第三章 彼の花嫁となる人は

第一話

莉璃りりさま、なぜこのようなところでお休みに――と、あなたさまは……」


 翌朝、莉璃を目覚めさせたのは、零真れいしんの狼狽したような声だった。


「零真……どうかしたの? ああ、もう朝なのね」


 莉璃の漆黒の瞳には、翡翠色の襦裙じゅくんを身につけた、女装姿の零真が映る。

 もうすっかり身支度を整えた彼は、その顔に珍しく驚きの色を浮かべていた。

 どうしたのだろう。目を丸くして、絶句しているようにも見える。


「零真?」

 とりあえず起き上がろうと身をよじってみるが、どうしてか手足が動かなかった。

 横向きに寝ている莉璃だが、体を何か柔らかいものに拘束されてしまっている。


「失礼しました。私は飯房はんぼうから朝餉あさげをいただいてまいりますので、お二人はどうぞごゆっくりお過ごしください。ああ、それから手紙も出しに行かなければ」

 零真はそそくさと廊へ出て行った。


 ――お二人って、どういうことかしら。


 不思議に思いながら視線を動かした莉璃は、「ひっ」と言葉にならない悲鳴をもらした。

「な、なぜ……!?」

 莉璃の上半身を背後から包み込むようにしているのは、瑠璃色の衣をまとった骨張った腕だ。右手は莉璃の額を、左手は腰のあたりを抱き込むようにしている。

 背中に感じるのは誰かのぬくもり。

 耳元にあるのは規則的に繰り返される呼吸音。

 間違いない。誰かがいる――というか、背後から誰かに抱きしめられている。


 ――これは……とても許せる行為ではないわ。


 瞬間、ぶちん、と、莉璃の頭の中で大きな音がした。

 それは莉璃の理性の糸が、派手に切れる音だった。


「さっさと離してくださいませ!」

 咄嗟に出たのは肘打ち攻撃。

 後ろにいる誰かのみぞおちに、莉璃の肘が見事に入った。

「ぐっ……げほごほっ」

 途端にその人物が咳き込み始める。

 腕の力がゆるんだすきに、莉璃は弾かれたように起き上がった。

 振り返れば、そこにいるのはやはり彼――白影はくえいだった。


「白影さま、なぜあなたがいまだここにいるのか、わたくしが納得できる説明をしてくださいませ」

 でなければ今すぐに叩きだしてやるわ。

 そう考えながら部屋の時計に視線をやれば、時刻は卯の刻。もうすっかり朝になっている。


「莉璃姫……これはまた、ずいぶんと手荒な起こし方ですね。先が思いやられます」

 白影はみぞおちをさすりながら身を起こした。

 いつの間にそうしたのか、冠が外され、白銀色の髪が肩に下ろされている。

 まだ眠たげな目元や、はだけた胸元からは、そこはかとなく色香が漂っているようにも感じられた。


「わたくしの質問にただちに答えてくださいませ。なぜこの時間まで、白影さまがここにいらっしゃるのですか」

「よこしまな想いがあったわけではありません」

「にわかに信じがたいですわ」

「昨夜、ふと気づいたら、あなたが卓子たくしに突っ伏した状態で眠っていたのです。ですからこちらに寝かせて上襦じょうしゅを毛布代わりにかけることにしました」


 言われて思い返してみれば、たしかに昨夜の記憶は曖昧だ。

 卓子に向かって図譜ずふの頁をめくり続けていたのだが、途中で睡魔に襲われ眠ってしまったのかもしれない。


「けれど、白影さままでここで休む必要はないでしょう?」

「あなたが私の袖をつかみ、離してくださらなかったのですよ。ですからしかたなく、そのまま」


 そんなばかなことが、と彼の言を疑いながら視線をやると、たしかに白影の官服の左の袖に皺が入っていた。

 どうやら彼の言葉は、言い訳でなく事実らしい。

 となれば。

「それは申し訳ありませんでしたわ」

 打って変わって、莉璃は素直に頭を下げた。

 まさか自分が原因でこのような状況になっていたとは夢にも思わずに、彼を責めてしまった。


 と、その時だった。

 飯房に向かったはずの零真が、慌てた様子で戻ってきた。


「莉璃さま、たいへんです。すぐにその衣をはおってください」

 彼は夜着姿の莉璃の肩に、水色の上襦をかけてくる。

「白影さまをお探しのご様子だったので、ここにいることをお伝えしたのですが、今すぐこちらに来るとおっしゃられていまして……」

 いつも冷静な零真が、ここまで慌てるなんて珍しい。


「落ち着きなさい、零真。いったい誰がこの部屋に来るというの?」

 問うた直後、作業場の扉が廊側から開かれた。


「失礼しますよー! こちらに白影さまはいらっしゃいますか?」

 突如、現れたのは白影の部下である悠修ゆうしゅうだ。

 なぜこんな早朝から、彼が?

 莉璃が唖然としている間に部屋に入って来た悠修は、こちらを見るなり目を丸くする。


「おっと、これは……珍しい光景ですね」

 悠修はにやりと笑った。

「白影さま。お楽しみのところ申し訳ありませんが、主上がお呼びです。なんでも朝議の前に相談したいことがあるとおっしゃられていまして」


 そこでようやく状況を把握した莉璃は、衣の前を掻きあわせた。

 零真のおかげで夜着姿を見られずに済んだが、起き抜けの顔に洗いざらしの髪のままだ。

 何の関係もない異性にはしたない姿を見られてしまい、羞恥のあまりに苛立ちを覚える。


 すると突如、莉璃の目の前が真っ暗になった。

「悠修、今すぐに部屋を出て行け。でなければおまえの目を潰すことになるぞ」

 白影に抱き寄せられたのだと気づくまで、少しの時を要した。

「彼女のこの姿を見ていいのは私だけだ」


 彼は、まるで悠修の視線から隠すように、莉璃の背中や髪に自分の腕を回した。

 白影の衣からは、爽やかな薄荷葉の香りがする。


「これは……珍しいですね、白影さま。今まで浮いた話ひとつなかったのに……たまにはお戯れをされたくなりましたか?」

「ばかを言うな。彼女は私の妻になる女人だ」

「えっ……ということは、まさか婚約されたとでも!? その件、主上はご存知なんですか!?」

「しばらく明かすつもりはない。面白がって邪魔をされたらたまらないからな」

 だからおまえも黙っているように、と、白影は悠修に命じる。


「もちろんですよ! そうと知れれば女官たちも大騒ぎするに決まってますからね。婚約者殿のためにも秘密にしておいたほうがよろしいでしょう」

「ああ、そういえば昨日、成り行きで柳圭蘭殿には明かしたが」

 思い出したように白影が言った途端、悠修は眉をひそめた。

「圭蘭さまに……?」

「噂になっていないということは、まだ誰にも話していないのだろう」

「そうですか……白影さまをお好きなようでしたから、気落ちしてなければいいですが」


 やがて悠修は、一足先に王の元へと戻っていった。

 一方の白影は、身支度をととのえ、朝餉をしっかり食べたのちに作業部屋をあとにする。


「ではまた今夜」

 莉璃の元には再会の約束が残った。

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