戻ってきた時。ふと駐車場を見ると、猫が一匹、歩いていた。

 渡米直後の俺の寂しさを紛らわせてくれた、あの茶色の毛並みをした猫だ。

 懐かしき友に出会った気分で、ドアに手をかけたまま眺めていると、その視線に気づいたのか、猫も俺に顔を向ける。

 俺に色々とあったように、同じく猫も猫なりに、立派に生きてきたのだろう。以前と比べれば少しはふっくらとした感じであり、また、歩き方もしっかりしているように見えた。

 自然と微笑みが浮かんだ俺は、部屋に入ってもドアは閉めなかった。部屋の暖房をつけた後でも、まだドアを開けたまま、中から野良猫を見続けていたのだ。

 すると。

 野良猫が、こちらへ近寄ってくるではないか! 餌でおびき寄せているわけでもないのに!

 嬉しい驚きだった。

 野良猫は、少しだけ逡巡するような動きを見せた後、そのまま俺の部屋に入ってくる。俺が背中を撫でても、嫌がる素振りは見せなかった。

 ああ、手触りも以前とは違う。背骨のゴツゴツではなく、毛並みのモフモフ具合が、俺の手に伝わってくる。

 しばらく俺の撫でるがままに任せていたが、やがて猫は、ゆっくりと動き出す。部屋の外へ出る方向ではなく、むしろ逆向きに。

 あたかいエアコンの風が一番よく当たる場所まで、引き寄せられるようにして歩いていくと、そこで丸くうずくまった。

 気持ち良さそうに目を閉じる猫を見て、ふと俺は考えてしまう。「猫はコタツで丸くなる」というではないか、と。

 それくらい猫は、あたたかい場所を好む生き物なのだろう。アメリカ暮らしでコタツなんて用意していなかったが、今の猫にとっては、むしろこの部屋全体がコタツのようなものなのかもしれない……。

 懐かしき友に視線を向けたまま、俺は、そう思うのだった。




(「猫はコタツで丸くなる ――アメリカのともだち――」完)

   

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