第8話

「お帰りなさい、あなた」



はっとして顔を上げると、そこには何一つ変わらない妻の姿があった。


「ああ………ただいま」


反射的に返事をして、まじまじと妻の顔を見詰める。

妻は「どうしたの?」と照れたように笑う。


「遅かったわね、こんな時間までお仕事大変だったでしょう」


妻にそう言われて、たった今仕事から帰って来たといわんばかりの自分の恰好に気が付く。


「お腹空いてるわよね?待ってて、すぐお夕飯の準備するから」


いつものように優しい微笑みを残し、妻はくるりと踵を返して部屋へと入っていった。

その背中をゆっくりと追いながら、男も部屋に入って行った。

キッチンでは妻が淡々と食事の準備を進めていた。

男はテーブルのそばでぼうっと立ち尽くしたまま、忙しなく動き回る妻の姿を目で追った。


先程から、うたた寝しているところで突然揺り起こされたような、軽い混乱が続いている。

状況から見て、おそらく男は仕事から帰宅したばかりなのだろうが、何故かそれ以前の記憶がすっぽりと抜け落ちている。

思い出せる最後の記憶は、『あの店』だった。

そこから、ぶつ切りの場面同士を無理矢理繋ぎ合わせたような綺麗な違和感で、今に繋がる。

まるでたった今まで眠っていて、唐突に夢から醒めたような感覚だ。

たった今まで見ていたはずの夢の内容が、目覚めた瞬間から忘れていくように、もやがかかった記憶はどんどん遠ざかって消えていく。


私は、夢でも見ていたのか………?



「お待たせ、これで最後よ」


妻の声にはっとしてテーブルを見ると、中央には飾り気のない白いケーキボックスが置かれており、その手前にはフォークが添えられた白い皿が待ち構えるように準備されていた。

そこへ妻は突っ立ったままの男に座るよう促した。


「ごめんなさい。今日はこれだけしか用意できなかったの」


「いや………別に構わないよ。それより………このケーキ………今日は何の日だったかな………?」


「あら、何か特別なことがないとケーキ作っちゃ駄目なの?私だって色々料理できるのに、特別な日だけなんて勿体無いじゃない………」


「ああ、まあ………確かにそうだね」


「だからね、本当はもっと色々ご馳走作って、あなたを待っていたかったんだけど……今まではりきり過ぎてたのね。ちょっと、待ちくたびれちゃって。もうこれまでのように色々準備する気力がないのよ………」


言われてみれば妻は少し疲れた様子だった。

それでも力なく笑う妻の顔を見て、男はとても申し訳ない気持ちになった。


「そうか………悪かったね、僕は君の優しさに甘え過ぎていたよ………」


我ながら自分自身の鈍感さに嫌になる。

愛する妻がこんな状態になるまで、全く気が付かなかったなんて………。

ずーんと重たい気持ちが男の胸に広がっていく。


私はなんて駄目な奴なんだ………昔から他人の心の機微に疎かった………相手の気持ちを察するのがとても下手で………言葉の意味を取り違えたり、良かれと思ってしたことがかえって相手を怒らせたり邪魔になったりと………やること成すこと裏目に出てばかり………。


こうして嫌なことばかり考えてしまうのだった。

何故、どうして、何が正しいのか………次々湧き出る疑問と後悔。

波のように押し寄せて渦を巻き、悲しいほど狭い頭の中をなみなみと満たしていく。

悲しいほど狭い、頭の中を………それは易々と溢れさせていくものだから、もうそれ以上は収まりきらない。

では、収まりきらない分はどうなるのか。

どうもならない。どうしようも無い。


『普通ならこうはならないのか?』


男にとって、普通というものほど難解なものはなかった。

男は常に、“普通とは何か”と考えていた。

少しでも普通に近づけるように………だが考えれば考える程わからなくなる。

そしてその内気付いたのだ。普通の人間は自分とは全く違う、別次元の生き物なのだと。

馬鹿げた考えだと自分でもわかっている。

けれど、そうとしか思えない。


同じ生物であっても、全く別の生き物なのだ。私は………。


「あなた………どうしたの?そんな難しい顔して………」


「あ、ああ………すまない。実は今朝からの記憶がなくて………何だか頭もぼんやりしているし………。ちょっと仕事の疲れが出ているんだろう………でも、問題ないよ」


それは本当のことだった。

何故なら今日一日、自分がどこで何をしていたか、いまだに全く思い出せなかったからだ。

あの突然夢から醒めたような感覚はまだ続いている。

もしかしたら………今朝家を出てからついさっきまでの間、ずっと眠っていたのではないか………そんな気さえしていた。


「あら、そうなの?疲れてる時には甘い物が一番よ。これを食べて元気出して。コーヒー、飲むでしょう?ちょっと待ってて」


妻の気遣いが心に沁みた。

部屋を満たすコーヒーの香りに、コーヒーカップとソーサーが小さくカチャカチャと鳴る音。

後ろからそっと男の肩に手を置いた妻に促され、男は有り難くケーキボックスの蓋を持ち上げた。


箱の中身は、空っぽだった。


「ごめんなさい。もう“あなた”で最後なのよ」

「最後………?」


それは、どういう意味だろうか。

ぼんやりとした頭で考えてもわからない。


「そうか………最後なら、仕方ないね」

「そう、最後。あなたは死ぬの」

「死ぬのか?」

「そうよ」

「そうか………それなら、仕方ないね」

「ええ、どうしようもないの」

「君が言うんだから、きっとそうなんだね」

「怖くないの?」

「さあ、どうだろうね………」


死ぬとはこんなにもぼんやりしたものだろうかと、男は思った。

恐怖心………絶望感………不安に思う気持ち………何もない。何も感じない。


「やっぱりあなたは変わらないわね。さっきみたいに難しい顔して、ずっと考え込んでるの。きっと、どんなに考えたって、答えなんて出てきやしないんでしょう?」


男は少し驚いて、妻の顔をまじまじと見た。

何故わかったのだろう。


「わかるわよ。私だって同じ。ずっとずっと、これまでの人生、なんで私なんか生きてるんだろうって、考えてきたもの………」


「憂子、君は………」


「私達、似た者同士だったのよ。なのに、どうしてかしらね。お互いに見えていなかった」


その通りだった。

男は妻の気持ちを何一つ理解していなかった。


何故?あれほど愛していたというのに………。

解らない。私は………妻を本当に愛していたのか?


「愛なんて自分勝手なものよ。相手の都合なんて知ったこっちゃないの。重要なのは、それによって得られるものがあるかどうか」


男は妻を愛する事によって、心の平穏を手に入れた。

それは心の奥底に閉じ込めていた、隠れた願望だった。

自分には一生叶わぬものと諦めきっていた………それなのに、ふとしたきっかけで手に入ってしまった。


普通の人が、当たり前のように、ごく自然にそうなると信じて疑わない、人としての幸福の理想形。


ずっと誰かに愛されたかった。

ずっと誰かのぬくもりに触れていたかった。

ずっと誰かと生きる喜びや悲しみを分かち合いたかった。

ただそれだけ。それだけのことが、どうして、これ程までに困難なのか………。

ただ、疲れた。今はそれしかない。


「もう、人間なんてこりごりだよ」

「そうね。あなた、人間に向いてなかったもの」

「いや、そうなんだか………そんなはっきり言わなくても………」

「別にいいじゃない。わたしだって向いてないんだから。あなたに負けないくらい」

「ははは………」

「なによ、そこはお世辞でもちょっとは否定しなさいよ」

「そう言って否定しようものなら、あなたに何が分かるのよとかなんとか、文句言うじゃないか」

「そうかしら」

「ああ、そうだよ」

「ふふっ」

「ふう………」

「あーぁ………ちょっと疲れちゃった」

「もう休むかい?なら、洗い物なら、僕が………」


「いいえ、違うの。そういうことじゃなくて、もっと、色々と………ううん、もう全部………。

そんなことより、もっと重要なことがあるの」


テーブルに向かい合って座っていた妻が立ち上がった。

少しふらつくようで、男は慌てて妻の体を支えた。

妻の覚束無い足取りに合わせて、男はゆっくり歩き出した。


妻はどこに向かっているのだろう?


男は何も訊かなかった。

このまま妻に任せていればなんとかなるような気がした。

そしてそれ以上、深く考えるのをやめた。

ゆっくりと思考を手放し、残る感覚でその束の間を捉えた。


がくりと力が抜け、膝から崩れ落ちた…………床に伏した男の身体を、静かに見下ろす妻の顔…………なんと、慈しみに満ちた眼差しだろう…………そこから零れた一滴が…………



ぱたり、



と、

男の頬を、撫でて………………



……………………。











――――妻は夫の首を抱えて、ゆっくりと立ち上がった。

自分の限界も、もうすぐそこまで迫っていると解っていたから。

夫のように身体が崩れたりはしないものの、どんどん身体に力が入らなくなっていく。

次第に手足の感覚がなくなった。

痛みは消え、全身に纏わりついていたはずの倦怠感も感じなくなった。

それでも這うようにして妻は前に進んだ。

耳も聞こえなくなった。

視界もどんどん狭まってぼやけてくる。

自分の身体の輪郭が背景と溶け合わさる心地に、最後に残った意識すら飲み込まれていく。


もうおしまい。

やっと、ゆっくり休める。


そして全てが暗闇に閉じ、沈んでいった。









「いらっしゃいませ。ようこそお越しくださいました」

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