第3話 夜の線路を歩く

 誰もいない駅のフェンスを乗り越えて、12歳の僕は夜の線路に侵入した。線路に立ち入ってはいけないことは知っている。胸の鼓動はひどく大きくなっていった。真っ暗な線路を、架線を張る電柱の蛍光灯が定期的な間隔で照らしている。線路がある限り、明かりは続く。行ける。と僕は思った。


 ダメだ。「三石駅」の位置をグーグルマップで検索してほしい。次の駅は「上郡駅」だ。途中に山もある。線路でなく、道がわかっていたとしても、12歳が深夜に一人で行ける行程ではないことが、今ならわかる。スマホがあればわかるんだ。でもその時僕には何もわかっていなかった。


 右手に山があって、左手の町ともいえないような家々のわずかな明かりを見ながら進む。家はだんだん見当たらなくなり、等間隔の線路の明かりだけが頼りになる。線路の横は草むらというか、クズのツタに覆われたススキでいっぱいで、不気味だった。

 

 もう終電後だから電車は来ない。水筒は駅のトイレで満タンにしてある。ゆっくりでも進めば、朝には着くだろう。電車でゆっくり寝ればいい。そう思っていた。その時のことは記憶がほとんどなくて、予兆というか、振動、物音が事前にした記憶も全くない。突然としかいえない。目の前に巨大な光が現れた。


 次に覚えているのは、線路の横、土手みたいになっているところの下の草むらで震えている自分だった。轟音を立てて、上の線路を貨物列車が通り過ぎて行く。なんで、終電後なのに電車が走っているの?信じられなかったが、これが現実だった。


 多分、大きな光を見て、無意識に横っ飛びしたんだと思う。そして草むらに突っ込んで、土手のようなところを数メートル転がり落ちた。リュックはその時落としたのだろう。手元には無かった。何か濡れていると思ったら腕で、どうも出血していた。


 何が恐ろしかったって、「電車だ、危ない、飛ばないと」という理性が働いた記憶が全くないことだった。光を見て、いきなり肉食獣が出て来たときの草食獣のように、考える間もなく、本能の反射で飛んだことが、なぜかとても恐ろしかった。


 少しの間、そのままでいた。何も考えられなかったから。リュックを探そうにも、明かりがない。着替えと水筒、途中のキオスクで買ったチョコレート、筒井康隆の「宇宙衞生博覽會」を入れていた。無くすのは惜しかったが、仕方なかった。


 ポケットには青春十八きっぷと、ビニール袋に入った900円くらいのお金。他は何もない。一度線路に戻るしかない。草むらをかき分けてどこかに出ることはできなかった。線路に上がって、線路をこのまま歩くことはできないと悟った。たぶんまた、電車は来る。足が震えた。


 急いで線路を逆に引き返し、道路に出れそうなところを見つけて草むらとフェンスを越え、ぼくの線路の旅は終わった。死ななくてよかった。そのまま僕は、明かりの多いほうに歩き始めた。


 注意していると、何年かに一度、線路に立ち入った子どもが轢かれて死ぬ事故のニュースがある。そのたび僕は、自分のような幸運に恵まれなかった子どもに手を合わせる。あの電車が後ろから来ていたら、トンネルだったら、飛ぶのが遅れたら、死んでいたのは僕だった。


 ひたすら歩くと、少しずつ民家が増えていき、町のようになってきた。ある家のガレージに明かりがついている。近づくとシャッターが開いていて、中には古い雑誌が散乱していた。おそらく古雑誌をまとめてゴミに出す作業の途中で、なぜかそのまま家に戻って寝てしまったのだろう。


 僕はガレージに入り、少年マガジンを読み始めた。ジャンプ派だったので「はじめの一歩」はここで初めて知った。途中からだが物凄く面白かった。眠いのと寒いのとで、僕は古雑誌を敷いて寝転がると、寝てしまった。二十年以上前、ガレージに侵入した泥棒に漫画を荒らされた方、謝罪します。すみません。


 どれくらい寝たのか、ひどい寒さで起きてしまった。夜は白みだし、山間の村に霧が出ていた。あまりに寒く、シャッターを閉めると家人が起きるだろうと考え、僕はまた歩き出した。


 町の中心に行くと、駅があった。「上郡駅だ」と僕は思った。しかし看板には「吉永駅」と書いてある。逆方向に歩いてきたことに、そのとき初めて気づいた。駅はまだ始発前で、だれもいない。駅前に自動販売機があって、僕は猛烈に喉が渇いていたことに気づいた。


 この時、一息に飲んだオレンジジュースの味を忘れることはできない。頭が変になるくらい美味かった。もっと飲みたかったが、お金を節約しなければと我慢した。ふと横を見ると、変わった自販機があった。エロ本の自販機だと、僕はそこで気づき、また胸の鼓動が大きくなった。


 12歳である。性について授業によって知識と興味が始まるころだった。友達のお兄さんが持っているといわれるエロ本、手に入れる機会なんてない。結論からいうと僕は一番安い350円のエロ本を買った。取り出し口に落ちてくるとき、大きな音がして急いで取り出し走って逃げた。


 朝靄の中、人気のない畑の用水路のそばで、人生初のエロ本を読んだ。裸の20歳くらいの女性が載っていたが、陰毛に圧倒されてしまい、「これは大人だ…」という感想しかなかった。一応全部ページをめくって、用水路わきの草むらにやさしく置いた。もう少し大人の誰かが拾うのかなと思いながら。


 駅に戻ると、始発を待つ人々が集まり始めていた。町の学校へ登校するお兄さんお姉さん、仕事へ向かう大人たち。僕は改札で青春十八きっぷを駅員さんに突き出し、ホームへ向かった。陽が出始めたが標高もあってホームはひどく寒く、吐く息はわずかに白くなった。


 僕はホームに向かって息を吐いた。陽光に照らされた息は白く輝いて拡散した。僕1人だった。12歳で、家は遠く、お金はあと5百円くらい。学校にも行ってない。でも、生きていた。


 ホームに電車が滑り込み、乗り込んだ僕は席に座ったとたんに寝た。この後はもうそんなに書くことはない。チョコと飲み物を買いながら電車を乗り継いだ。その日の夕方、僕は横浜駅に着いた。残金15円。家に電話して父親が迎えにきて、僕の旅は終わった。

「死んでるかと思ったぜー。なんで手ぶらなんだよ」父親の気の抜けた声が聞こえて、僕はどっと疲れが押し寄せてきたことを感じていた。


 この夏を忘れることはできない。一緒に旅行した4人とはその後も友人関係が続いた。最後に4人で遊んだのはもうずっと昔だけれど。今も夜明け前に、夢の中12歳の僕は長崎の海で泳いでいて、あの頃の気持ちを思い出せそうになる。目を覚ますとその感情は消えていて、僕は大人に戻る。





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夜の線路を歩く えりぞ @erizomu

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