第5話 蝉丸之章⑤

 蝉丸さんの歌術『行くも帰るもゴーアンドリターン』、その華麗に彩られた門を出た先はなるほど僕の仕事場だった。日本橋の中央通り沿いに位置する『ニホンバシビルヂング』、この時代を感じさせるビルの三階が僕のオフィスだ。

 中は暗い、誰もいないのかな……いや。

 カチカチとキーボードを叩く音が微かに聞こえる。このリズミカルで軽妙なタッチはきっと室長のハルコさんだ。

 灯りも点けず薄暗い中央のフリートレーディングルームにはたして彼女は居た。僕は念のため蝉丸さんを召喚システムに戻す。

「ハルコさん! こんなところで何やってるんですか?」

 僕の声に、ん? と顔を上げるハルコさん。今日も咥え煙草が様になっている。

「ああ貫之クン、おはよう。何って仕事に決まってるじゃない」

 まあ職場に居るんだからそりゃそうだが、こんな時だっていうのに恐れ入る。

「呑気に仕事してる場合じゃないですよ、外がどうなってるか知ってます? 今、東京は大変な事になってますよ」

「知ってる。さっきもね、食料を買い出しに行ったら暴漢に襲われた」

 ふぅ、と紫煙を燻らすハルコさん。襲われた、ってあっさりだな、おい。

「大丈夫でしたか? それでその暴漢は?」

「ん? 貫之クン、見なかったかい? 下で伸びてるよ」

 ここまで蝉丸さんの歌術でやってきたので階下の様子は見ていない。それにしてもさすがは『喧嘩空手百段リアルファイトマスター』の異名を持つハルコさん、『詠人知らずアンノウン』如きでは歯が立たない、か。

 ちなみにこのハルコさん、僕の直属の上司にあたるわけだが、僕がこの会社に入社した時から既に『ハルコさん』で、どういう字を書くのか、そもそもそれが本名なのか、誰も知らない。総務部のデータには個人情報が載っているんだろうけど、これまでその情報にアクセスできたものはこの会社には一人もいないと聞く。社長を含めて、だ。

「貫之クンこそ、こんな時に会社に来るなんて見上げた根性してるじゃないか。サラリーマンの鏡だねぇ」

「ええちょっと用があったもので、いや仕事じゃないですよ、僕は。というわけでハルコさん、ちょっと見て見ぬふりをしておいて下さい」

 僕はハルコさんの隣に座り、フリースペースのパソコンから僕のトレーディング口座とマカペイをリンクさせる。

 僕が勤めるこの会社は様々な金融商品の販売やそれに伴った顧客の資産運用を手掛けている。僕はそこの専属トレーダー、つまり会社の金で日々パソコンのモニターと睨めっこし、会社のために小銭を稼いでいるというわけだ。今日は僕に与えられている会社の運用可能資金を自分のマカペイに流し込むためにやってきた。要するに横領、背に腹は代えられぬ、といったところか。

 作業を進めながらハルコさんにこれまでの経緯を説明する。

「ふぅん、君がそんな事になっていたとはね。君、どう見ても正義のヒーロー、主人公面じゃないのにね。まあ事情はわかったから大目に見てあげるよ。東京がこんなじゃ会社もどうなるかわかったもんじゃないしね。あ、ちょっと待って」

 そう言って自分のパソコンを叩き始めるハルコさん。

「よし、私のデータも貫之クンの口座に直結させておいた。今日の混乱で下落しそうな銘柄は軒並み処分したから少しは足しになるだろうさ」

 これは有難い。まあハルコさんの事だから処分と言いながら空売りを連発して相当利益をあげたには違いないのだろうが。

「助かりました、ハルコさん。また来ると思いますが、ハルコさんも気を付けて下さいね」

「ああ行ってらっしゃい、アタシの分まで頑張っておいで」

 ここはハルコさんがいれば大丈夫だろうと何となくそう思う。一杯になった灰皿に煙草を押し付けるハルコさんに別れを告げ、僕は再び天国の門をくぐった。


 次に僕が訪れたのはマツモトキヨシの黄色い看板が目印の池袋西口だった。当初の予定では会社から程近い東京駅まで足を延ばすつもりだったが、蝉丸さんのおかげで移動に事欠かないとわかった今、距離の遠近は関係ない。

 そうなると秩序の楽園とあった池袋にまずは興味が湧いた。池袋秩序管理局というのが何なのかはわからないが、共に手を取り合うというウェルカムな姿勢から、後鳥羽院に何か関係があるかもしれないと踏んだのだ。

 サネとノブの事も気にかかるのでまずは後鳥羽院とテイカーさんを探すことを僕は最初の目的に設定する。

 それにしても僕の印象では、池袋という街は法と秩序からは程遠い。どちらかといえば混沌に満ちている。昼も夜も騒がしい街、それが池袋のはずだったが。

「とはいうものの、この霧の中ほとんど人は歩いていないか。たった一日で変われば変わるものだよな」

「マスターよ、ここには詠人知らずアンノウンどもの気配は感じられぬ。じゃがそれはここが安全だという事ではない。油断するでないぞ」

 蝉丸さんにそう言われるとなんだか怖いな。そう思いながら辺りを見渡すと、一番街のアーケードに人影を見つけた。女性、かな? 僕は一番街の入口を監視するように佇む二人の女性に声をかける。

「あの、すみません。お二人はここで何を? いや、僕は怪しい者ではないですよ、ちょっと尋ねたいことがありましてね。後鳥羽院という名前に心当たりはありませんか?」

 相手を怯えさせないように僕は殊更優しく言葉を紡ぐ。うん、確かにそうした筈だったのだが。

「怪しい男だわ! 目元が怪しいもの、ねえ直ぐに管理局に通報して。そこのあなた、動かないで! じっとしてて!」

 ファーストコンタクトでこの言われようは酷い。僕の目元はこれは生まれつきだ。おっと、そんなことよりちゃんと弁解しなければ。

「ああ動きませんけどね、ちょっと僕の話も聞いてくれませんか? ほら、何もしませんから。貴女は秩序管理局というのをご存知で?」

「…………」

「さっき管理局に通報とか何とか仰ってましたよね。それ秩序管理局のことですか?」

「…………」

 駄目だ、全く埒が明かない。そうしていると向こうから新手の女性が数名こちらに走ってきた。皆黒い制服に身を包み警棒のような物を持っている。婦警さんかしら。

「貴様か、怪しい人物というのは! ああ、確かに怪しい風貌をしているな。そっちの爺さんは……え? お前、その爺さんは詠人ではないのか!」

 僕の額にぐいぐいと警棒を押し付けてくる。嫌だな、乱暴な女性は嫌いだ。しかしどうやら彼女、詠人の事を知っているようだ。

「ええまあ、詠人というんですかね、でもお爺ちゃんですよ。ほら優しそうな良いお爺ちゃん」

「貴様、詠人召喚士ポエトマスターか! これより正体不明の男を一人、本部に連行する。おい貴様、抵抗せずについてこい」

 脇で様子を見ていた蝉丸さんが目で合図を送る。しかし僕はそれを片手で制した。確かに蝉丸さんの力ならこの状況を打開することは容易いだろう。だが相手は多少乱暴ではあるもののおそらく正気の人間だ。地獄の門に吸い込ませてしまうのはあまりに忍びない。

 それにどうやら何処かに連れていかれるだけのようなのでもう少し展開を窺っても大丈夫だろう。

「わかりました、大人しくついて行きますから、乱暴はしないで下さいね。僕、痛いのは苦手なんです」

「ふん、女々しい奴だな、いいから来い!」

 そして一行は東口へと線路を越え、サンシャイン通りを進み、目的地と思しき建物に辿り着いた。ってここ、確か某アニメショップじゃなかったかしら。

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