山妖記

雨伽詩音

第1話山妖記

 この山の麓に広がる瑞穂が風にそよぐ国で、ある時帝の妃に子が生まれた。双子の男児とあって宮中は騒ぎになったが、それも道理で、兄は盲目、弟は晴眼であったという。

 産後の肥立間もない妃が気づいた時には、兄は行方知れずとなって、帝は弟を世継ぎと定めたのだった。兄はどこへ消えたのか。

 言葉を覚える頃になって、私は母に幾度となく尋ねたが、母はふふと妖艶な笑みをこぼすばかりで、答えてはくれなかった。

 玩具とてない山中で、私の楽しみといえばもっぱら母の歌う子守唄のみであったが、長じてからは母から琵琶を貰い受け、蓮の彫刻が施されているという楽器にちなんで墨蓮と名をもらった。

 もっとも私は盲目であったから、墨で蓮を描くことも叶わず、もっぱら琵琶を奏でて昼夜を過ごした。

 誰に教わるともなく芸の腕は上達し、春の鶯、夏の不如帰ほととぎすの声に合わせて琵琶をかき鳴らせば、鳥の声はますます盛んに響くのだった。

 目は見えずとも、四季折々に鳴く鳥の声や、春雨秋風に季節を感じ、もしこれが麓の国の帝であったならば、歌人に歌を詠ませて無聊ぶりょうを慰めただろうと思われた。

 あいにくと生来より山で育った私は歌のひとつも詠めぬのだが、琵琶の調べに乗せて節をつけてあてずっぽうに歌えば、幾分か心安らぐ心地がする。

 清らかな秋月の光もこの心までは届かずに、秋の夜風に唇で触れては音曲となってこぼれだすのだった。

 帝に流れる血と、我ら妖に流れる血とは異なるという。

 まだ物心がついて間もないころ、私は母から術を教えられて獣に変じ、鹿となれば駿馬の足にも勝り、狼となれば群れなす猪どももおののいた。雉の精に誘われて、母の戒めを破って麓まで駆け下りたとき、罠にかかって足を傷つけた。

獣となっても目は見えず、流れ出た血の色も判然としなかったが、雉の精は人の子の赤き血が流れ出たと仰天し、その後事態を察した母によって死を以て処断された。

 私もまた蟄居ちっきょを命じられ、小さな山家を宛てがわれて獣となることを禁じられたが、妖の身に流れるという白銀の血が己に流れていないのではないかという疑念の種が、このときはじめて私の心のうちに芽吹いた。

 白銀の血とは花のようにかぐわしく香り、ひとたび怒りを発すれば千度の熱をもはらむという。

 人の子の血は鉄錆のような匂いを放って赤く、獣に流れる血もまた赤い。

 妖の血こそがもっとも尊く、人の子も獣も足下にも及ばぬ、と母に教えられた。獣に変じたがために赤き血が流れたのか、と思われたが、果たして姿形は変えられても血の色まで変えられようか。

 噂は瞬く間に山に広がった。さりながら母は己の子と信じて疑わぬ様子で、蟄居が開けてからはたびたび私の元を訪ねてきて、朝に夕にと花を届けた。そっと花弁に触れれば、匂やかな香りが漂って、この世のものとも思えなかった。

 それが花というものだ、と母は私に寄り添いながら教えてくれた。私に流れる血もまたかような香りを放つのかと思えば、不思議な心地がしたものだった。

 生まれてこの方母の声を聞いて育ってきたが、その艶やかな声は老いることなく、いつまでも野に咲く蘭のように匂やかだ。私に押し当てるようにして触れる母の肌は、二十余年の時を経た今でもみずみずしかった。

 母は私を盲愛した。目が見えぬ私の手をとって、これは撫子、女郎花と秋草の数々に触れれば、母の甘い吐息に混じった花の香りが匂いたった。

 私が琵琶を奏でれば、母は琴を奏でてみせ、その調べには山家に似合わぬ雅やかな風情が漂った。

 母は多くを語らなかったが、年老いた山猿の精によれば、名のある家の姫君が、禁忌を犯して兄との恋に落ちて子をなして、麓の国の都を追われて母子ともに自刃して、こうして山の主となったという。

 山猿の精はその子供こそがこの私なのだと語ったが、己を山へと追い立てた都への恨みはさぞ深かろうとも云った。恨みが深ければ深いほど妖の血は濃くなるとも。

 雉の精とともに死を賜らずに長らえたのも、母に手中の玉のごとく愛を注がれるのも、生前、共に命を絶った絆ゆえかと思えば得心したが、己の血を確かめるすべを持たぬことが私の心に澱となって沈んでいた。

 山猿の精は多くを語らなかった。さりながら琴をつま弾きながら、

 眠れ眠れ愛し子よ

 桜流しに遭うたのか

 花の筏に乗せられて

 今はいずこを流れるか

 と母が唄っていたのは、遠き日に見たまぼろしだったのだろうか。

 やがて私が長じてからも、私は母と清水が湧き出でる泉で身を清めていた。体の隅々にいたるまで慰撫するように母の指は腰に胸にとまとわりついた。

 ひと掬いの水をかけ流し、母は私の左胸に触れた。長い爪が肌に食い込み、刺青を刺すような痛みを感じた。母は爪で私の胸に文様らしきものを描き、そこをとんと押したかと思うと、刻印が刻まれたのだった。

 私は怖々と左胸をなぞって文様を確かめた。あの琵琶にも刻まれた、蓮の花とおのずと知れた。

「お前はこの山の主たる私の子。人にあらざるあやかしの子。浄土に咲く花のように清廉なれど、妖の血を引くがゆえに浄土にゆくことの叶わぬ哀れな子」

まるで呪文を唱えるように母は云って、私の肩に背にと清水をかけた。水で洗われるたびに刻まれたばかりの刻印が熱を帯びて疼いた。

 泉から出て、母と別れて山家へ戻れば、夕餉の膳が整っていた。山の精たちを通じて供されるのはたいてい蛇や川に棲むうおのたぐいで、卓上に置かれた膳に手を伸ばし、手探りであつものの椀を探して口をつければ、淡白な味わいとともに出汁の風味が香った。

 ぶつ切りにされた蛇の身とすぐに知れた。妄念を振り払うようにして蛇の肉を噛み砕き、出汁をすする。物心ついた時から食してきたものに対して、忌まわしいなどと今更思うはずもない。されど山の麓に広がる国を統べる帝は、蛇など終生口にすることもないのだろう。

 そう思うと妙な心地がした。今夜はそれらとともに酒も供えられたと見えて、花のような香りが匂う。

 毎晩のように膳を運んでくる山椒魚の精に訊けば、人の世で言うところの白酒のたぐいで、母から献じられたものだという。山桜の花びらを雪解け水に漬けこんで作るのだというが、一口含めば刻印が再び疼き、そっと衣の上から触れれば、焼けつくような痛みが走る。

 妖の血を受けた証がかようにも痛むのは、己が妖ならざる者ゆえではないかという邪念がふと頭をかすめた。

 酒のもたらす酔いも痛みを紛らわせてはくれないらしい。むしろ痛みはいや増すばかりで、私は衣の布をかき寄せて胸を隠した。

 よもやとは思ったが、衣の上から触れれば控えめにふくらんだ乳房がそこにはあった。刻印が痛むのかと思えば、痛むのは胸そのものであったらしい。

 このまま体が女性にょしょうに変じてゆくのかと不安がよぎるとともに、かつて母が口にしていた言葉を思い出す。曰く、人の子が妖の酒を一口含めば、ほどなくして死に至ると。

 女性になって永らえるならまだよし、赤き血の流れる人の身ならばおのずと死ぬだろう。しかし一向に悶え苦しむ兆しはなく、意識が失せる様子もない。

 この酒によって、母は私が人にあらざる妖であることの証を眷属たちに知らしめようとしたのだろうか。されど、もし仮に母がさじ加減を変えて酒を漬けていたのだとしたら……。

 山椒魚は私の胸の内も外も知らず、膳を置くとかかと笑った。

「墨蓮さまもご立派になられましたなぁ。ひいさまもさぞかしお喜びのことでございましょう。されど姫さまの術をもってしても貴方さまの御目は閉ざされたまま。まことに不思議なものでございます」

「私の目が見えぬことが憐れと申すか」

「おお、左様に気色ばまれては恐ろしゅうございます。私ども端くれはいざ知らず、妖の一生は永うございます。三千年もの間、花が咲くのも紅葉が散るのもお目にできぬとあれば、まことにお可哀想で……」

「私には季節の移ろいを奏でる琵琶がある。唇に乗せれば歌となる。目が見えずとも気は読める。一体いかなる不足があろうか。今宵はもう下がれ」

 不興を買ったのではと怯える気配を残した山椒魚が戸を閉めたのを確かめて、私は嘆息した。幼い頃、母の腕の中で聞いた物語が私の胸中で渦を巻いていた。

 果たして己は母と彼女の兄との間に生まれた子なのだろうか。あの盲目の兄とは己のことではないかという疑問が頭をよぎる。それも今にはじまったことではないが、今夜はやけに胸が騒ぐ。

 たとえあの盲目の兄が己だとして、麓の国を憎む母がどうして私を育てようか。生まれながらにして山に捨て置かれた身を憐れに思ったか。帝の血に連なる赤子ひとりを喰ったところで腹の足しにはなるまいが、育てたところで仕様もない。

 その晩はよくよく寝つけず、眠るともなく覚めるともなく、胸の痛みだけが己の生を訴えていた。

 ひと思いにこの胸をかき切れば妖の白銀の血が流れ出ようか、それとも人の子の赤き血が溢れようか。盲目の身では確かめるすべとてない。

 枕頭に置かれた短刀に手を伸ばし、鞘から引き抜けば冷たい刃が肌に触れた。腫れぼったい胸の熱を鎮めようと、冷えた刀身を胸に押し当てる。人のみならず妖をも断つというこの刀で自刃すれば母は悲しむだろうか。

 生来母が悲しむさまなど見たことがない。かつて恋に焦がれてこの山中の滝壺に身を投げた娘の足をうおの鰭に変え、下女として仕えさせていたものの、娘はかの国で仕えていた男を想って日々嘆き、その涙は真珠となって泉から溢れ出し、四方よもの流れに運ばれて山の麓へと流れ下った。

 麓の人間どもは我先にと山へ立ち入ったが、真珠に触れたかと思えば泡となって霧散し、妖たちの餌食となって次々と果てた。娘は母の怒りに触れてこの短刀で命を断たれたと聞く。

 半人半妖の身では妖にはなりきれず、妖の境を超えて人と交わらんと欲すれば、死ぬのが定めなのだと母は云った。それが人の身を捨てた妖の掟なのだと。

 かつて過ちの恋に破れて命を絶った母の身を思えば、人魚の娘の所行は母の逆鱗に触れるに相違なかった。

 百年にも満たぬ生を絶たれ、母の恩に背き、恋に命を燃やした娘は幸せだったのだろうか。人の子の幸も不幸も妖の知るところではないというのに、喉の奥に刺さった骨のように気にかかって仕様がなかった。

 思考はあてどもなくさまよい、行きては戻り、また行きては戻る。そうしているうちに睡魔に襲われて眠りに落ちた。

 深い眠りの淵で、誰かに呼ばれている。姿は見えず、美しい母の声だけが谺する。はじめは闇の彼方から呼ばわっていた己の名は、次第に声量を増して響きわたり、つづいて山椒魚の精、岩魚の精、泉の精と山の妖たちの声が幾重にも重なって、墨蓮、墨蓮、とただひたすらに繰り返される。

 果たしてそれは己の名なのだろうか。我に返ったところで目が覚めた。

 泉で顔を洗い、水鏡を通しても見えぬ己の目鼻を触ってたしかめれば、人のものと知れた。ぬらりとした山椒魚のものでも蛇のものでもない。鱗ひとつない素肌をしばらく触っているうちに、手は自然と胸元の刻印へと伸びた。

 ざぶざぶと泉に身を浸して、かすかに疼くそこに水をかけ流す。母の情愛を受けながら、獣でも人でもない妖としてこの身に生を受けたと、心から信ずるには至れぬ己が疎ましかった。

「見よ、墨蓮さまが水浴びをなさっておいでだ。あのお体はどうしたことか」

「先だっては嬋姫せんき様に証を授けられたのだとか。これで晴れて我らの一員となったとな。片腹痛いわ。赤き血の流れる人の子に間違いあるまいに、姫さまも面妖なことをなさる。元はといえば姫さまも我が子とともに自刃して、恨みの深さゆえにこの山の主となったが、果たして山猿の爺の話はまことかな。近しい者との間に生まれた腹の子はとうに流れておっても不思議ではあるまいに。山を降りて人と契り、子を孕んだに相違ない」

「我が子の血を証せんがために自ら加減して酒を漬け、墨蓮さまに含ませたとか。まったく酔狂のひと言に尽きるわ。いにしえより伝わる手法で漬けておれば、今ごろ命はなかろうものを。見境もなく情に流されるとは、所詮は人間の小娘のなすことよ」

 同じ妖の血を受けながらも、口さがないことを云う輩は掃いて捨てるほどいた。山椒魚の精や山猿の精など、己を嬋姫の世継ぎとして重んじる者ばかりではない。

 今更気に病むほどのことではないが、妖と人との狭間で揺れ惑う今の己にはあまりに堪えかねた。ましてこの山を統べる母を冒涜せんとする戯れ言を聞き捨てるわけにはゆかぬ。

 目は見えずとも耳は聞こえる。私は狼に変じて声の主を捜し当てたが、牙の届く前に獲物はかき消えた。母を愚弄する者を生かしてはおけまい。

 獣の背筋を這い上がる衝動は、人の心に芽生える殺意を遙かに凌駕した。かすかに残った匂いをたどれば、山にはびこる獣どもを糧とする山蛭の精と知れた。

 狼となった私は嗅覚の伝える先に潜む獲物を追い、たちまちあぎとに捕らえた。ぬらぬらとぬめる身を噛み砕いた途端、妖は気と散じて失せた。

 獲物を屠る歓びに私の心はわなないた。自らを御するすべはなく、山を駆け、川を越えて山に巣くうあらゆる妖を屠らんと野兎の精を追った。

 かつて雉の精と禁を破った記憶がよみがえり、背徳の歓びが熱となってわき上がってくるのを感じた。その途端、柔らかい腕に抱かれたかと思うとたちまち人の身へと戻った。

「それ以上殺めれば、私がお前を殺めなければならぬ。お前という子は、幾度禁忌を犯せば気が済むのか」

「母さま、私は人の子なのでしょうか」

 裸身にまとわりついた腕は吸いつくように私の体を締めつける。女のようにふくらんだ胸は母の腕のなかで押しつぶされた。

「お前は私の子。妖の子。のりを超えて眷属を殺めれば、罰さねばならぬ。女でもない。まして男でもない。酒を干し、半陰陽の身となった今、お前は妖の定めを生きねばならぬ」

 母の腕から解放された私は、泉の淵に落ちていた衣を纏い、短刀を身に帯びて山家へと帰った。琵琶をかき鳴らせども、心落ち着くはずもなく、麓に住まう帝の血は美味かろうかと獣の思考がよぎる。

 身を焦がすような衝動がわき上がるのをとどめるすべもなく、あらゆるものを屠らねば血は騒ぎつづけるのだろう。ままならぬと琵琶をかき鳴らすそばから弦は切れた。

 弦で切れた指先を口に含めば、血の味が広がった。妖とも人とも知れぬ忌まわしい血をすする。帝の血は赤かろう。母の血は白銀に輝こう。己の血はいずれとも知れず、ただ苦い。

 山を下りようか。ひとたび下ればもう二度とは戻れまい。母の掟に背けば命はあるまい。だが三千年の時をただ無為に永らえて、日ごとに琵琶を奏でども、心に生じた妄念は振り払えようはずもない。目は見えずとも、声は聞こえる。気を感ずる。

 ただ一度だけでも帝の声を聴いてみたい。血を分けた兄弟ならば一声聞けばおのずと知れよう。

 私は日暮れを待って短刀を身に帯び、狐へと変じた。常ならば纏わぬ獲物の血をなすりつけたがために鼻を覆いたくなったが、今は一匹の野狐でなければならぬ。森を駆け、山を下れば、田園の広がる瑞穂の国へと辿りついた。

 田畑を抜け、市を抜ければ、そこかしこで市井の民たちの声が聞こえてくる。かつては善政を敷いた帝も、今や寵姫にうつつを抜かし、まつりごともおろそかに、昼夜宴を開いては、歌舞音曲かぶおんぎょくに魅入られている、と。

 殿上人というのはわからぬものだ、朝令暮改とはよく云ったもので、昨日宮刑に処せられた者が、今日は宮中の奥深くで寵姫にまめまめしく仕えている。

 朝には流刑を云い渡された者が、夜には貢ぎ物で恩赦を得る。いっそ己も咎を負って明日の暮らしを立てようかとぼやく民もいた。

 獣となっても目は見えぬ。されど妖として育まれた勘は、誤りなく気の流れを読む。気が集まるところに帝は居を構えていよう。

 宮のある方角を捉え、私は賑わう市を抜けて貴族の住まいが立ち並ぶ一画へと駆けた。そこで今宵は宴が催されると風のたよりに聞いた。帝も宮中の奥から出てくるだろうか。傍らに寵姫を侍らせて。

 私は野狐から鼠に変じた。難なく宮中へ忍びこめば、果たして宴は盛況であった。あちらこちらから耳にしたこともないような騒々しい楽の音が響きわたり、鈴を身につけたらしい舞手が舞えばやんやと歓声が上がる。酒の匂いが鼻をつく。

 宮中というのはかようにも騒がしい処かと思わず耳をふさぎたくなるが、獣の身なれば叶うはずもない。

 その鋭敏な耳が聞き慣れた声を拾った。

「さあ、あなたさま、この秘酒を干しませ。ひとたび飲めば千年永らえると申します。あなたさまの御代が永久とわにつづくことを祈って、千種ちぐさの花を漬けて密かに作らせたものなのですよ」

 それはまぎれもなく母の声であった。私はうろたえるあまり、身を忍ばせた梁から落ちそうになったが、すんでのところで爪を立てて抗った。酒とは云うが、妖の酒は人には毒となる。私の含んだ酒も体を変じさせるほどの強い妖力を宿していたのだ。

 あの酒を干せば、たちまち毒が回って帝は息絶えよう。母が寵姫に化けて帝を傀儡へと変じさせ、さらに亡き者にせんと欲するのか。やはり母は都を追われた恨みを幾千年と抱きつづけてきたのだ。その胸中は余人には計り知れぬ。

「ほう、それはよきかな。余はまだ吞みたりぬぞ。皆酒を持て」

 これが帝の声であろう。風雅な中にどこかあどけなさを残した声だった。暗君というのも頷けよう。

 しかし血は争えぬもので、帝に気が集中しているのが感じ取れる。よもやその気は己の発するものと寸分変わらぬ質のものではなかろうか。

 私はうろたえるあまり梁から落ち、鼠と化した体は帝の掲げる杯に当たった。その衝撃で変化がほどけ、私は半陰陽の印もあらわに裸身を晒し、慌てて両腕で胸を隠した。

「墨蓮、なぜお前がここにいるのです」

 火をつけたような騒ぎとなった周囲の様子も素知らぬ風情で母が問う。妖として三度みたびも禁を破ったことを咎める声だった。もはやただでは山へ帰れまい。私はごくりと喉を鳴らした。そこへ物見遊山へ来たかのようなのどかな声が響いた。

「そなたはいずこから来たとも知れぬが、顔は余と瓜二つかな。父上め、死に水を取ったときに余にこぼした話はまことであったか。余には廃嫡されし双子の兄がいると。その兄は山に棄てられ、狼に食われたと聞いたが、よもや生きておったとはな。されどその体を見るかぎり、兄ではなく姉であったか。たれか衣を持て」 

 たちまち肌触りのよい衣に包まれて、私は手探りで帝を、否、弟を探した。帝の血に連なりながらも、方や帝となって瑞穂たなびく国を統べ、方や妖と人との狭間でもがきつづける定めを負うとは、なんとも皮肉なものだ。

 叶うことならこの手で縊り殺したいという思いが私の心にわき起こり、一方でこのうつけの弟を偽りの母の毒牙から守らねばという思いが去来する。

 すると弟の手が我が手に触れた。まるで己のものであるかのように瓜二つの手は重なって、ひしと握り合えば、赤き血の脈動が伝わってくるようだった。

 この血が己の中にも流れているのかと思えば、これまで重ねてきた歳月ももろく崩れ去るようで、私の背におののきが走った。

 そのとき、はじめて視界が開けた。めまぐるしいほどに頭に入ってくる宴の様子、初めて目にする美しい母の姿、そして己と瓜二つという帝の顔が間近にあった。

 まばゆい玉を戴いた額、目鼻立ちの通った顔には野山も知らぬ、のどかで風雅な趣が添えられていた。

 母は寵姫の姿とあって、結い上げた髪は幾本もの簪で飾られて、首には瓔珞ようらくが下がり、胸元も露わな緋色の衣を纏っていた。花鈿かでんが施された額は白く、瞳の奥に燃える光には、たしかに妖の魂が宿っていた。

 これが我が母と慕ってきた妖の顔かと思えば、胸の内からこみ上げるものがあった。母の子守唄が脳裏を駆け巡り、ともに過ごしてきた日々がよみがえってははかなく消えていった。

 白銀の血と信じてきた己の血は赤かった。弑するべきは帝ではなく、この母なのだと思えば、涙はとめどなくこぼれ出た。

 目が開くとともに、私の胸に人の子としての情けがわき上がってきた。育ちは異なれど、血のつながった弟を生かさねばならぬ。赤き血はそう告げていた。

 胸の刻印は焼けつくような熱を帯び、もはや人に戻れぬことを告げていたが、己の身がたとえ滅びようとも、帝を生かさねばならなかった。

 妖が国の行く末を憂うなど笑止千万、所詮は棲む世界が異なる。帝を生かしたところで山を降り、麓の国で暮らすつもりはない。

 人にも妖にもなりきれぬ体で浮き世に身を預ければ、たちまち帝を脅かす者として捕らえられ、やがて流刑に処せられよう。

 ならば袂を分かって、母から下される刑に服して罪を償い、己は山で一生を終えるとしよう。それが生まれ持った定めというのならば血を呪ったところで仕様がない。

 仕様がないが、やはり憎い。偽りの母も、至尊の君たる弟も、この身に帯びた刃で断ってしまいたい。血を断てよ、永劫の呪いを今断てよと刀はささやく。

 血に飢えた獣のような衝動が私の背を駆け巡る。もはや人には戻れぬと、神も仏も知らぬ妖の血が騒ぐ。

「墨蓮、お前のためにこの帝を屠らんとする母の心がわからぬか」

母の声が凛と響く。寵姫に身を変え、香を薫きしめた衣を纏ってはいても、私には妖の気配がわかる。母の胸の奥にほの暗く燃えたぎる白銀の血が感ぜられる。

 白銀の血は、ひとたび燃えれば千度の熱をも孕む。胸の刻印はまた一段と強い痛みを帯びて、私は胸を抱き込むようにしてうずくまった。

「わかりませぬ。母さまのお心が私にはわかりませぬ。私は母さまの子ではないのですから」

「否、お前の母はこの私に他ならぬ。もはや人には戻れぬ身なれば、母の心がわからぬはずはない。お前を惑わす者はすべて滅ぼすまで。赤子であったお前を育んだのもすべてはこの国への恨みゆえのこと。そのためにお前を育て、帝位を奪わせ、やがてはお前もろともこの国を滅ぼすつもりであった。されど今はお前が愛おしい。流れた子にお前をひとたび重ねたのが、我が過ちのはじまりであったが、今となっては我が愛子まなごのためならば命とて惜しくはない。なればこそ、お前を惑わす帝を殺めねばならぬ」

 たちまち近衛兵らが押し寄せて、母に切り掛かろうと剣が空を裂く音が響いたが、見る間もなく刃は次々と折れて、どよめく声があたりを包んだ。

「愚かな人間どもよ。たとえ千騎の兵で守りを固めようとも、私に傷一つつけることはできぬ。墨蓮、その身に帯びた守り刀で帝を殺めよ。三度みたびにわたる罪を帝の血をもって贖うがいい」

「できませぬ」

 母は私の身に帯びた刃を抜くと、己の手に重ねて握らせた。この母とともに帝を殺めれば国は滅びよう。妖たちが我が物顔で跋扈ばっこして、次々と人の子を食らい、赤き血を絶やさんと牙を朱に染めるだろう。

 法を犯した妖たちは秩序を失い、戦果に酔った武者さながらに女子供をも次々と殺め、赤き血は妖の渇きが収まるまで流れ続けよう。

 それだけは阻まねばならぬ。赤き血の流れる己、白銀の血を生きる定めを負った己にしかできぬというのならば、この罪を背負うのもまた己でなければならぬ。覚悟はまった。

「私の子ならばたやすかろう。胸をひと突きすれば済む」

ともに握った刃の柄は燃えるように熱い。母の命に応ずるつもりは露ほどにもなかった。

「母さま、お命頂戴致します」

 私は柄を奪って刃を母に向け、緋色の衣に包まれた胸を突いた。たちまち母の亡骸は大気に溶けて烈風が吹きすさび、空には雲がわき起こって、大雨をもたらした。

 腰を抜かした帝を前にして、私は刃を懐に収め、帝の玉を帯びた額に印を結ぶと、身にまとった青磁色の衣を翻して都を後にした。

 大雨は都に甚大なる被害をもたらそう。なれど帝の命は助かろう。民草は稲を育て、やがてふたたび瑞穂たなびく国となって栄えよう。私は雨雲に乗じて山へと戻った。

「母は死んだ。これよりこの私が山の主となる」







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