グラス・ウイング・バタフライ

伊古野わらび

グラス・ウイング・バタフライ

 帰り道、不思議な蝶を見つけた。恋人にそれはもう手酷く振られた日のことだった。憎らしいほど明るい夕焼けの中、重い足を引き摺り歩いていた先で、まるで陽炎のようにゆらりゆらりと、その蝶は飛んでいた。

 よく見るモンシロチョウと大きさはあまり変わらない。ただ翅が非常に美しかった。夕焼けと同じ色を宿した真っ赤な翅が宙を舞う。いや、その蝶の翅は夕焼けと同じ色ではない。正確に言うと、透明、だった。透明ゆえ、その蝶が飛んでいる先の空の色をそのまま写し取っていたのだ。真っ赤に燃えている空の色も、黄色くくすんだ雲の色も、その蝶は透明な翅の中に丸ごと空を閉じ込めて飛んでいた。

 それにしても、透明な翅を持つ蝶なんて、この街にいただろうか。いつぞや、何処かの外国にはグラス・ウイング・バタフライと呼ばれる透明な翅を持つ蝶がいると聞いたことがあったが、この日本にはいなかったように思う。観賞用に飼っていた蝶が逃げ出してきたのか。それとも突然変異か、ただの夢幻か。いずれにせよ、滅多に見られない幻想的な光景を前に、暫し失恋の痛みを忘れて見入っていた。

 どれほど、その蝶を眺めていただろうか。

 勝手気ままに飛んでいた蝶が、不意にこちらに近付いてきた。突然のことに思わず後退ったが、蝶は構わず飛んできて、鼻先を掠めるほど近くに来たところで。

 ふわり、と。

 翅をはためかせた。

 そして、そのまま元の場所へと戻っていく。

 その時、何故だか蝶に手招きされた気がした。こっちへおいでと言われたような気がした。失恋のせいで、気でも狂っていたのだろうか。

 それでも、この蝶に付いていかねばならないと、そう強く思った。湧き上がるその思いを跳ねのける力もなかった。だから、無意識に導かれるまま、そろりと足を踏み出す。

 その場を漂っていた蝶が、こちらの動きを察したのか、先導するようにまた先へ先へと進み出した。こっち、こっちよと、時折振り返るように旋回しながら。

 やはり、こちらを何処かへ導こうとしているのだろうか?

 試しにこちらが足を止めてみると、先を行く蝶も振り返るように旋回し、ふわりふわりとその場で浮遊した。先へ進もうとしない。明らかに、こちらを待っていた。

 ならばもう何も考えず、素直に付いていくのも一興か。どうせやることもないし、ここで何かあっても心配してくれる相方すら失った身。どこぞのアリスよろしく動物の後を追い、不思議な世界へ迷い込んだとしても構わないだろう。もっとも、この蝶は「急がなきゃ」などと喋りはしないが。

 蝶に導かれるまま、歩道を行き、公園を横切り、住宅地を抜け、見知らぬ森にまで辿り着く。その頃には既に空は暗くなっており、蝶のあの美しい翅は、森の入り口の不気味な闇色を宿して黒く淀んでいた。

 そこで、初めて恐怖を覚えて足を止めた。果たして、このまま蝶の後を追っていいものかと。

 立ち止まると、やはり蝶が森の入り口で、ふわりふわりと羽ばたいた。こっちに来ないの? 聞こえる訳もないのに、そんな蝶の声まで聞こえてくるようで、ああ、いよいよこちらも本当に気が狂ってきたのかもしれないと、他人事のように思った。

 ここまで来ておいて、今更後退するのは間違いだろう。恐らくは、きっと。

 ならば、前へ進むのみ。

 一つ深呼吸をして足を踏み出すと、蝶が嬉しそうに高く飛び上がった後、森の奥へ奥へと誘うように進み出した。



 空がもう夜を受け入れている時間帯、森の中はやはり静かな闇の気配に満ちていた。蝶から少しでも目を離すと、その闇に捕らわれてしまいそうで、ただ真っ直ぐ前を、蝶だけを見て進む。不思議と、闇色の翅となった蝶の姿だけは、森の闇に溶け込まず、はっきり捉えることができた。

 どうして。その答えは、真っ直ぐ進んだその先にあった。

 森を奥へ奥へと進んでいくと、不意に視界が大きく開けた。いや、少し前から気付いてはいた。真っ直ぐ進むその方向が、森の闇の中にあって仄かに明るかったこと。案内をする蝶はその淡い光に向かって飛ぶから、見失いようがなかったのだ。

 果たして、その不自然な光の正体は。

 開けた視界に広がったもの。それは一面の花畑。森を丸くくり抜いたように、ぽかりと夜空が顔を覗かせたその空間に、白い花がこれでもかと数多く咲き誇っていた。花の大きさはちょうど手のひらくらい。高さは、足首が隠れる程度。夜空の下、その白い花は仄かに光って揺れていた。

 そう、光っていたのだ。蛍のようにぼんやりと、でも確かに。だから、既に星の瞬く夜の中でも、この花畑は目に優しい光に包まれて明るかった。蝶はこの光る不思議な花畑に向かって飛んでいたのだ。

 ふと、蝶が導いてくれたその花畑の中で、一際明るい光を纏う存在がいることに気が付いた。星空に今にも溶け込んでしまいそうなほど濃く長い黒髪に、シミ一つない白い肌、そして白いワンピースを着た美しい女性。彼女はただ一人きりで、花畑の中に佇んでいた。花の淡い光の中で、彼女の存在は満月の光のように一層際立って光り輝いているように見えた。

 こちらを今まで導いてくれた蝶が、彼女の元へと飛んでいく。星の輝きすら見えないほど暗い夜の色になった翅を羽ばたかせ、彼女の周りをふわりふわりと舞い踊る。

 そんな蝶を、これまた真っ白な指先に留まらせて、彼女がゆっくりとこちらを見た。黒く澄んだ瞳が、真っ直ぐこちらを射抜く。


「おや、珍しいね。お客人とは」


 凛と涼やかな声を発した彼女はこちらと、そして蝶とを交互に見比べて、ふっと目を細めた。


「成程。お人好しな蝶だね」


 いや、お「蝶」好しかねと、彼女は笑う。


「お客人。体が軽くなったのではないかい?」


 言われてみれば、随分歩かされた割には足が軽い。蝶に出会う前は引き摺るようにしていた足が、飛び跳ねられるほど軽い。足だけでなく、心なしか体全体も。


「お客人のケガレは、この子が全て引き受けた。だから、もう安心さ」


 彼女は指先に留まらせた蝶を見せるように腕をこちらに差し出す。そこで初めて、蝶の翅の異変に気が付いた。夜の闇を映して黒くなっていると思っていた透明な翅は、この優しい光に溢れる花畑にあっても、その深い闇の色を纏ったままでいた。本来なら、白い花の色を宿して輝く筈が、重苦しく淀んだ闇の色をそのまま翅に閉じ込めてしまっている。翅の向こうに、花畑も彼女の顔も映り込まない。透明ではなくなった蝶の翅はひどく重そうに見えた。

 何で、どうして、こんなことに。

 衝撃のあまり思わずへたり込むと、彼女の指先に留まっていた蝶が、ふわりと舞い上がり、こちらの方へと飛んできた。羽ばたきが先程より覚束なく見えるのは、きっと気のせいではない。それでも蝶は懸命に翅を羽ばたかせ、こちらの周囲をゆっくりゆっくり飛んで見せた。大丈夫、心配ないよと、言い聞かせるように。


「そんな顔をしなくてもいい。これがこの子の役目で、定めだからね」


 寧ろ褒めてやってくれないかと、美しい彼女が微笑みながら言う。


「この子は、お客人と出会い、お客人を選んで、そのケガレを祓った。己の役目を十分果たした。そして役目を終えたこの子は、これから定めに従う。決められたことだ。だから、どうか嘆かないでおくれ」


 ケガレとは何か。役目とは、定めとは何か。嘆かないでなんて念を押すからには、何か悲しいことでも起きるのか。ならば一体何が起こるというのか。聞きたいことは多々あるのに言葉にできないまま、ただ言い知れぬ不安を覚えて顔を上げると。

 はらり。

 突然、目の前で蝶の形が崩れた。こちらの視界が歪んだ訳ではない。ゆっくり飛んでいた蝶が、羽ばたきながらも、はらりはらりと崩れ落ちていく。まず肢が落ち、続いて下の翅が、腹部と胴部が分かれ、そして最後に上の翅、胴部と頭部が同時に離れ落ちた。

 あの美しかった蝶の残骸が、目の前で白く光る花畑へと落ちていく。手を伸ばしても、その残滓を掬い取ることすら許されなかった。

 ああ!

 あまりに惨い最期から目を逸らそうとすると、彼女の寂しげな瞳と目が合った。


「嘆かないでおくれと言っただろう、心優しいお客人。ケガレを祓ったこの子は、一度大地へと還り、そしてまた純粋なものとして生まれてくる。ほら御覧」


 彼女が指差したのは、蝶の最後のひとかけらが落ちていった場所。そこには開花していない蕾のままの花があった。その蕾に光はまだ宿っていない。満開に咲く花畑の中で、その蕾の場所だけがひっそりと暗い。

 その蕾に、不意にふわりと光が灯った。最初は小さく、徐々にその光は強さを増し、同時に蕾がゆっくりと開いていく。

 果たして、開ききった花から生まれたものは、あの美しい透明の翅の蝶だった。花びらのように翅を広げ、元気よく舞い上がる。

 蝶の個体の区別なんて分かりはしない。それでも、羽ばたきを見て分かった。この蝶は「あの蝶」だと。

 こちらの表情の変化に気が付いたのだろう。美しい彼女の表情もまた、花のようにゆったりと綻んだ。

 一羽の蝶の再生を祝福するように柔らかな夜風が吹く。光る花を、彼女の射干玉の長い髪を揺らすその風が心地いい。こんな軽やかな気持ちになれたのは、随分久し振りのような気がした。


「もう心配はいらないみたいだね」


 透明な翅の蝶と踊るように、ゆるりと回りながら彼女が言う。


「この子はまた、羽ばたける翅を持って生まれてきた。お客人もまた、自分で歩ける意志を取り戻した。お客人にとって生きにくいこの世界も、まだそんなに捨てたものではないよ。お客人次第だけどね」


 朗らかな声で言われたことなのに何故かぞっとして息を呑む。言った本人は、蝶を纏わせたままこちらに背中を向けて佇んでいた。その表情はもう確認できない。立ち位置は変わっていない筈だが、彼女のその背中は酷く遠いものに感じられた。


「さあて、そろそろ頃合いか……人の子よ、もう此処へ来ては行けないよ。あのようなケガレを受けるのは、二度とあってはならないからね」


 そう言う彼女の声までも遠く感じられて、透明な翅の蝶が羽ばたく様もぼんやりと霞み、白い花の淡い光すら視界に入らなくなって。

 心地よかった筈の風が生暖かくなり、ざわりと頬を撫でられて。


 ───その後、あの森からどうやって帰ってきたのか、記憶が定かではない。



 今こうして思い返してみても、眠った時に見る夢のように現実味のない出来事だった。透明な翅の蝶も、白く光る花畑も、その中に佇んでいた美しい彼女も、時間が経つにつれて、その気配が自分の中から失われていくのを感じていた。事実、その後の現実にしがみ付くことばかりに必死で、あの日のことはすっかり忘れてしまっていた。

 そんな忘却の彼方に追いやっていた気配を、記憶を思い出したのは、朝のニュース番組を見た時だった。過去の汚点として葬り去り、それこそあの出来事以上に綺麗さっぱり忘れていた元恋人の名前が、顰め面のキャスターによって読み上げられていた。


 現恋人をナイフで惨殺した非道な殺人者として。


「あのようなケガレを受けるのは、二度とあってはならないからね」


 今まで忘れていた筈の、あの美しい彼女の声が蘇る。

 ああ。

 忘れていたことが、次々と蘇った。あの日、あの人に手酷く振られたことも。振られるまでに、体も精神もズタボロにされていたことも。

 もしかして、犯罪者となってしまった元恋人より先に「それ」を振り上げていたのは、こちらだったかもしれないことも。そのために、こちらが何を準備していたのかすらも。

 テレビが告げる元恋人の非情な行いを聞き流しながら、あの夜以降一度も開けることのなかった引き出しにそっと手を掛ける。

 ケガレはあの透明な翅の蝶が引き受けてくれた。あの蝶に救われたことは分かっている。それでも。


 ───買ったまま使われることなく仕舞われたナイフを、こちらはまだ捨てられずにいる。



   【了】

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