猫の恩返し

第15話 春間マリーと温泉旅行・前編

　ゴールデンウィーク開始初日。

　人混みで溢れかえる朝の東京駅に、僕はいた。

　雑多に動き回る人波を掻き分け、ふたつのお弁当箱を手に、マリーの待つ列車の座席へと戻る。

　列車に近づくと、彼女が窓を開け、そこから体を乗り出して手を振ってくる。

「テルー！

　こっち、こっちー。

　もうすぐ電車、出発しちゃうのよー」

　喧騒のなかでも綺麗に響く透き通った声が聞こえるのと同時に、列車の発車ベルがジリリと鳴り始めた。

　これはちょっと急がないと危ないな。

　小走りになって、発車間際の列車へと飛び乗る。

「ふう。

　危うく置いていかれるところだったよ」

　出発する前から置いていかれたんじゃ目も当てられない。

　冷や汗を拭いながら、彼女の隣の座席へと腰を下ろした。

　前席後部に据え付けられた簡易テーブルを引き出して、買ってきたばかりのお弁当をそこに置く。

「ホント、危ないところだったの」

　どうやらハラハラさせてしまったみたいだ。

　彼女が安心したように胸を撫で下ろす。

「いやゴールデンウィークの人混みを侮ってたよ。

　駅弁屋さん、凄い長蛇の列だったんだ」

　まったく進まない行列にどれだけ焦れたことか。

　話しながらビニール袋から、駅弁の箱を取り出す。

　列車の旅に、駅弁は付き物だ。

　苦労して買ってきたふたつの駅弁『知床海鮮ちらし弁当』と『すき焼きステーキ弁当』を並べて、包みをといてから蓋を開けた。

　マリーはバッグからペットボトルのお茶を取り出している。

「にゃー！

　おいしそうなのね！」

　紙コップにお茶を注ぎながらも、彼女の目はお弁当に釘付けだ。

　食いしん坊な彼女らしくて、ちょっと微笑ましい。

「マリーはどっちにする？

　好きな方にしていいよ？」

「うーん。

　どっちもおいしそうだけど……」

　整った眉を眉間に寄せ、視線をふたつのお弁当の間で彷徨わせながら、むむむと悩んでいる。

「うん！

　やっぱりこっちなの！」

　一頻り悩んだ彼女が、片方のお弁当を手に取った。

「マリーはすき焼きステーキ弁当だね」

　予想通りだ。

　やっぱりマリーはお肉を選んだか。

　お腹を鳴らすマリーに駅弁を渡す。

「じゃあ僕は、こっちの知床海鮮ちらし弁当だね」

　ちらし弁当を手に取った。

　こっちのお弁当もおいしそう。

「それじゃあ、早速食べようか。

　いただきます」

「うにゃ。

　いただきまぁす」

　動き出した列車のなか。

　車窓を流れていく風景を横目に見ながら、駅弁を食べ始めた。

　◇

　僕の海鮮ちらし弁当には、蟹のあし身、蟹のほぐし身、あとサーモンにイクラが乗せられている。

　なんとも豪勢なお弁当だ。

　蟹のほぐし身と白ご飯とを、一緒くたにして頬張った。

　酢飯のキュッと引き締まった味が口いっぱいに広がる。

　薄味だけれども風味豊かなカニ独特の味がよくマッチしていておいしい。

　……うん。

　このお弁当は、当たりだ。

　隣を見ればマリーも「うまうま」と言いながら、お弁当を食べている。

　頬っぺたにご飯粒をくっ付けて夢中で頬張るマリーの様子は、なんとも愛くるしくて微笑ましい。

「ほら、マリー。

　ほっぺにご飯粒がついてるよ」

　指を伸ばしてそのご飯粒を取ろうとした。

　けれども彼女は、ちょっと悪戯っぽい表情を見せたかと思うと、すっと顔を引いて僕の指を避けた。

「ん？

　どうしたの、マリー」

　彼女がまた悪戯っぽい笑みを浮かべている。

　イシシと笑いながら頬を差し出してきた。

「はい、テル。

　とってー」

　首を傾げる。

　とって欲しいならさっきはどうして避けたのだろう。

　ともくかくもう一度、指を伸ばした。

　するとマリーはまたも顔を引いて僕の指を避けた。

　彼女が口を尖らせる。

「違うよぉ。

　ね、……ちゅってとって」

　なんとも甘えた声で、そんなことを言いだした。

　僕は狼狽えてどもってしまう。

「も、もう。

　マリーったら」

　彼女は照れる僕を無視して、また「んー」と頬を差し出してくる。

（し、仕方ない、よね）

　こほんとひとつ咳払いをして、辺りをきょろきょろと見回す。

　誰も僕たちのことは見ていない。

　よし……。

　彼女の頰のお弁当を、ちゅっとついばんだ。

　そばから「にゃんっ」と嬉しそうな声が上がる。

　そしてすぐに、彼女が悪戯っぽくにやりと笑った。

　してやったりと、僕のお弁当を見つめる。

「いまテルは、私のお弁当を食べたよね」

「え？　いまのご飯粒のこと？」

「うん、食べたよね。

　だから私もテルのお弁当を食べてみたいな」

「……それは」

「食べてみたいな」

　じっと見つめられる。

　しばらくしてから、僕はそっとマリーに海鮮ちらし弁当を差し出した。

　◇

　列車での旅は続く。

　隣の席ではマリーが、僕の肩に頭をもたれ掛け、すぅすぅと小さな寝息を立てながら眠っている。

　きっとお弁当で満腹になったせいで、眠気が来たのだろう。

　僕は窓の外を眺めながら、今回の旅行の予定に想いを馳せる。

　そうしていると、視界の隅にひとりの女性が映った。

「……あぁ、どうしましょう。

　困ったわぁ……」

　見た感じ、三十路過ぎくらいのひとだ。

　女性はバッグをガサゴソとさぐりながら、ため息を吐いている。

　どうしたのだろう。

　少し気になった僕は、マリーをそっと座席に寝かせ直してから、その女性に声を掛けてみることにした。

「すみません。

　どうかしましたか？」

「え？

　ああ、いいえ。

　なんでもないですのよ。

　ちょっとお財布が見当たらないだけなの」

「え⁉︎

　いやそれは、なんでもなくはないのでは……。

　大変じゃないですか」

「あ、あら？

　そうかしら。

　そうかもしれないわね。

　あ。

　そう言えば、切符もお財布にしまってあったの。

　ど、どうしましょう。

　おほほ……」

　女性がふたたびバッグを覗き込んだ。

　見るからに弱り顔だ。

　僕は少し考えてから、もう一度声を掛ける。

「……なんでしたら、切符代くらいなら立て替えておきましょうか？

　困ってるみたいですし」

「え。

　でもそんな。

　申し訳ないです……」

「別に構いませんよ」

　ガサゴソとポケットをまさぐって、自分の財布を取り出す。

　するとそのとき、女性がなにかを思い出してポンと手を叩いた。

「あ、そういえば！

　さっきのおトイレに……。

　ちょっと見てきますわ。

　ありがとう」

　女のひとが僕に会釈をしてから、くるりと身体を反転させた。

　足早に去っていく。

　どうやら忘れた場所を思い出したらしい。

　……よかった。

　安心しつつ、座席に腰を落ち着けなおす。

　するとマリーに呼び掛けられた。

「……テル」

「あ、起きたんだ」

「うん。

　少し前にね。

　……見てたよ。

　テル、とっても親切だったの」

　マリーは起き抜けのまぶたを擦りながら、嬉しそうに微笑んでいる。

「んふふー。

　テル、前はほかのひとに無愛想だったのに。

　ちょっとずつ変わってきてるのね」

「……そうかな？」

　無愛想と言われれば、たしかにそうだったように思う。

「そうだよぉ。

　でもいまのほうが、いいの！」

　なんだか気恥ずかしくなってきた。

　そっぽを向いて鼻の頭をかきながら、小声で呟く。

「……普通は困っているひとを見たら、助けたくなるじゃないか」

「うん！

　そうだねぇー」

　なにがそんなに嬉しいのだろうか。

　この上なく上機嫌な様子のマリーが、にこにこと満面の笑みを浮かべながら抱きついてきた。