汚い花火

 初めまして。

 突然の手紙となってしまったことについて、まずお詫びいたします。

 私にとってあなたは初めてお会いする方になるものの、あなたにとって私はもしかしたら初見ではなく、もう少し親近感を持たれている相手なのではないかと思います。

 申し遅れました。

 私は現在の日本国の首相をやっている者です。

 分かりますよ。

 そんな立場の人間から手紙をもらう義理などない、もしかしたら詐欺かもしれないと訝しんでおられるでしょう。

 これが本当だとして、一国の首相から謝罪されることに心当たりはないと思われているのではありませんか?

 しかし、これにはきちんとした理由があるのです。

 謝罪させてください。

 私には止められませんでした。

 たった一つのことを止められなかったのです。

 驕り高ぶりだと思われるかもしれませんが、一国の首相たる私に止められないものなどないと思っていました。

 敵対する野党の追及を止めるのは日常茶飯事ですし、記者の面倒な質問も睨みつけて止めてきました。

 長く続いた不況も止めて世間は好景気へと向かっています。

 緊張が高まった大国と核保有国の間をかけ持って、戦争まで止めた経験があります。

 そんな私ですが、止められなかったことがありました。

 娘のおむつ交換です。

 その時、目の前ではしゃぐ娘から漂う臭いでうんちをしたことを認知しました。

 妻は外遊という名の旅行に出かけていて不在です。昔とは違うので、雇っているメイド等という存在はいません。

 秘書は任せた仕事のため全員が遠方で、呼び戻したとしても、最短で二時間はかかってしまいます。

 外で待機しているSPを使う手も考えましたが、あのむすっと苦虫を噛みつぶした顔の警察庁長官とは話もしたくありません。

 やむなく私は娘のおむつ交換を決意しました。

 幸いおむつセットが近くにあったので、見よう見まねで手を動かしました。

 匂わないという防臭のビニール袋を出し、替えのおむつとお尻拭きを手に娘を抱きかかえました。

 ですが、娘が暴れたのです。

 まだ二歳にもならない娘はおむつ交換が何よりも嫌いだったのです。

 テレビに出演した野党の党首を見て泣き出した時よりも激しく暴れました。

 それでも何とかズボンを脱がすと、おむつのギャザーからうんちが滲んでいるのが見えました。

 もはや一刻の猶予もありません。

 替えのおむつを敷き、その上に娘を寝かせて着けているおむつを破くと、それはそれは見事なうんちが姿を現しました。

 娘の動きも大人しくなったのです。今しかない。

 お尻拭きを手に取ってうんちを拭っていたその時。

 私のスマホが鳴ったのです。

 見ると官房長官からでした。

 こんな時に電話なぞかけやがって。そんな悪態をつく直前、今度は着信音を聞いた娘が再び暴れ出してしまったのです。

 両足を持って何とか抑え込もうとしましたが、一歳児の力は侮れません。しかもその股は茶色く汚れているのです。

 官房長官からの着信も止まりません。

 私を苦しめて楽しいか。そんな言葉が出てくるのを飲み込みました。

 大きな政争もなく、野党の攻勢も小康状態となっている今、この時間帯に官房長官が電話をかけてきたということは、緊急の案件に違いありません。

 ですが、私はこの手を、おむつ交換をする手を止めることはできませんでした。

 今、電話に出てしまえば、娘はそのまま立ち上がって、うんちで床を汚してしまうのです。

 そんな大惨事を起こしていいのでしょうか。

 悩みました。

 あの大臣を更迭した時よりも、緊急事態宣言を出した時よりも深く悩みました。

 しかし、一国の首相たる者が、いくら私邸とはいえ娘のうんちを床に撒き散らかしたとなればスキャンダルです。

 野党から「娘のおむつ替えもできない男に国を任せられない」と不信任決議案を出されてしまいかねません。

 そうして電話は鳴り止みました。

 着信音がなくなったことで落ち着いた私は娘のおむつ替えも順調に終わらせましたが、今度は娘がお腹が空いたとまた暴れ始めました。

 仕方ないためニューオータニの支配人に電話をして特製ランチを届けてもらい、娘と二人だけの少し遅いランチを味わいました。

 もう電話がかかってこなかったので、官房長官の用事も大したことがなかったのでしょう。少なくとも当時の私がそれを知り得る状況にはありませんでした。

 しかし、状況は最悪だったのです。

 やっかいなウィルスがこの日本に入り込んだという報告だったのですから。

 官房長官率いる特別対策チームが総力を挙げて調査したところ、日本で感染したのはあなただけだということが分かりました。

 そして感染してから一日以内であれば効くという特効薬があったことも、後々知らされたのです。

 その接種にかかる金額は約一億円。安くはありませんが、高くもありません。

 問題はどうしてあなたが感染したのか、という点です。

 正直にお伝えしましょう。

 政府の不手際です。

 そのため官房長官はあなたに特効薬を接種しようとしたのですが、一億円という微妙な額のため私に指示を仰ぎ、それで電話をかけてきたのです。

 結果はどうだったのか。もうご存じかと思います。

 そんな注射をした覚えはありませんね? 当然です、実際にしていないのですから。

 すみません。私が娘のおむつ替えで手一杯でなければ、ゴーサインが出せていたはずなのです。

 そういう経緯で謝罪の手紙をしたためました。

 お怒りはもっともだと思います。

 この感染症の怖いところは、まるで爆発するように亡くなるという点です。

 タイムリミットはあと一日です。

 今はお一人で過ごされていますでしょうか? それともご家族と?

どちらでも構いませんが、見張っているSPが時間になったらあなたを回収し、収容所に連れていってもらうことになります。

 もちろん強制です。

 え? なのにどうして手紙を送ってきたのか?

 そんな疑問がおありでしょう。

 もちろん理由があります。

 謝罪した事実をもってこの件をクローズとしたかったからです。

 心残りとまではいきませんが、ふとある瞬間に「可哀想なことをしたな」と思い出したくないためですよ。

 私の今後の人生を豊かに過ごすために必要なのです。

 何かご不満がある場合は、どうぞ官房長官へお知らせください。

 彼が次の首相ですから。

 それでは、失礼します。

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