春子と冬子

妹蟲(いもむし)

第1話 双子の春子と冬子



 双子の片割れが死んだ。


 私の目の前で、彼女は着ていた真っ白なワンピースを真っ赤に染め上げた。赤黒く染まっていくコンクリートを見つめながら、雑踏が一定の距離を挟んで目の前の彼女を包む。

 白く丸い額を落ちて行く鮮やかな赤色と同じものが私の中にも流れている。けれど、それはどうあがいても彼女のものでしかありえない。どうして流れているそれが、私のものではないのだろう。

 彼女と私は、同じものなのに。


「ああ……」


 身体から力が抜けてへなへなと地面に落ちた。倒れている彼女からどんどん血が溢れ、地面に小さな水溜りを作った。崩れ落ちた私の膝にもそれが触れる。生ぬるい。まだ、暖かい。

 見開かれた目は瞑られることもなく空を眺めた穴となった。

 目の前から、何もかもがなくなった。私は彼女で、彼女は私だったはずなのに。




 ***




 膝丈のマーメイドスタイルプリーツスカートをヒラリと揺らしながら、サテンの素材の紺色のシャツに腕を差し込む。ひんやりとしたシャツが肌に張り付いた。まだ肌寒い3月とは言え、窓から差し込む光はもう春のものだ。テレビのニュースも今日は暖かくなると言っていた。春もののトレンチを着て行こう。

 いつもと同じように、肩口のあたりでゆるく髪をまとめた。長い前髪はゆるく横に流す。真っ黒なその髪に触れながら、全身を写す鏡を見つめた。前よりも、少し前髪が伸びただろうか。

 今日は指がかじかんでいるのだろうか、鏡を見つめながらいつもと同じ髪型にしようとしているのにどうしても指がついてこない。こんな髪形、五分もかからず結っていたのに。小さくため息をついてから諦めて、少し高い位置で簡単にまとめた。

「出かけてくるね、春子」

 机に置いた写真に声をかける。これはいつ撮ったものだろうか、二人きりで撮った最後の写真だ。私の隣に着け睫毛に飾られた大きな瞳と真っ赤に濡れた唇が印象的な少女が笑っている。元気よくのばされたピースポーズと、その逆は一生はなれないようにきつく私の手を繋がっていた。

 確認するように繋がれていた左手を見るが、その手の中は空っぽだった。

 心が沈んでしまう前にその写真から目を逸らし、鏡に映る自分の姿に小さく指を滑らせた。写真の中の私と、何も変わらない。

 ベッドの上に放り投げた白いトートバックを肩にひっかける。一週間前まで二人部屋だったせいか部屋が妙に広く、そして静かに感じた。



 ゆっくり階段を下りれば、昼下がりの居間に父と母の姿が見えた。二人肩を並べてソファに座ってぼんやりと部屋の天井を見上げている。

「お母さん、お父さん」

 声をかけると、一瞬二人の目が不思議そうな色を浮かべた。が、母親はゆっくりと口元を緩ませた。

「お出かけ?」

「うん」

 声をかけてきた母が、さらに深くほほ笑んだ。母の隣に座る父親は、何か言いたげな瞳でこちらを見たけれど、飲みこむように視線を揺らすだけで何も言わなかった。いつもどおりのしかめ面を見たくなくて、こちらから目をそらした。


 母と父は、春子が死んでから憔悴しきっている。その二人の前で、一人悲嘆に暮れているわけにはいかない。もしここにいるのが春子なら悲しみに寄り添って一緒に泣けるかもしれないが、残念ながら私にはそういった寄り添い方は出来ない。

 少しでも元気な姿を見せて両親を励ますのが、私なりの慰めだ。

「お友達と遊んでくるね」

 いつも通り声をかければ、母は一瞬心配そうに目を伏せたが諦めたように口元を緩ませた。

「気を付けて」

「うん」

 いってきます、と気軽に声をかけながら靴を引っ掛ける。ぺたんとした平たい靴は私のもの。春子はいつも踵の高いピンヒールを好んで愛用していた。

 玄関の扉を押せば、小さくキィ、と音を立てて開いた。屋内独特の人工的な光から、穏やかな太陽の光の元へと降りていく。気温は冬の名残を残していたが、空から降り注ぐ太陽は春の足音を私の耳に響かせる。

 気持ちのいい風に鼻先がくすぐられる。太陽の陽気に誘われて頬が緩む。いつものように左へ目を向けた。


 一瞬だけ見えた笑顔の少女は、光に透けて消えていく。



「あ」


 そうだ。春子は、もういない。双子の春子は、本当にいなくなってしまったのだ。



 ***



 五分遅れた待ち合わせ場所の駅に急ぐと、二人の女の子がこちらを見て一瞬驚いたように目を開いて手を振って、すぐにその顔を暗くした。

 春子が死んでから、この二人はいつもそういう顔をする。仕方がない、この二人は春子とも仲が良かった。性格は真逆といわれてきたが、私たちの顔はよく似ている。私を見るたびに、そこに春子の影を見るのだろう。

 少し申し訳なくなりながら、私は精一杯の笑顔を作る。ぎこちなく、二人は私に笑顔を返してくれた。

「遅くなってごめんね」

「んーん、待ってないよ」

 リカが小さく手を振った。短いショートカットがふわりと風に揺れた。短い髪が似合うのは羨ましい。私も春子も、髪は長い方だったから。もう一人、長い髪を高い位置で結い上げた美雪はギクシャクした顔をしてこちらを見る。

 美雪は特に春子と仲が良かった。二人してお揃いのおおきなわっかのイヤリングつけて、双子ルックしたり。

 春子が死んで、私が生きていたのを確認した瞬間、声をあげて「冬子、冬子」と私に抱き付きながら泣いた。まるで私のことを責めているようにも聞こえて、本当に胸が痛かった。その声が、今も耳から離れない。

 そうだね、生き残るなら、私のような大人しくて何もない子より、姉の春子みたいな利発的で、活発で、おしゃれな女の子の方がよかったのだ。

 私は、そう思う。

「ご飯、食べない?」

 お昼を少し過ぎた頃だ。なんとなくぎくしゃくした空気に触れてそう提案すれば、二人は少し目を合わせてから、こくりと頷いてくれた。



 駅ビルの中のレストランをふらふらと三人で物色する。積極的にパスタがいい、と口にするリカが一つのお店の前で足を止めた。美雪が入口すぐ横にあるケーキやタルトの並ぶショーケースを覗いて目を輝かせた。

「ね、ここでいい?」

 リカがメニューに向けていた目をこちらに向ける。私は小さく頷けば、リカと美雪が目を合わせて困ったように小さく笑った。そういえば、春子抜きでこの二人に会うのは今日が初めてだ。

 そういえば春子って、こういうときにいつでも「ここにしよう」って決めていたように思う。そういうところ、私は羨ましかった。


 三人でそれぞれ思い思いのランチを食べる。物を食べる度思い出す。もう春子は、ご飯を食べられないのだと。ズキン、とスカスカと開いた左側が冷たく痛んだ。

「ねぇ」

 紅茶に砂糖とミルクを落としてくるくると回すと、リカが意を決したように口を開く。食事は終わって、三人で大学の何気ない会話をしていたときだった。

 先ほどまで楽しそうに笑っていた美雪の表情からも、す、と色が落ちる。

「な、なに?」

 ソーサーに置いたスプーンが、カチャンと小さく音を立てた。二人の視線のせいか、立ててしまった音が妙に大きく聞こえたが、周囲のざわめきにその音はあっという間に飲み込まれてしまう。


「コーヒー、やめたの?」


 妙に尖ったリカの声に言葉を飲み込むのが一瞬遅れた。

「え?」

「いつも、食後コーヒーだったじゃん」

 こてん、と首を傾ける。そんなこと、いつも私が選ぶのは紅茶で、コーヒーを選ぶのは春子の方だった。

 そこで初めて気付いた。


 きっとこの二人は私のことなど視界に入っていなかったのだ。

 いつも春子のことしか見ていなかった。四人でいても、私を見てくれていたのは春子だけだったのだ。春子がコーヒーを飲んでいたから、私もそうなのだとずっと思っていたのだろう。

 目の奥がちかちかとした。いつも春子はコーヒーの飲めない私に気を使って紅茶を頼んでくれていたのに、二人にはその記憶もないのだ。

 春子がコーヒーを飲んでいた、それだけだったのだ。そこに私の存在など介在していなかったのだ。

 それに気が付いて、だがその一方でやはり春子は私のたった一人の双子の姉で、私だけのものだと妙に胸の奥が疼くのを感じた。春子は私を見ていたくれた。春子は私だけを見ていてくれていた。だから私も、春子だけを見ていたのだ。

 私たちは、二人で十分世界が完成していたのだ。けれど今、ここに春子はいない。


「いつも、私は紅茶だったよ」


 そっと紅茶のカップを手に持って、両手でそれを包むようにゆっくりと口元に運んだ。ほんの少し心苦しい。二人を責めているように聞こえていなければいいけれど。

 渋さのある紅茶は、ミルクと砂糖でまろやかな味に変わって舌先をくすぐった。ああ、美味しい。


「違う」


 しかし、リカはいらだったように私の言葉を否定する。

 どうしていいのかわからず、私は紅茶を皿の上に戻しながら小さく目を伏せる。

 ごめんなさい、春子じゃなくて。

 その思いがうまく口に出来なくて、悲しさで指先がほんの少し震える。ソーサーの上に紅茶を置いた瞬間、その水面に波紋が残る。ミルクティ独特の、深く優しい香りが鼻孔を揺らしてすぐに消えていった。


「違うよ」


 もう一度、リカが言う。強い綺麗な琥珀色に見つめられて、私はどうしていいのかわからず膝の上で手をぎゅっと握りしめた。

 目の前がほんの少し滲む。

「リカ」

 優しい声が、窘めた。私のものではない。リカの隣に座る美雪の声だった。

 瞳を向けたリカに向けて、美雪はただ小さく頭を振った。リカは、何も言えずに口を強い力で噤んだ。そうやってリカの口をふさいだのに、美雪自体は何かを言いたげにこちらを見ているだけだ。

 その瞳が、生き残った私を責めるようで胸が痛くなった。

 仕方がない。春子の最期の瞬間、その交差点で一緒に立っていたのは私だったのだから。



***



 そんな状態で話が盛り上がるわけでもなく、春子の思い出を語れるわけでもなく、すぐに解散になった。日はまだ高い。

 妙に疲れた身体を引きずって私は帰り道を歩く。白いプリーツスカートがふわふわと膝の辺りで揺れる。お気に入りの服をせっかく着てきたというのに、心はそのスカートとは反対に沈んでいくばかりだった。


 胸の中がスカスカしている。やっぱり私には片割れが必要だった。

 一人で歩く帰り道は、私を突然孤独に突き落とす。この道はいつも二人で歩いていたはずだった。それなのに、一人だけ置いていくなんて。

 涙が滲む。水彩画の上で、筆から水を滴らせたようにぐじゅぐじゅに変わっていく。こういう気分のとき、いつも左側から手を伸ばしてくれていた。その手を探した私の手が、宙を彷徨う。

 いつでも私の隣で、ふわりと柔らかく笑顔を浮かべていた私の片割れは、どこにもいなくなってしまった。

 立っていることが出来ず、その場で膝を抱えてしゃがみこむ。お気に入りの白いスカートが地面に触れた。瞳からボロボロと生ぬるい涙が落ちて、そしてそのスカートの中に落ちては染み込む。


「ばかぁ……」


 目を必死に強く瞑りながら、瞼の裏に浮かぶ自分の片割れを必死に思い描いた。失敗すると、瞼の裏にすら涙が流れ込んできてその姿すら揺らいでしまいそうになる。


 あの白い肌と、美しい黒髪が、私は大好きだった。




 ***




 赤く濡れた自分の目を白いハンカチで押さえつけながら、引きずるように自分の家にたどり着く。扉を開ける前に自分の目元を確認しようとして、そんなこと私はしない、と考え直す。

 音を立てないようにそっと扉を開いて、家の中に滑り込む。外を寒いと感じることはなかったけれど、家の中に入ると妙に暖かい世界に包まれたような気がした。我が家独特の暖かい甘い匂いに、妙に胸の中が暖かくなる。


「春子」


 居間の中から、お父さんの声がした。

 そうやってまた、遺影になってしまった春子の名前を呼ぶ。その声に釣られるように、私も居間の中に足を進めた。頭の中がカァと熱くなる。目の前が赤く染まった。


「春子」


 お父さんが私を見る。ソファに座って、まっすぐにこちらを見る。私の想定は外れて、お父さんは部屋の端に置かれた仏壇の前にはいなかった。


「春子」


 もう一度、私を見ながらお父さんが呟く。白いプリーツスカートが、ふるりと揺れる。膝がガクガクと震えた。温度無くなった唇をかみしめる。

 呼ばないで。その名を呼ばないで。

 聞きなれた父の名前で呼ばれるその名前に、全身が震えた。立っていられなくて自分の頭を包むようにしゃがみこむ。キッチンで母が心配そうにこちらを見ているのに気が付いた。


 そんな目で、私を見ないで。



「冬子は、死んだんだ」



 そんなこと、私がさせない。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

春子と冬子 妹蟲(いもむし) @imomushi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ