第二話

 それから四刻後。

 桃色の襦裙じゅくんに着替えた莉璃りりは、零真れいしんとともに王宮内の府庫へと向かっていた。

 昨日借りた図譜ずふと地図を返却し、新たなものを借り入れるためだ。


「ねえ零真。今朝、悠修ゆうしゅうさまは言っていたわよね。黙っておく、と」

 そう。白影はくえいが莉璃との婚約を明らかにした際、彼はたしかにそう言っていたのだ。


「ええ、そうですね。ですがおそらく……」

「言ってしまったのね、きっと」


 ――あの嘘吐き男。


 王宮の回廊を歩きながら、莉璃は手にした何冊かの図譜をきつく抱きしめた。

 いけない。書物が傷んでしまう。はっと我に返って力をゆるめる。


 ――女官がたくさんいるわ。あちらにも、こちらにも。


 莉璃が歩く回廊のあちこちには、宮廷女官だと思しき女人たちの姿があった。

 昨日この場所を歩いた時には閑散としていたのに、今日は一転、白や黄、橙や緑の衣があたりを華やかに彩っている。きつい白粉の匂いとともに。


「ほら、あれが白影さまの婚約者の……昨夜、一緒に過ごしていたって噂の女よ」

「あら、たいしたことないじゃない」

「鳳家の姫らしいけど、衣装の仕立屋をしているのだとか。いくら二の位とはいってもそれほど貧乏な相手なんて……きっと白影さまも嫌々承諾したのでしょうね」


 こちらに向けられる好奇の眼差しと、悪意ある噂話。

 莉璃が今をときめく白影の婚約者であると世間に知られてしまったことは、もはや明白だった。

 件の女人をひと目見ようと、鳳家の作業部屋がある殿を探し当ててきたらしい。


「莉璃さま、あまりお気になさらずに。人の噂も七百五十日と申しますし」

「長いわ。せめて七十五日で終わらせてちょうだい」

「それに明日は明日の風が吹くと言いますから、きっと明日には皆、忘れてしまいますよ」

「そこまで都合よくいくとはとても思えないけれど」


 そうしている間にもあちこちから嘲笑うような声が聞こえてきて、居心地が悪い。

 何を言われようがかまわないが、面倒ごとに発展されるのだけは勘弁だ。

 王宮に滞在してまだ三日目なのだ。これから自分がすべきことを考えたら、周りに翻弄されている場合ではなかった。


「わたくしは大丈夫。噂話など気にならないわ。それよりも衣装作りに集中しなければならないもの」

 あらためて決意を口にすれば、自然と背筋がのびた。


 やがてたどりついた府庫で、莉璃と零真はそれぞれ目当ての本棚に向かう。

 すると府庫の奥のほうから、誰かの喋り声が聞こえてきた。

 先客だ。邪魔をしてはまずいと、莉璃は息をひそめる。


「ねえ知ってる? 俺の上司の司白影さまなんだけどさ、ついに婚約したんだよね」

「嘘……! 冗談でしょう?」

「それが本当なんだって。俺、白影さまと婚約者の姫が床をともしているところをこの目で見たんだから。――だから君もさ、いつまでも白影さまのことなんて想っていてもしかたないじゃない? ここはもうすっぱりあきらめて、俺に乗り換えなよ」


 聞き覚えのある声音に、歯の浮くような口説き文句。

 間違いない。先客は、今回の騒動の原因である悠修だ。


「今晩どう? 絶対に後悔させない自信はあるけど」

「でもあなた、女官たちとずいぶん遊んでるって噂よ。同じ娘と三度は寝ないとか」

「噂が本当かどうか、君が確かめてみればいいじゃないか」


 ――まさか偶然にも会えるなんて、僥倖だわ。


 一言文句を言わせてもらわなければ気が済まないと、苛立ちを抑えきれない莉璃は、声のする方角へと早足で向かった。


「失礼するわ。悠修さま、とおっしゃったかしら。よくも言いふらしてくださいましたわね。朝は調子のいいことを言っていたくせに――あ……」

 思わず絶句した。


「ああ、白影さまの婚約者の……たしか莉璃姫でしたね」

 平然とこちらを向いた悠修は、女官らしき女人を卓子たくしの上に押し倒していた。

 しかも左手は彼女の顎に、右手は裳裾もすその中に。二人の唇はもうふれあう寸前だ。


「失礼……!」

 なまめかしい場面を目の当たりにしてしまい、莉璃はただちに踵を返した。


「莉璃さま、どうかされましたか?」

 借りた図譜を本棚に戻していた零真が、いぶかしげにこちらを見る。

「いえ、なんでもないわ。……ただ変なものを見てしまっただけよ」


 やがて莉璃が落ち着きを取り戻した頃、背後で沓音が響いた。

「変なものとは失礼ですね。あれは崇高な愛の儀式ですよ」


 あとを追って来たのは悠修だ。

 忌々しく思いながら視線をやると、彼は柔らかそうな髪を整えながら、莉璃の前までやってくる。


「で? 僕に何か用ですか?」

「とくに用というほどのことではありませんわ。ただ一言苦情を申し上げたくて。今朝は『言わない方がいい』と言ってくれたあなた様ですのに、結局、さんざん吹聴してくださったようですわね」

「だってこんな朗報、黙っていられませんよ。白影さまに失恋した女人たちを僕のものにできるいい機会ですからね」

 悠修は悪びれもせずに微笑む。

「それに、白影さまに報われない恋心を抱く娘のことも知っているんです。……こうなれば彼女だってあきらめるかもしれないでしょう?」


 もしやそれは、先ほど彼が押し倒していた女官のことだろうか。


「それより、なんならあなたも僕と一晩どうです? 大丈夫。僕はその手の秘密はちゃんと守りますからご安心ください」


 ――この方……正気なの?


 仮にも莉璃は、彼の上司である白影の婚約者だ。

 その女人を口説こうとするなんて。


「遠慮しておきますわ」

「それは残念。めくるめく愛の世界を教えてさしあげたかったのに」

「あなたは、ご自分をよくわかってらっしゃるのね。自ら宣言されるだけあって、本当に節操なしだわ」

 吐き捨てるようにそう言って、莉璃は彼に背を向けた。

 からかって反応をみていたのだろう。背後からは悠修の楽しげな笑い声が聞こえてきた。

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