第33話 外伝 ???之章③

 時間は朝の七時、専用のトレーディングルームでパソコンのモニターを眺めるところからハルコの一日が始まる。


「おはようございます!」


 扉の外からは若いハルコの部下達が元気に挨拶を交わす。その声にハルコは心の中でそっと呟きを返した。


「今日も、頑張りな」


 ハルコの下には十人程の部下がいる。だがチームといってもトレーダーというのは基本的に個人プレイだ。だから特別指示を出す事はしない。必達目標の数字を与えるだけなのだ。

 そして……駄目な者は消えていく。これはいくら頑張っても、努力や根性でどうにかなるものでもない、とハルコは思っていた。


 例えばハルコが眺める六つのモニターのうち左半分、そこには秒単位で株価や為替などといったデータが心電図の如きグラフを描く。その無機質な無数の線を分析すれば確かに勝率は上がるかも知れない。それは経験や技術といった類いなのだが、それだけでは駄目なのだ。


 すっと目を閉じたハルコがマウスをクリックする。その瞬間、モニターに映る線が激しく乱高下を始めた。


「あっは、駄目だな、今日は。反応が遅れたじゃないの」


 判断力、決断力。そういったものは所謂センスであり、一朝一夕に身に付くものではない。しかしトレーダーという仕事では皮肉な事にそれらセンスが非常に重要なファクターとなってくる。

 そして。


「運。こればかりはどうにもならないんだよね」


 運を掴む。それはトレーダーとして長年コンマ零秒、厳しい勝負の世界に身を置くハルコにして未だ手の届かない領域だった。


「だからは特別なんだよ」


 彼女の部下は総じて優秀である。努力だけではどうにもならない世界で、ハルコに喰らいついているのだ、当然であろう。


 だがそんな中でも彼はやはりだった。ハルコの知る限り、唯一といってもいい、その神の如き領域に足を突っ込んだ人間。夢島貫之である。


「運を掴む事が出来る人間なんて、そうはいないんだよ。私を含めて、ね」


 短くなった煙草を咥え、そう独り言ちたハルコがモニターの右半分に目をやる。

 と、そこには一目では意味を成さない奇っ怪な文字列が並んでいた。


「ったく。機関の老人どもときらた、偉そうなのは口ばかりで毎回毎回後手に回りやがって」


 暗号化通信。その二重、三重に鍵のかけられた内容は、ハルコを不機嫌にさせるに十分だった。


「いいさ、今回はあたしも動ける。久々に暴れまわってやろうじゃないか」


 言って口許が不敵な笑みを湛える。彼女が席に着いてまだ一時間足らず、目の前の灰皿は既に剣山のように、吸殻に埋め尽くされていた。



「失礼します、ハルコさん。お茶をお持ちしました」


「どうぞ」


 ガチャリ、とドアの開く音。視線をモニターに向けたままでハルコが応える。ハルコの為にお茶を淹れる、それがマチコの朝の仕事だった。


「おはよう、マチコ君……じゃ、無いね。誰だい、あんた!」


 ここで初めてハルコの顔が入口のドアに向かう。その表情には俄に緊張の色が張り付き。

 視界に映ったその姿は見紛う事なくマチコのそれ。なのだが……


「うふ、流石でございますね。貫之様が信頼を寄せるだけの事はあります。あなた様と言葉を交わすのは初めてでございますね」


 妖艶に微笑むその表情は既に普段のマチコのものではなかった。


「はん、そういう事かい。一つ確認なんだけど、マチコは無事なんだろうね。彼女に何かあったら、あんたも無事ではいられないと思いな」


 たとえあんたが誰であっても。とハルコ。それにマチコの姿をした女は一言で答えた。


「無事です」


 視線と視線がぶつかり、しばしの沈黙。やがて緊張感を伴うそれは、ハルコの言葉によって破られる。


「ならいいんだ。それで? 話を聞こうか。ええと、小野小町、でいいのかい?」


「貫之様から聞いていたのですね」


「まあね。それより、話を続けなよ」


 本当のところ、貫之はその話をハルコにしていない。しかし、それは二人にとって些細な事で。


「はい。その貫之様ですが、昨日から連絡が取れません」


 その言葉にハルコの眉がぴくりと動いた。


「それはマチコかい? それともあんたか?」


「どちらも同じ事です。ですが私はあの方を再びこちらの事情に巻き込んでしまう事を恐れておりました」


の事情ねぇ。本当に巻き込むつもりは無かった、と」


 それに小野小町は無言で頷いた。


「わかった。で、マチコはその事を知っているのかい?」


「はい。今この時も、彼女の意識は私と共にあります。私がここに来たのも半分は彼女の意志でもあります」


「そうかい。なら安心しな、マチコ。貫之のやつは、ありゃ放っておいても巻き込まれる。あいつはそういうやつだ。だからマチコ君が気にやむ必要はない」


 それはハルコが自分自身に向けた言葉でもあった。こうなる予感はあった。だからこれから事に当たろうという自分から離したのだったが。


 それが結局は無駄だった事になる。いや、それどころか機関の動きよりも早く、何らかの形で関わりを持つ事になっている。


 ――――ったく。相変わらずやがる。これだからあたしはあいつの事が大好きなんだよ。


 ニヤリという笑みと共に、ハルコは心の中で呟く。そして不敵な微笑みそのままに、つかつかとマチコに歩み寄った。


「行くんだろ、マチコ。だからここに来たんだろ。いいよ、一緒に連れていってあげるよ。早くあの馬鹿を探し出して説教の一つでもしてやらないといけないね」


「はい、ご一緒します」


「じゃあ、ちょっと待ってな」


 そう言っておもむろに上着を脱いだハルコは、ロッカーから一着のドレスを取り出した。紫の生地に金の刺繍が施されたそれは、所謂チャイナドレス。太ももの辺りまで伸びたスリットが彼女の長い脚を際だ出せていた。


 そしてその様子を見たマチコも、また上着を脱ぐ。既に着込んでいたのだろう、瞬く間に純白に朱が映える巫女の姿へと変わっていた。


「では案内してもらおうかね。その為にあんたはここへ来た」


 入口のホワイトボードに大きな文字で出張と書き込みながら、ハルコが促す。


「はい、ご案内致します。ですが、帰れないかも知れません。本当に宜しいのですか?」


「ふん、帰るさ。あたしが帰りたくなったら帰る。世界の一つや二つぶっ壊してでもね。その時は貫之クンも一緒さね」


 ハルコが笑う。つられてマチコもその白い頬を緩めた。


「さあ、出発だ。行こうか、マチコ君!」


「はい、ハルコさん!」



 それは綾川真理と黒野旧作が捜索を開始する少し前の出来事であった。

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